« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月

癒しスポット in 板橋区☆赤塚溜め池公園のかるがも親子

123456

☆日ごろ雑務に追われ、心がお疲れ気味の板橋区民の皆様に、癒しの風景をお届けします☆

 数日前から、赤塚溜め池公園(板橋区赤塚5丁目・板橋区立美術館と板橋区立郷土資料館の間)の池に、かるがもの親子がひょっこりと姿を現した。志村の三ツ沢公園のかるがも親子は有名だけれど、赤塚に現れるのはめずらしい。少なくとも私の記憶にはない。溜め池公園は、昨年の秋頃から今年の3月上旬にかけて大規模な整備工事が行なわれたばかりだ。基本的には以前のレイアウトとあまり変らなかったけど、池の真ん中の島には草が生い茂り、かるがもの子供達はその茂みの中で生まれたようだ。
全部で9匹のカワイイ子供達は、母親のまわりをすいすい泳ぎ回っている。たまにはねあがる魚に驚いてあたふたする様子が愛らしい。。しかし、この公園はカラスやネコが多く、とっても心配だ。中の島を住処としているのでネコに襲われる心配は今のところ大丈夫だけど、上空を旋回するカラスが不気味だ。これから全員すくすくと育ち、無事、巣立ちを向かえることを願うばかりですね‥
しかし、かるがもってよく引っ越しをする姿が話題になるけど、この一家はどこへいくんだろうなあ。。
って思ったが、かるがもの子供は茂みで生まれ、それから池に引っ越しをするのかな。それだともう引っ越しの必要はありませんネ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今日は板橋区民虐殺記念日。

1_22_23_2

 今からちょうど65年前の1945(昭和20年)6月10日朝、上板橋3丁目〜5丁目や南常盤台、茂呂町や根ノ上町一帯がアメリカ軍のB29爆撃機や艦載機・P51による攻撃を受け、269名(282名ともいう)の板橋区民が虐殺された。これは、4月13日の城北地区空襲時の232名(東京区部全体で2459名)を上回り、大東亜戦争中の板橋区が受けた空襲としては最大の死者数を記録した。10日の死傷者はほぼすべてが板橋区民で、負傷者155名、被災家屋502棟、罹災者は2467名を数えた。B29から250キロ級爆弾116個がこの地域に投下されたという。前日は名古屋で大きな空襲があり、この日は京浜工業地帯や千葉市、日立市などが艦爆連合による爆撃を受けた。板橋区を襲った集団は、三鷹の中島飛行機武蔵製作所(エンジン工場)爆撃を目的として飛来したようで、どうやら攻撃に失敗し、帰途のルート上にあるこの地区に爆弾を落として行ったらしい。当日は曇りだったようだ。中島飛行機武蔵製作所は、東京空襲が始まった当初から攻撃の第一目標であり、前年の11月から執拗に爆撃が繰り返されていた。B29は、基本的にはグアムやテニアンなどの基地から富士山をめざして飛び、富士山上空で右(東)に転回し、一路八王子から三鷹上空に達し、爆撃を終えたらそのまま東に直進し、銚子から日本本土を抜けて帰途についた。その他、東京都内などを直接狙う場合には房総半島を目指して飛ぶルートが使われた。
 アメリカ軍は日本の空襲に際し、実に狡猾というか緻密というか、科学的に攻撃目標を研究していて、それは関東大震災のときまで遡り、真っ先に救助隊を派遣し、隙を見て東京湾の水深を探ったり、火災による日本家屋の被害状況をつぶさに研究していたという。当時からアメリカにとって日本はすでに敵国と認識されていたんですね。空襲を行なう前には写真偵察機を飛ばし徹底的に撮影を行い、南方の島で捕獲した捕虜を本土の専門の収容所に入れ、彼らから具体的な情報を聞き出して精密な爆撃地図を作成し、空襲の際に携行している。そして、空襲が終了したらまた偵察機を飛ばして戦果を確認していた。最初は日本軍の防空戦闘隊や高射砲を恐れて高高度からの精密爆撃にこだわっていたが、爆撃機の長距離運用の困難さや、天候や気流の悪さなど予想よりも成果が得られなかった。しかし、1945年2月に硫黄島を落とすと、P51などの空母艦載小型戦闘機による日本本土攻撃が容易くなり、B29は対日本防空戦隊用に小型戦闘機を連れ、低高度での空襲を行なうようになった。というわけですね。それとともに焼夷弾による大虐殺空襲も始まりました。話が遠回りになりましたが、本題の6月10日の空襲、いったい何故、板橋区だけが狙われてしまったのか‥。最初の目的地は中島飛行機武蔵製作所だった、と先程書きましたね。実は、アメリカ軍では第一目標の空襲に失敗(天候不順による目標消失など)の場合、第二目標を江東の隅田川一帯の町工場地域に置いていました。しかし、この地域は3月の大空爆で徹底的に焼き尽くしてしまったので、もう目標ではありませんでした。板橋区には、大きく三つの攻撃目標が設定されていて、一つは現在の埼京線周辺にあった陸軍第二造兵廠、もう一つは清水町の兵器廠、そして成増陸軍飛行場でした。でも、いずれも10日の空襲では攻撃をされませんでした。では何故なのか‥すみませんがわからないんです。この日の被害家屋の中にはいくつかの軍需工場があるのですが、志村地域ほどは密集しておらず、かえって民家のほうが多いくらいなのです。この謎を解決するには、板橋区を爆撃した部隊の戦闘詳報を見つけ出さなくてはならないですね。この日は曇っていたことから想像するに、二造か志村に落とすつもりが手前に落としてしまったのでしょうか。いずれにしても罹災した区民にとっては不幸なことですが‥

 空襲から3年たった昭和23年6月、南常盤台2丁目11番地の一画に、この空襲で亡くなった方々を慰霊するため「平安地蔵」と命名された、おとなと子供を表す大小の地蔵が地元有志の方々により造立されました。毎年、犠牲者の命日である10日には、雨でもお参りが出来るようテントが張られ、地元の方がお茶をふるまっています。掲載の写真は本日撮影したもので、あれから65年という時が過ぎましたが、参拝の人々がひっきりなしに訪れておりました。(3枚目の狛犬の写真は、近くの天祖神社に置かれているもので、当日の空襲で落ちた爆弾の破片が当たり、丸い穴が空いている。)

| | コメント (3) | トラックバック (1)

☆スクスク育て!板橋区赤塚溜め池公園のかるがも赤ちゃん☆

123_2
 さて、先週初めから赤塚の溜め池公園に姿を現したかるがも親子、前回の撮影から一週間たってどのくらい成長したのか、果たして9匹全員揃っているのか‥ちょっとドキドキしながら確認してきた。1、2、3、4、‥9。おお、ちゃんと全員揃っている!!しかもだいぶ大きくなって。。池でつりをしている人に聞いてみると、かるがもの赤ちゃんが生まれてから、あめんぼうの数が極端に減ったので、あめんぼうを食べているんじゃない?とのことだ。今ではすっかり知られるようになり、見学者がひっきりなしだ。中にはパン屑を蒔いている人も‥私はかるがもの生態に詳しくはないけれど、あとどのくらいで巣立つのだろう。板橋区生まれのかるがも達は、このまま板橋区に留まるのだろうか‥。今日は、お父さんらしきかるがもが来ていた。やっぱり心配なんですネ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ターゲットは成増飛行場

123
 先日、1945年6月10日の板橋空襲について触れたましが、その続き。
前回、アメリカ軍の攻撃は実に緻密、と書いたけど、その例がここに掲載の地図です。これは成増飛行場(正確には成増陸軍飛行場)を中心にして、その周辺地域の偵察写真をもとに作成された、板橋地区攻撃用の地図だ。たまたま入手出来たもので私の手元にある。

 では、地図を見てゆこう。1944の記載と、写真の端の記号にDEC.13とあるから、1944年12月13日に撮影されたものと推測。このころはまだ成増飛行場がTAKAMATSUCHO AIRFIELDと表記されていますね。1945年以降のアメリカ軍の作戦書ではNARIMASUと記載されてます。地図には川越街道、中山道がハイウエイ、成増と志村の坂の部分にはその旨の表記がされています。田柄や春日町の畑が多い地点には、人家が少ない所、という意味の表記がされており、撃墜されたときのパラシュート降下目標を差しているようです。東上線と武蔵野線(現在の西武池袋線)も記載されてます。地図にはMission no. 3PR4M37A 2V と作戦ナンバーが記されているので、いつの攻撃時に使われたものかわかるはずですが、まだ解明できてません。
 真ん中の写真は飛行場の部分をアップしてみましたが、飛行場左下の第2中隊(富士隊)ピストの隣に、二式戦と思われる戦闘機が並んでいるようですね。この頃は空対空特攻隊「震天制空隊」が組織され、防空のため盛んに出動しているはずですが、B29は高高度を飛行しているので、こうして易々と偵察写真が撮影されちゃうんですねえ。春日町や下赤塚(赤塚一中から新大宮バイパスをはさんだ対岸の台地上)、茂呂や上板橋(現在の平和公園)には高射砲陣地があったけど、弾幕も写っておらず何をしていたんだか。(もっとも、高度一万メートルに届く高射砲は久我山にしかなかったけど)この高射砲陣地のある地域は、板橋区が爆撃された合計20回のうち、8回攻撃を受けていますね。成増飛行場が攻撃されたのは、1945年2月16・17日、7月8・10日で、確実に攻撃目標にされています。日本本土が初めて空襲されたのは1942年4月18日のドゥリットル空襲(アメリカ軍が真珠湾奇襲の仕返しのため、航空母艦にB25爆撃機を無理矢理搭載して行なった作戦)で、この時に下赤塚町も機銃攻撃されている。成増飛行場はこの奇襲攻撃をきっかけとして作られることになったので、まだこの頃は存在していない。いったいどこを狙ったんでしょうか?
 空襲は、最初から目標となっていた場合と、なんらかのアクシデントで攻撃されてしまった場合がある。板橋区の場合、中島飛行機武蔵野製作所を目標とした攻撃のルート上にあるため、そのとばっちりをうけたことも何度かあるようです。(参照資料/板橋区役所文化財課係作成・板橋区平和祈念マップ)

*この爆撃用地図ほか何点かの資料は、この夏に板橋区立郷土資料館で行なわれる戦争展で展示される予定です。もしかすると、私が5年前に製作した成増飛行場を描いたドキュメンタリービデオ作品も公開されるかも??

| | コメント (0) | トラックバック (0)

☆小惑星探査機「はやぶさ」の帰還と板橋区☆

132
 ここ数日、小惑星探査機「はやぶさ」の奇跡的な地球帰還の話題が、ネット上やマスコミで話題になっている。オーストラリアのウーメラ砂漠に着地した、小惑星「イトカワ」の砂などが入っていると期待されるカプセルが無事回収され、明日にも日本に到着するそうだ。カプセルは、専用のコンテナに収容されて運ばれる。その様子をニュースで見ていたら、おお、見覚えのあるコンテナが‥
 
 時は2年ほど遡る。2008年8月ころ、雑誌「東京人」から板橋区の工業について取材しろと依頼があった。取材対象をしぼり、その中の一つ、宮本町(私の憩いの場・スパディオ板橋の近く)にある「松田技術研究所」を訪れた。研究所の社長、松田真次氏はとにかく熱い人物で、様々な困難を乗り越えて今日に至った課程を、猛烈な勢いで語って下さったことが今でも印象に残っている。松田氏は、運送会社からホンダモーターへ転職し、本田技研へ。そこで二輪用品の開発を手がけた。その後独立し、板橋区桜川に、二輪メーカー純正用品の研究会社を設立、フェアリングキットや屋根付き二輪車が大ヒットした。ところが、大手メーカーが参入し、やむなく規模を縮小。その後、郵政公社(現・郵便会社)向けの丈夫で振動の少ない集配ボックスを開発(バイクの後ろに積まれてる赤いボックス)、一時はシェアのほとんどを占めた。また、大手メーカーからハワイへ天体望遠鏡を運ぶための振動を起こさないコンテナの開発依頼を受け、二輪車用タイヤチューブを暖衝材に使うことで上下振動を削減させる世界初の「エアサスペンション」を開発した。精密機器運搬の需要は高く、大手航空会社の依頼を受け、航空コンテナへの応用も実現させた。
 取材の終わりに、今後はどんな物を開発するのですか?と質問すると、今、宇宙航空研究開発機構(JAXA)から、小惑星探査機「はやぶさ」のカプセルを回収するためのエアサスを使用したコンテナを製作してほしい、との依頼が来て開発しているところだ、とおっしゃっていた。その成果が、ようやく実を結んだようです。

 松田氏の作る製品は、いずれもローテクニックを駆使したものばかりだ。氏は、こう力説する。「ハイテクは組織力と資金力が必要。だけど、ローテクは個人のセンスと独創性が肝要なんです。
もともと板橋区内には、光学製品や精密機械の製造会社が多くあったのだが、今では新興国に生産拠点が移り、昔日の姿はない。しかし、研究開発のための拠点を板橋区内に置き、航空産業に従事している会社も多い、ということはあまり知られていませんね。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

まだまだあるゾ、兎月園の写真。

567
 さて、また兎月園の写真を紹介する。ちびちび更新せず一度に出せや、との声もあるかもしれませんが、自腹で手に入れているモンでありますので、なかなか揃わんのですよ‥なんてイイワケは置いておいて、早速紹介しましょう。

 1枚目の写真は、兎月園本館の玄関だ。堂々たる茅葺き屋根を持つ建物ですね。中には大小の座敷や宴会場、調理場などがあり、結婚式場としても利用されたようだ。右上の小さな写真は室内の一部で、シャンデリアっぽい照明が下がってますね。私は漢字に弱いので、額の文字を古文書がわかる方に読んでいただいたが、「(右から読む)往客満堂」と書かれているようだ。「千客万来」みたいな意味ですかね?縦書きの文字にはいつ頃誰が書いたのか記されているけど、「丙寅晩春」と読めますから1926年(大正15年)の4月くらいかな。名前は「青山題」。青山、という方が書いたようですね。
 真ん中の写真はつつじ園の一部です。右上の建物は、園内に点々と建っていた数寄屋作りの離れ座敷の一部でしょうか。左上の小さな写真は藤棚の一部とあります。なんとこの藤棚、現在、練馬東小学校に保存されている。もともとは板橋区成増町に住んでいた並木周蔵氏が自家の日よけとして求めたもので、北町一町目(旧川越街道沿い)の「藤棚」という屋号の塗料店の店先に置き、川越街道の名物になっていたそうだ。大正10年頃に並木家より兎月園に譲渡され、その後、練馬東小学校に移築されたのは昭和35年5月5日のこと。樹齢はおよそ200年あるそうだ。
 一番右の写真は園内の一部とありますね。坂道の上、右隅に東屋の一部が写っていますが、前回掲載した写真の東屋かもしれません。左上の小さい写真は動物舎ノ一部・ニホンザルの檻ですね。なんとこの猿、近隣の人が、あたりの山でつかまえて寄贈したらしい。‥近所の山って。何年か前、神田で野生の猿を発見、なんてニュースをやっていた(中央線沿いにやってきたらしい)ので、今から90年くらい前ならいたのかも知れませんねえ。。

このシリーズはあと5枚あるようなので、いつの日か続きをUPできれば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »