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2010年10月

☆板橋区民、越前大野で喝采を浴びる☆

20101201022010320104 この三連休、皆様方はどう過ごされましたか?晴天の特異日であるはずのこの時期にしては天気の良くない日が続きましたが、そんな中、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」の一行は、はるばる福井県は越前大野市で華々しく開催された「越前大野城築城430年祭」の記念パレードに特別ゲストとして招待され、大野市民1400人による大パレードに参加し、途中、日本で唯一の西洋式調練を大野市民37000人の見守る中、堂々と披露した。

 なんでまたはるばると越前大野市にまで遠征を・・・と、いうのはですね、幕末時に大野藩主だった土井利忠さん(藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を上げ、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君といわれる。)が、天保十一年(1840年)に、小浜藩の医者杉田成卿を江戸藩邸に招きヨーロッパの事情を聞いたのをはじめ、家臣を江戸・京都・大坂方面に送り、西洋の医学や砲術などを学ばせるなど積極的に新しい知識を吸収しようとしたんですね。
利忠は家臣に最新の高島流砲術を習得させ、弘化三年(1846年)には、性能の最も優れた大砲をつくらせました。そして、新田野(木本野)で五十発の早射ちをおこない、また鉄砲も盛んにつくらせ、安政三年(1856年)には、大野でつくられた鉄砲数十挺が江戸に送られ、幕府の警備にあてられました。嘉永6年(1853年)のペリー来航後は、内山隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図った。また、内山隆佐に大砲の鋳造を命じ完成させた。安政元年(1854年)3月におおがかりな洋式訓練を行い諸藩の評判となった。
と、言う歴史的経緯があり、我らが西洋流鉄砲隊の出陣と相成ったのですね。前にも書いたけど、銃を使う空砲演武は、どんなイベントでも出来るというのではなく、このように歴史的事実が裏打ちされなければ見せられないんですよ。

こういう言い方は失礼ですが、福井市から電車やバスで約50分ほどの距離にある、北陸の山間の盆地にある大野市は、大きな商店街もなく道行く人もまばらで、マックやケンタやスタバ、吉牛や松屋などおなじみのチェーン店もない、それはそれは小さな街です。しかし、街には豊富で良質な地下水が溢れ、その水音が街中を満たし、また、まわりを緑豊かな山々に囲まれた、非常に穏やかな所でした。パレードは10月10日に行なわれ、沿道は一目パレードの様子を見ようと人々が押し掛け、地元の人でさえ、この街でこんなにたくさんの人を見たのは初めて!!と言わしめたほどでした。特に鉄砲隊の演武には人が集まり、演武に支障をきたすほどの状況でした。また、空砲音の凄まじさを初めて耳にした方も多く、驚きの声と、一拍遅れの大拍手を送っていただきました。出演した鉄砲隊も感激の面持ちでしたよ☆

さて、そんな越前大野市演武での興奮もさめやまぬ今週16日土曜日、いよいよ本拠地・板橋区でのお披露目が行なわれる。場所は大山駅近く、養育院とグリーンホール間のメイン会場路上、午後2時10分から35分にかけてだ。当日はこちらも人波で埋まるので、早めの場所取りを!!

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速報☆2010 板橋区民まつり 西洋流火術鉄砲隊演武☆

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 いや〜すっかり風邪引いちゃいました。なので頭が働かず、速報でもないのにタイトルに速報といれちゃいました。

10月16日、もはや恒例となった板橋区民まつりでの西洋流、おっと、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会による空砲発砲演武披露の様子です。先週の越前大野市での演武披露の疲れも見せず(不発した人もいたので疲れているのか・・)たくさんの板橋区民の見守る中、堂々の演武披露でした。最近、発砲に慣れて来たせいか、沿道の観客の皆様方の拍手が少なく感じますネ。たくさんの拍手があればあるほど隊員もハッスルしますので、是非盛大な応援をよろしく!!

☆10月31日に演武が予定されていた「高島平まつり」は、台風接近のため中止となりました!!

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2010・旧成増会靖国神社昇殿参拝にて。

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 今年も、旧成増会有志(成増陸軍飛行場関係者有志による戦友会・成増会は5年前に解散)による靖国神社昇殿参拝の日が来た。参拝は19日だったが、いつもはもっと早い時期に行なわれる。実は幹事の方の勘違いで、靖国神社秋期例大祭のこの日と間違えて連絡をしてしまいそのまま執り行われた次第で、まあ、私としても例大祭に出たことはなかったので、なかなか興味深いことではあったし、鎮魂の日としては間違いではない。
今回も当時の関係者として、大阪から一楽さん(元桜隊将校空中勤務者)、宇都木さん(本部付き将校・47戦隊の戦闘詳報の記載など事務方担当)、白石さん(元富士隊機付き整備兵)、高橋さん(元旭隊機付き整備兵)、堀山さん(成増編成・第194振武隊長)が出席された。ことしも皆さんのお元気なお姿を拝し、とても嬉しいことでした。

 参拝後は市ヶ谷駅近くの「偕行社」の喫茶室で昼食を取りながら雑談をされるのが慣例だったが、ここ2年程はそれぞれ都合が悪く、すぐに散会となってしまっていた。しかし、今年はいつもは別行動をされる(理由は後に記述)一楽さんも参加され、みんな揃って「偕行社」へと向かった。昔を知る方にインタビューをする際、一対一で話を伺うと、質問したことに答える形式になるので、なかなか話が続かない場合がある。しかし、当時の仲間達との会話では、同じ時代に同じ空気を吸った仲間同士なので、話がとてもはずむ。それぞれの記憶を補い合い、思わぬエピソードが出てくることもある。今回の話の内容はまた後日にでも書いてみようとおもうが、47戦隊内で猿を飼っていたエピソードは面白かった。なんでも、戦争初期の独立飛行47中隊時代、仏印進駐から内地帰還した時に連れて帰って来たのだそうだ。今ならワシントン条約だの検疫だの大変なことだけど、なんともおおらかな時代だったんですね。

昼食をはさんで1時間半程「偕行社」で昔話を楽しんだ後、皆、名残惜しそうにまたの再会を約束して別れた。しかし、一楽さんにはこれからまだ向かう所がある。毎年、靖国神社に参拝した後、必ず行く場所だ。それは、戦争中、成増飛行場にいた時代、一楽さんのいた桜隊のピスト近くに住んでいた、ある方に会いに行くのだ。その方はIさんという女性の方で、現在は池袋に近い老人施設で暮らしておられる。お歳は一楽さんよりも一つ年上で、90歳に近い。もう家族の方も亡くなり、たった一人で、この施設で暮らしておられる。数年前に足を骨折し、最近では寝たきりに近い状態になってしまった。かつて戦隊の空中勤務者だった一楽さんは、飛行機好きのIさんの弟と仲良くなり、いつしかお宅に親しく遊びに行くようになったのだそうだ。そして、戦争が終わった後もその交際は続いた‥ということはもう70年近くのおつき合いということで、これはまたすごいことだ。いつもは参拝が終わったらすぐにお見舞いに行くのだが、今年は手違いで時間が早まったこともあり、皆とビールを飲みながら話し込んでいるうちにアルコールが進み、普段でも危うい足取りがさらに怪しくなったので、帰りの方向が一緒な私が一楽さんに付き添った。Iさんは、一楽さんの訪問を心から喜び、寝たきりながらも「カツ丼でも取りなさい」とかいろいろと気を使われる。友人達も年を取り、見舞に訪れる方もほとんどおらず、さみしい思いをされているのだろう。それでも、学生の頃のお友達から最近ハガキがきたのよ、と一楽さんに見せる。
Iさん:「でも、私、目が悪くなって読めないの」「じゃあね、私が代わりに読んであげる」と一楽さん。すると、一楽さんは大きな声でハガキを読み上げる。「もう一回読んであげようか」と言い、結局四回もハガキを読んであげていた。そして、しばらく想い出話を楽しんだ後、それじゃあ、帰りの飛行機の時間があるからと一楽さんは席を立つ。その時、壁一面に貼ってある、今は亡きご家族の写真を見ながら「ああ、あの頃はみんな生きてましたのになあ」とつぶやくように言うと、「ねえ、また来年も来て下さいよ‥きっとよ。私、それまでに体を治しておくから‥」とIさんが声をかける。その場にいた部外者の私は、なんだか胸が締め付けられるような気持ちがして、とてもいたたまれなくなったのですよ。なんだかな、人生の重みと言うのかな、いろいろな感情が瞬時に沸き上がって来たのでした。。

その後、案内してくれたお礼にと、池袋の西武デパート8階のリニューアルしたレストラン街の蕎麦屋でご馳走していただき、そこでまたビールをのんでちょっとふらふらしている一楽さんをJRの乗り場まで案内してお別れした。大丈夫かな、と思ったが、あとで「羽田に着いてチェックインしたで」と電話をいただいたので、安心をした。新幹線の方が楽なのに、やっぱり飛行機が良いのだそうだ。今度、また大阪のお宅へ伺いますね。


 それでは、47戦隊の戦友が集まり、どんな感じで話をしているのかを、ほんの少し動画でお見せしよう。内容は、成増飛行場の上空でB29に体当たりをした幸軍曹の話、終戦直前、山口県の小月基地に駐屯中、グラマンの奇襲攻撃に遭い、ベテラン空中勤務者達が次々に撃墜されたときの話など。

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