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2011年1月

成増小学校(ただし米国立)のセレブちゃん達。

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 皆様、新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
天候に恵まれ、板橋区内各所の初詣スポットは賑わっておりましたが、元日の板橋サティはガラガラでした。ちょっと前の年まで周辺道路は激混みだったのですが‥。板橋区民の行動の潮目が替わったのか、はたまた小豆沢に出来たセブンタウンに流れたのか‥

年明け第一弾は、前回に引き続きこんどはグラント・ハイツにあった成増小学校の写真の紹介を。ということで、成増高校の写真は卒業生サイトがあるのでわりと目にしますが、同時に開校した小学校の写真はあまりみかけませんね。掲出の写真は、米国メリーランド州にある国立公文書館新館(通称NARA2)が所蔵しているグラント・ハイツの写真の一部で、私が趣味で訪れて複写したものです。アメリカは心の広い部分があって、公開された公文書や写真は、営利目的でない限り出典をあきらかにすれば基本的に使用しても良いことになってます。(ただし、他人の複写してきたものを勝手に引用する事は不可)
最近はさぼってますが、公文書館所蔵のグラント・ハイツの写真はこれからもたまにこのブログでUPしていきますね。

さて、左の写真ですが、ボーイスカウトみたいな制服を着た生徒が立ってますね。その前で、先生らしき女性が歌の指揮でもしているのでしょうか?バックにはグラント・ハイツの象徴、ボイラー工場の煙突が写ってます。ここで作られた蒸気はオフィスや学校や各家庭に送られ、24時間暖房やお湯が出るという当時の日本人にとっては夢の様な生活が出来たんですよ。真ん中の写真は、前に座っているそばかすの女の子の髪を引っ張る少年、と言ういかにもヤンキーな絵ですね。この頃、上野駅地下道には戦災で家族や行き場を失った浮浪孤児たちで溢れていたというのに(涙)、戦勝国の余裕を示してくれます。右の写真は、グラント・ハイツを出発するスクールバス。前幕に「SCHOOL 18 ROUT」とありますね。都内や埼玉県の各所を回っていたのでしょう。ドアには定員数が書いてあり、シートは20名、スタンドは5名と記載されてます。バスの運転手はガラスが反射して見えにくいので日本人か米国人かはわかりません。この型のバスは、都営バスでも一時使われていたような気がします。

いや〜それにしても、とても60年前とは思えない写真ですね〜。こりゃ戦争に負ける訳だわ。というか、この何年か前までここは鬼畜米英に燃えた成増飛行場だったわけで‥アンビリーバブルですな。

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☆なりますようちえん☆(ただし米国立)

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 いや〜新年を迎えてから寒い日々が続きますねえ。近年としてはめずらしいような‥ さて、グラントハイツ学校シリーズのついでに、幼稚園(保育園か日曜学校かも知れませんが)の写真もUPします。

 前回も書きましたが、この写真見てると完全にアメリカ国ですね。当時はどうだったかわかりませんが、たしか日本国内の米軍基地は、住所的にはカリフォルニア州と表記されると聞いたことがあります。(例えば、福生基地から米国本土へ飛ぶ旅客機は米国内線と同じ扱いだったような)敷地の外に出ると大根畑の広がる練馬区なんですけどねえ。
NARIMASU HIGH SCHOOLの同窓会サイトの写真を見ると、大根畑の農作業とか、よっぽど珍しいのか肥桶を積んだ馬車が川越街道を行く姿がスナップされたりしてますね。アメちゃんは、肥料に人糞を使うなんて不潔でアンビリーバルな行為だ!!とだいぶお怒りだったとか。詳しくは知らないけど、便所から汲み取ってそのまま畑にばらまいていたわけではないと思うんですが。。アメリカの農業は巨大なので、人糞肥料を使うなんて効率の悪いことはしないし、畑に直接排泄物をぶちまけるイメージしかないのでしょう。でも現代の日本人だったらアメちゃんと同じ感じを持つでしょうねえ。植物から作った堆肥ですら臭い・汚いと思うんですから。そうそう、この当時、徳丸にも肥料工場があったんですよ。私の知り合いのお宅がそうで、最初はもっと都心(昭和初期の話)にあったけど、近隣住民から匂いの苦情が絶えず、人家の少ない徳丸に移ったのだとか。でも、私が子供のころにはすでにやめてましたね。やはり苦情が原因で。小学校の頃、風向きによっては相当きっつい匂いが漂ってきた記憶がありますが、あれは近くの豚舎からなのか堆肥のにおいだったのか‥いやあ、今では想像もつきませんが、ほんの少し前まではほんとローカルな地域でした。と、だいぶ写真とは違う話になりましたが、今日はこの辺で。

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2011年新春スクープ速報!☆幻の啓志線の線路出土!!枕木もあった☆

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 さ〜て新春スクープ第一弾!!ということで、全国1千万啓志線(ケーシー線)ファンの皆さん、とうとう出ましたよ。いつかはこの日が来るんじゃないかと思ってましたが、いや〜ありましたねえ。

 出土場所は、成増陸軍飛行場なき後、帝都防衛の任をまかされた、陸上自衛隊普通科第一連隊のある練馬駐屯地の敷地内からだ。まあ、遺構があるとすればここしかないと思われていた場所なんで、出るべくして出たといった所ですかね。実は、出土したのは昨年11月下旬で、川越街道に近い外塀の改修工事中に土中から発見された。もともと線路の通っていた場所ではなく、廃線になった後に外塀の土台として再利用されたようだ。現在は倉庫の片隅に保管されている。写真(一番左)で見るように状態は良い。
前に「啓志線について考察してみる。その4」で紹介した「顕彰碑」の建つ築山に架けられた、廃レールを使用して作られたと思われる橋のレール部分(一番右の写真)と比較すると、長さは違う(256㎝と352㎝)が、形状の大きさはピタリと一致した。前回の調査の時は時間がなくて調べられなかったが、レールの側面に記号が確認出来たので、これが解明出来ればレールの由来がわかるかもしれない。現在、調査中ですので結果がわかればすぐにUPしますね。

さて、枕木ですが、昨年、絶滅から70年ぶりに発見された”クニマス”のニュースがありましたね。もともと西湖の漁師は昔から”クロマス”と呼んでいて、さかなクン等に指摘されて初めて気がついたとか。これと同じシチュエーションで、由来もわからず(気にされず)ずっと自衛隊内で使われていたものが、線路撤去後に再利用していたことを知る自衛隊OBの方から指摘されてわかったということだそうです。
残念ながら、撮影時は機密を要する他の部隊が枕木のある場所に展開していて、回りをうろついたり写真を撮るのは不可とのことで、唯一撮影出来たもの(状態が悪いですが)をUP。状態の良い枕木は、移動出来るコンテナの下に敷いて利用されていた。ただの木ではなく、内側が金属で補強されているのが特徴なんだとか。中には焼き印の入ったものもあるそうで、それが確認出来れば由来もわかるかもしれない。また後日見せていただく予定だ。

それでは、とりあえず今日は発見の報告のみということで。お手を煩わせてしまった、自衛隊広報部の方々には心より感謝申し上げます。

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啓志線の線路を解明してみた☆

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 全国1千万啓志線(ケーシー線)ファンのみなさん、お待たせしました!とうとう、線路の秘密がわかりました!!

 先日撮影した写真を、いつもご助言をいただいたりお世話になっている、元交通博物館学芸員でおられた佐藤先生に送り、鑑定をお願いした所、さっそくご回答をいただいた。と、その前に、先生のご紹介を。
佐藤先生は万世橋の交通博物館が閉館となるまで長年の間学芸員を勤められ、「歩く鉄道図書館」または「生きている鉄道博物館」と呼ばれるほどで、例えわからない質問でも、その答えを得るための道筋を指示してくれるまことにすごいお方なのである。本来ならば私自身で調べなくてはならないが、やはり権威ある大先生に鑑定していただいたほうがハクがつく、というもんで、無理をお願いしてしまった。佐藤先生、どうもありがとうございます。。
というわけでさっそくその所見を・・

まず、製造年は「2604」と読めることから、これは”皇紀2604年”という意味で、すなわち1944年、昭和19年製と判断出来る。今の人はほとんど知らないと思うけど、神武天皇即位の年を元年と定めると、1940年がちょうどそれから2600年目にあたることからた決められた紀元だ。 正式には「神武天皇即位紀元」という。この時代、米国との戦争も辞さずという気運が高まり、毛唐の作った西暦なんかまかりならん!といったかどうか、皇紀を使用してたんですね。で、次に製造所ですが、これは八幡製鉄所(この時期は日本製鉄)だそうです。OHの記号は平炉(塩基性平炉)で精製されたことを示すんだそうですよ。30の記号から、1mあたり30㎏の重さのレールとわかる。このタイプのレールはおもに明治時代に使用されていた規格だそうで、重くなるほど断面も大きくなり、重い列車が走れるのだそうだ。私見だけど、戦争末期で物資の節約から規格を落として作られたレールを使ったのかもしれませんね。
上板橋から陸軍練馬倉庫までの貨物線がいつ敷設されたのかは不明(「東武鉄道100年史」によると1943年)ですが、このレールが敷設当時のものと仮定すると、1944年はサイパン島が攻略され、東京への直接空襲が可能となった頃で、北区にある陸軍第一造兵廠の物資を分散隠匿する必要が増えたから急きょ敷設されたのではないかな、なんて思います。徳丸の崖なんかに物資隠匿用の洞窟がいくつも掘られてましたね。私の子供の頃にはまだ残ってましたよ。

いや〜1本のレールからいろんなことがわかるもんですねえ。動画もUPしましたからご覧下さいまし。ちなみに、この線路橋は川越街道から見えるけど、くれぐれも柵にカメラを突っ込んで撮影をしないで下さい。監視用の赤外線に感知されると重装備の警備隊が飛んできますから。

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啓志線の謎を解明する!☆枕木篇☆その秘密に迫ってみた‥

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‥が。
 
 全国一千万啓志線ファンの皆様!ようやく枕木の写真が用意できました!!
と、いうことでさっそく公開。場所は、説明しづらいですが中に入ってわりとすぐ近くにあるコンテナー置き場の所だ。詳しく明かせないのは自衛隊様に配慮してのことなので悪しからず‥。あ、でも年に数度ある基地の祭りや公開日に見ることは出来るかもしれませんね。

それでは解説といきましょう。左の写真、枕木の断面に金属の輪がはまってますね、これはもう片側にもありますが木を貫通しているわけではないようです。元交通博物館学芸員の佐藤先生によりますと、この金属の輪は枕木の割れを防ぐためのもので、これをもってしてこの木材が枕木である事を証明出来るのだとか。
さてさてさて、問題の焼き印ですが、レールの時のようにどんな歴史を語ってくれるのか‥佐藤先生に聞いてみましょう。


「先生、この焼き印は何を表しているのでしょうか?」
佐藤先生
「わかりません。」

「え、でもこれだけハッキリ読めるじゃないですか」
佐藤先生
「枕木に関しては研究者もいなければ解説された書籍もありません。」

「どうにかして調べる方法はないんスか?」
佐藤先生
「ないですね。<きっぱり>」

以上、ホント申し訳ないですが、大先生をもってしてもわからないそうで、当記事をご覧の鉄道研究者の方、もしもピンとくることがありましたら是非、お知らせ下さいませ。古レンガだと「産業考古学会」などで研究されているんですがねえ。
これから鉄道研究を目指す方は「枕木の研究」をお勧めします!研究の前例がないようですので、先行研究者として名を上げることができるかも!!

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