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2010年8月

☆終戦記念日☆〜空襲で焼けた下板橋駅は本当に下板橋駅なのか?〜

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 またまた更新の間隔が空いてしまいました。8月に入ってすぐ、我が愛機、初代MacProが4年にわたる酷使とこの夏の暑さで、とうとう画像を表示しなくなってしまったもので‥(おそらくグラフィックカードが昇天か)。思い切って新しい機種を導入しますので、今回はMacBookでUPします。‥などとくだらない理由はさておき、今日は65年目の終戦記念日ですね。昼過ぎに光が丘の「平和の碑」を訪れてみましたが、真夏の強い日差しを浴びながらその存在に気を止める人もおらず、ひっそりとたたずんでおりました。。

 さて、本題に移ろう。前回、板橋区立郷土資料館で”戦後65年〜板橋の戦争と銃後〜展”が始まったことを告知しました。その中で、展示の目玉として、「戦時中、警視庁に勤めていて空襲の被害写真の撮影を唯一公式に認められていた石川光陽氏が板橋区で撮影した写真と、昭和20年8月10日の空襲で爆撃を受けた志村三丁目の工場の様子が撮影された写真だろう。石川氏の写真は昔から区の刊行物で使われていたが、このたび全ての写真を正式に買い取った。」と言うことを紹介しましたね。で、最後に「そのせいでちょっと問題が起こってしまった‥」と結びました。今回はそのことについてふれようと思います。

石川光陽氏から権利を購入した写真は、大きく分けて「空襲で焼け落ちた下板橋駅」「炎上中の志村第四国民学校」「空襲直後の志村坂下付近」の三種類がある。そのうち”下板橋駅”の写真が問題なのだ。この写真は、1980年代以降に板橋区の刊行物で紹介され始めた。元は「ドキュメント東京空襲」という本に掲載されていたようで、そこから複写して使用していた。私はドキュメント〜は未見なので推測なのだが、そこに下板橋駅とキャプションで紹介されていたのだろう。今回、正式に石川家から写真の使用権を得た際、新たに、オリジナルネガよりプリントを行った。撮影は35ミリフィルムが使用されている。後日、プリントされた写真を見たとき、お??なんかおかしいぞ‥との感じを抱いた。それは、今まで紹介されていた写真では、焼けただれたホームと思わしき所を中心としたもので、今回のオリジナルプリントはノートリミングのプリントであるから、紹介されてきた写真ではカットされていた部分が写っている。それが左側に掲示した写真だ。(撮影が変な角度からなのは事情をお察しください‥スナップ撮影は資料館の許可を得ておこなっております)まず、照明器具のついた高い鉄塔が三本見えますね。これは夜間作業用の照明設備で、大きな操車場などに設置されるものだ。もう一つは、架線が見当たらない。空襲による火災で燃え落ちたとしても、残骸や架線柱は残るのではないか? それと、背景には住宅らしきものが、ちょっと高い位置に連なっているように見える。下板橋駅周辺はこんな地形ではない。一見しても、これらの疑問が出てくる。下板橋駅は機関車の入れ替え設備もあったし、国鉄(省線)との貨物をやりとりするための設備があった(今でも広い留置線がありますね)ので、照明設備は当然あったのだろうが、位置的におかしいような気がする。写真を見るに、この照明塔は広大な敷地で使用するのではと思われる。暗くて見えずらいけど、左側に客車が止まっているのがわかるが、当時の下板橋駅はもう電化されていて、貨物は蒸気機関車だけど、客車の運行はすべて電車だったはずだ。
 
 では、この駅が下板橋駅でなければ、いったいどこの駅なんだろう?石川光陽氏の日記によると、昭和20年4月14日は、空襲罹災地に配給品を配るトラックに便乗し、戸塚(新宿区)、池袋、大塚、王子、尾久、西神田の警察署を回っている。当日、池袋警察署は焼け落ちていたので、川越街道沿いにある重林寺がけが人収容所や配給所として使用されていた。重林寺は東上線の北池袋(当時は東武堀之内駅)や下板橋駅に近く、ちょっと足を伸ばせば撮影できなくはない。石川光陽氏にはコンタクトプリント(ベタ焼き)の写真集が出ているので、それを見てみると、重林寺で救護活動の写真を撮ったあと、どうも明治通りを使ったのか、大塚駅付近、王子駅付近を撮影し、その後で件の”下板橋駅”と思われるカットを撮り、尾久や巣鴨庚申塚あたりを写したカットが続く。当時、大塚駅や王子駅は現在と同じ高架駅だったので、残るは尾久駅か田端駅となる。そこで、最近忙しいし暑いので、なんて言い訳をしつつ、グーグルマップのストリートビュー機能を使って、現在の尾久駅の様子を見てみた。それが真ん中の写真である。(撮影場所は明治通りから)う〜む、なんと!左の写真と似たような鉄塔が今でも建っているではないかっ。いやいや、こんなことで急いで結論を決めつけてはならない。そこで、ストリートビューをいろいろいじってみると、他の遠くにある2本の鉄塔も確認できた。尾久は現在もそうだが、広大な操車場が広がっている。電化についてだが、尾久には電気機関車用の電車庫があり、東京駅から電車庫までは昭和6年に電化されていた。しかし、本線である高崎線は当時まだ未電化で、尾久駅が電化したのは昭和27年のことだ。それと、ホームの遠くの方は、高台の住宅地になっているように見える‥。どうも状況証拠からこの焼け落ちた下板橋駅の写真は、尾久駅の可能性が非常に高いのではないかと思われるのだ。しかし、おかしい所がないわけではない。そう、駅舎がないのである。東京空襲の記録では、尾久駅舎が焼け落ちた記録はない。それと、もし焼けていたとしても、残骸が見あたらないのが不思議だ。
この疑問、どう説明つけたら良いのかわかる方がいたらぜひ、教えてください!!

*今回、板橋区がこの写真を誤認して(まだわかりませんが)購入したのは仕方がないことだと思いますよ。ノートリミングでプリントして初めてわかったのですから。。

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