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2010年5月

故郷の景色 〜31年目の東武練馬駅〜

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 すごい。すごいぞ。昨日に引き続きの新記事UPだ。(単に連休でヒマなだけかもしれないが。)実は、何かに使おうと画像処理だけしておいた古い写真を引っ張り出してみた。モノクロの写真は昭和54年、西暦では1979年だから今から31年前に撮影した、東武練馬駅前踏切の写真だ。今となっては撮影の動機がわからない。なんでこんな面白くもない写真を撮ったのか‥。写真は中学三年の頃から興味を持ち始め、高校生の時、バイトをして貯めたお金で当時大人気だったオリンパスOM-1を購入してから、本格的に撮影を始めた。当時は常に金欠で遠出をする発想もなかったから、もっぱら近所で写真を撮っていたのだ。好みの写真家は土門拳や木村伊兵衛、はたまたアンリ・カルティエ・ブレッソンだったから、題材はもっぱら街角スナップだった。そして、私は物を捨てない性格だったので、それらのネガは今でもほとんど残っている。まだ十代という構図もシャッターチャンスも思想も貧しかった習作時代の写真であり、なにも面白みのない写真ばかり撮っていたが、あれから30年以上の時を重ねた現在、それらの写真に封じ込められた時代の景色が、価値を持つようになってきた。板橋区を趣味と定めてから、地元在住の個人が撮影した古い時代の写真を見せていただく機会がたまにあるが、まだ写真は高価なものであり、結婚式であるとか、家族や自分の記録として撮影されるのが一般的で、日常の風景などをスナップした写真はあまり見かけませんね。それは昭和30年代や40年代でも変らなかったように思います。今では、こんなつまらない写真を撮影し、いままで保存していたものぐさな自分をホメてやりたい‥。
しかし、日々の暮らしは平凡であまり変化を感じないけど、こうして昔の写真を眺めていると、街の景色の移り変わりの激しさには驚くばかりだ。また、昔のリアルな写真を見ると、様々なことを思い出す。昭和54年の北町側の写真、今でもパチンコ屋はあるが、昔はトーホーという店だった。もう一つ、今の荒井花店の隣、現在はコンビニのサンクスだが、そこにはニューギンザというパチンコ屋があった。そちらの方が歴史は古く、昭和30年代にはすでにあったように思う。幼児の頃、父親に連れていかれた記憶がある。座席は無く、立ったまま一つずつ球を入れてレバーを弾くタイプのパチンコ台で、ドル箱も小さなものだった。確証はないが、当時はタバコやチョコ、缶詰などの現物に交換するのが普通だったように思う。そのパチンコ屋の並びに、小さな骨董屋があった。私は小学校高学年の頃、おばあさんが集めていた古銭を譲り受け、古銭収集に興味を持っていたのでたまにその店に行っていた。今から思えば相当変な小学生だったような‥しかしよくもまあそんな変なガキを店に入れていたもんだ。たしか、嘉永通宝というコインを購入したような記憶がある。銭形平次でおなじみの寛永通宝は高くて買えなかったような気がする。写真の中央には「ネリ食」とあるが、古い方には懐かしの「練馬食堂」だ。中華料理の店だったろうか、入った記憶はあいまいだが、各テーブルにコイン式のおみくじ機械が乗っていたような‥金属製で全体が円形で上部が灰皿になっており、灰皿の下のコイン投入口に百円?玉を入れてレバーを回すと、小さく丸まったおみくじがコロンと出て来るやつ。昔はわりとポピュラーでよく見かけたけど、最近では見かけないなあ。あれって今から思えばヤーさんの見かじめ料の道具だったのかもしれない。2階にはこれまた懐かしい、セントバーナードという喫茶店がある。大きな犬の看板が目印だ。ネリ食の看板横の階段が入り口だ。隣の白いビルはつい最近取り壊され、いまは空き地になっている。この写真の当時はパン屋(サンマロー?)だったかな。2階はあかれんがという喫茶店だったと思う。この頃、北町商店街は今では信じられないくらい買い物客であふれていた。そんな中、踏切を渡って桜台まで行くバスが走っていて、それはまあカオス状態でしたね。目を転じて徳丸側を見ると、閑散とした雰囲気がこのカットからもお分かりかと思う。もちろん、道の両側には商店が並んでいたけど、ちいさなパパママストアが並んでいるだけだった。当然サティはなく、その敷地には巨大な大木伸銅の工場群が広がるばかりだった。(大木伸銅については過去の記事を参照にして下さい。)正面にあるのは交番で、現在はタウンブリッジを越えた所に移動している。その隣は、時代によっていろいろ替わったけど100円のドムドムバーガーがあったような記憶もある。交番の裏はすぐ崖になっていて、送電線の大きな鉄塔が建っていた。現在はもう御存知、徳丸スクエア、でしたっけ、ローソンとかケンタとか大戸屋とか飲食店街の連なる場所になっていますね。ここは恒久の施設ではなく、何年後かには立ち退かなくてはいけない契約になっていると聞きました。その時、景気が良くなっていたら、もしかすると夢の駅ビルが建つのではないか、なあんてね。写真のストックはまだあるので、また気ままにUPします。

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板橋区民としてボランティアしてみた。

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 ゴールデンウィーク最終日の5日、日ごろお世話になっている板橋区立郷土資料館にて、鎧兜の着付体験教室が行なわれたので、ボランティアとして手伝いをした。

今年のG.W.はめずらしく天候に恵まれ、特に今日はまるで夏のような暑さであった。着付体験は午前11時からの一時間と午後1時からと2回行なわれたが、いづれも親子連れで大賑わいだった。子供に付き添いのお母さんやお父さんにも、写真を撮るだけではなく着てみたらとおススメすると、最初はイヤイヤいいです〜などと言っていたけれど、子供に促されて着てみると満更でもない顔でバッチリポーズをとるのが微笑ましい。なかでも午前中にいらしたロシア人のご一行様は、最初は何事かと見ていたが、着てみるかと進めると”ニエット!ニエット!”と逃げていたが、無理矢理?着せて刀を持たせるともうノリノリの態でポーズを決めておりました。。

ところでこのボランティア活動というやつ、大災害の時にはクローズアップされますが、普段関心なく暮らしているとまるで気がつかないものだ。しかし、板橋区内でも様々な団体や個人が活動をしている。板橋区(区直営ではない)にはそれらをまとめる部署があり、H.P.で紹介されている。

いたばし総合ボランティアセンター」  http://www.ita-vc.or.jp/boshu/index.php

私の場合は個人で勝手にボランティアと名乗っているだけで、まっ、助っ人したいことを気ままに行なうということでとても誇れたものではありませんけど。。ある意味、このブログもボランティア活動の一つですしね。但し、コレクション自慢や知り得たことを披露したいという自慢臭プンプンで、これまた誇れたモンじゃあないですね。。思うところ、ボランティアとは自分の時間や交通費や昼食代、その他諸々の出費もすべて自己負担し、ひたすら奉仕する、というのが肝だ(と思う)。ただし、これはあくまで自分の自尊心が満たされている場合に成り立つことで、何か行き違いや気分が害されることが起こったとたん、”ボランティアでやってやっているのに”という気持ちが湧いてくる。なにより、なにも物質的な報酬がないことで責任感が欠如しやすくなる。このことは常に肝に命じておかなくてはならない。おもわず起こる理不尽なことに耐えられる柔軟な心が求められるのだ。それらを克服するのは”感動をいただく”ということに尽きるのではないだろうか。例えば、上の写真のロシアおじさんの無邪気な顔とかね。たぶん、よい日本滞在のみやげ話になったかな、と思う。

結論として、このブログは自腹でやってるんだから多少の自慢話は許してね。ちうことで、また。

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板橋競馬場って‥

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 ブログの主催者ならご存知と思うが、お客様が自分のサイトにどんな検索用語を使って辿り着くのかがわかる機能がついている。当ブログならばだいたい成増飛行場関係や啓志線、兎月園が上位にくる。(一番多いのは”未亡人下宿シリーズ・五月みどり”だが、これは私が意図する話題ではないので除く)
もともと”板橋区を趣味とする”ことから板橋の探求が始まったのであるが、それはちょうど10余年に渡る板橋区史の新シリーズ刊行が終わり、簡易版の形として「図説板橋区史」が出た頃だったかな。だから最初のころ、板橋区の歴史を知るには、板橋区が公式に出版する「板橋区史」がもっとも権威があり最高の資料であると思っていた。数巻に渡るあの分厚い本を最初から最後まで目を通すのは大変だったけど、感心することしきりで愉しくもあった。その後、昭和29年版の古い「板橋区史」から「板橋のあゆみ」昭和初期の「北豊島誌」大正時代の「板橋町誌」、他に民間の団体による「板橋史談」等々、目に入る資料本はかたっぱしから読み通した。(残念ながら、私の脳細胞はフラッシュメモリーと同じで、新しい知識が入ると過去の記憶が消えてしまう‥)そして、その結果必ずしも「板橋区史」が完璧に歴史を伝える本ではないことがわかった。もちろんそれは当然なことで、いくら分厚い「板橋区史」であろうが、板橋区地域の歴史をもらさず収録するなど不可能な話だ。編集のため集められた膨大な資料は、編集委員による度重なる選別を経て絞りにしぼって刊行に至る。これは他の書物でも同じで、日の目を見ずに切り捨てられてしまった歴史は数知れない。また、年表に一行記載されているだけで、詳細のわからない出来事もたくさんある。そこで、私は自分の関心あることは自力で資料を集めたり、探求することにした。そして、歴史から切り捨てられた些末な事柄を拾い、その成果を当ブログで披露することにしたのだ。

 さて、今回のお題である「板橋競馬場」もそんな歴史のひとつだ。ブログ検索用語でも、常に上位にある。しかし、板橋区史などにはほとんど情報は載っていないから自力で調べるしかない。もともと板橋競馬場などと云うものは2年程しか存在せず、レースも3シーズンしか行なわれていない。また、競馬場が板橋の歴史にどんな意味を与えたかの評価はないので、板橋区による調査もされることはなかった。唯一公開されているのは競馬場の掲載されている当時の地図だけである。当ブログ初期の話題で”板橋区と飛行機”を取り上げたが、それは明治43年12月、伊賀男爵による自作滑空機の公開飛行実験が行なわれ、その実験が、閉場された後の板橋競馬場で行なわれたことがわかったからで、運良くその時の写真が絵はがきになっており入手出来た。それが、私の知る限り、板橋競馬場で撮影された唯一の写真と思われる。当時の新聞に同じ写真が掲載されており、複数の新聞にそれぞれ違うカットの写真が掲載されているので、ひょっとするとまだほかにもあるのだろう。その中には、板橋小学校の生徒達が飛行機を取り囲む写真もあった。ただ、残念ながら飛行実験が主役なので、旧競馬場の施設や様子は写真からは読み取れない。板橋競馬場の設立については以前、簡単に記したが、その記事をおさらいしつつ情報を追加しておこう。

 日本における近代競馬は、万延元年(1860年)に横浜の元町あたりで居留外国人により始まったのが最初らしい。日本人による最初の競馬は明治3年に招魂社(靖国神社)で行なわれた。その後は神戸や函館など各地で開催される。有名なのは上野不忍池畔に作られた競馬場(明治17年〜25年)で、その様子は多くの錦絵に描かれていますね。日本全国に本格的に競馬が広まったのは、日清日露などの戦役により、陸軍部内に於いて、軍馬育成の必要性が高まり、それをうけて政府に馬政局が設置されたことによる。馬政局は、民間による生産馬育成の奨励を計るため、民営の競馬会の設立監督を行い、競馬会運営維持のために馬券の発行を黙許(黙認による許可)した。新しく作られた民法に依る法人として、明治39年4月、東京では東京競馬会が設立され、池上に馬場が作られた。秋季に第1回目のレースが行われ、それが大成功をおさめるや、たちまち全国に波及した。翌40年には、東京近郊だけでも、池上のほか、横浜・川崎・松戸・目黒・板橋に馬場が開設された。そのうち、板橋競馬場は東京ジョッケー倶楽部が運営を行った。その、板橋競馬場の設置された場所だが、私自身は当時の地図を所有しておらず、「図説板橋区史」に掲載されている地図からはそれが現在の場所ではどこに当たるのかはイマイチわからない。なぜなら、明治41、42年当時は東上線もなく川越街道も旧道であり、石神井川も改修前の状態なので、今の地図に当てはめるのがムズカシイのだ。
*参考 http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm

 馬券は1枚10円で売られ、単勝式のみだった。当時の公務員の初任給が50円なので、10円はとても高額だ。現在なら4万円くらいだろうか。当然こんなに高い馬券は庶民には買えず、分割して出資者を募り馬券を購入するなどヤミ行為が横行し、後の競馬会統廃合につながる。賭け事の対象となることから堕落が始まり、”強い軍馬を育成するため”という当初の目的はもろくも崩れ去ってしまった。しかし、競馬場の経営は非常に費用がかかり、1年2シーズン(春と秋)の合計8日間の競馬興行のために、広大な敷地を確保して整備し、さらに観覧席や厩舎などの諸設備や多数の従業員を雇用しなければならない。だから、馬券による収益は必須であった。私は父親がギャンブル好きだった反動で賭け事はほとんどしないが、子供の頃はしょっちゅう競馬場に連れて行かれた。ある時、中山競馬場に行ったときに総武線があまりに混雑したため、網棚に乗せられたことを覚えている。板橋競馬が開催された時代には、公営(黙許だが)の賭け事はめずらしかったので、その熱狂ぶりは想像もつかないくらいのものであったろう。

 板橋競馬場の様子については大江志乃夫氏著「明治馬券始末」に詳しいので、それを参考に要約すると、東京ジョッケー倶楽部が作った板橋競馬場を運営する競馬会社を設立する際、その設立会社「帝国競馬会社」が発起人を募い、200名余りが参加をした。ところが、ある発起人が、勧誘した他の6名の払込金を持ち逃げした。また、事務員達が創立資金を遊蕩費に使い込むという不祥事がおこり、当局により資金が封鎖されてしまった。この紛争により馬政局は運営会社を帝国競馬会社から、設立申請中の日本産馬株式会社に合併させて「日本産馬株式会社」として発足させることにした。これに怒った旧発起人達は、訴訟を起こした。この紛争のため、板橋競馬開催はワンシーズン遅れて開催されることになる。その幻となった第一回板橋競馬開催予告の広告が上の真ん中の写真だ。人力車の時間表が載っているのが明治時代っぽくてイイですね。もよりの板橋駅や王子駅からでさえ競馬場へは遠かったから、人力車は稼ぎ時だったでしょう。この後、競馬開催時には臨時列車も運行されていた。
そんなこんなでようやく開催された第一回春期競馬(明治41年3月28日初日)直前、馬政局は競馬取締に関する口達覚書を発した。それは、学生・未成年者の入場禁止、制服を着た守衛の配置、馬券は1枚10円とすることなど多くの規定が盛り込まれていた。前述のように非常に高額な馬券ではあったが、29日の朝日新聞によると「馬券十円となり一人にて買切れぬ連中は共同にて購求するより金銭の授受に関する論争頻出し[中略]警察事故多忙を極む、何にせよ困ったことを政府は奨励し始めたものなり」おまけに初日から八百長レースが行なわれ、最終日の四日目には問題が表面化し、大騒動が起こるといった始末だった。本来は紳士の国から来た紳士のスポーツではあるけど、真似るのは形だけでモラルもへったくれもあったもんじゃないですね。ちょっと長くなったので、今回はこの辺で。

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板橋区(赤塚郷限定)の切手が出たゾ!!

Photo_2 すごい。すごいぞ。今日から板橋区内の郵便局で一斉に板橋区を題材にした記念切手が発売された。ただし、赤塚郷(中世時代の徳丸・赤塚・四ツ葉・大門・三園・成増地域をさす。)だけの限定切手だ。今から約10年くらい前から始まった”自然と文化と歴史の里 赤塚”事業の一環で、3月からこの地域で循環運行を開始したコミュニティバス「りんりんGO」の開通を記念しての発売だ。だから切手の絵柄は、「りんりんGO」が通るルートに上にある、「板橋区立美術館」「板橋区立郷土資料館」「松月院」に所蔵されている美術品等から選ばれている。

それにしても、過去、板橋区を題材にした切手が発行されたことはあっただろうか‥郵便局が独自に作成する記念印はあったけど、切手は記憶にないなあ。おっと、さっきからすごいすごいと言っているが、実は、この記念切手のうち、写真下段の左から4枚目までは私が撮影したものなんですね。3月の上旬くらいだったか、板橋区の某機関より依頼されて撮影した。右側の肖像写真は、板橋宿平尾の名主、豊田家当主の「豊田喜平治の写真」だ。そう、捕縛された近藤勇を斬首されるまで預かった方である。幕末くらいに撮影された湿版写真で、現存する板橋最古の写真ということです。他の3枚はすべて松月院宝物館「松宝閣」に展示されているもので、左から「達磨大師図」、「高島秋帆肖像画」、「千葉自胤公の手文庫」。松月院は禅宗系の寺院で、達磨大師の図が好まれるのだとか。実物は超巨大な図だ。高島秋帆肖像画は説明の必要はありませんね。この画は大正時代に模写されたもので、原図は行方不明なのだとか。千葉自胤公の手文庫は、室町時代中期に赤塚城主だった千葉自胤(ちばよりたね)が残したものと伝えられており、松月院は千葉自胤が開基し、菩提寺となっている。

と、言うことで、記念切手の発行にかかわることができ、板橋区を愛する者としてこれ以上名誉なことはありません。感謝感涙ですね。1シート 1200円で絶賛販売中ですので是非、記念にお求め下さい!!(ローカル切手につき発行枚数が少ないので購入はお早めに!


*関連記事* 〜産経新聞より〜
板橋にまつわるオリジナル切手発売

東京都板橋区のコミュニティーバス「りんりんGO」の開通を記念し、郵便局会社東京支店は17日、
運行ルートにまつわるお宝などをデザインしたオリジナルフレーム切手「りんりんGOでめぐる四季散歩」を発売した。
これに併せ、支店は同日、切手シートの記念額を区に寄贈した。
りんりんGOが巡る赤塚地区は区内でも自然と文化遺産が多い。
切手は赤塚地区ならではの水車や田んぼの風景のほか、区立美術館所蔵の江戸後期の絵師、狩野栄信作「花鳥図」などを取り上げている。
切手は3000部限定。区内の48郵便局で1シート1200円で販売されている。
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100517/tky1005171656007-n1.htm

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祝!!☆板橋サティ(現・イオン)10周年☆

 少し早いけど、この5月25日、我が故郷・徳丸の姿を一変してしまった「板橋サティ」がオープンしてちょうど10周年を向える。思えば、東武練馬駅北口一帯に広がる旧大木伸銅工場が閉鎖されたのは、平成に入ってすぐの頃だったか、私は、その跡地にどんな物が作られるのか並々ならぬ関心をいだいていた。具体的に話が動き始めたのは1996年くらいか、家のポストに工場跡地利用に関するアンケート調査票が入れられた。程なくして、大型商業施設が建てられる計画であることを知ったのだと思う。ちょうど、成増駅北口の開発が終了したのもそのころのことで、閑散とした東武練馬駅北口一帯が成増のように大きく変わるのかと、ワクワクしたものだ。それからというもの、住民説明会には積極的に出かけるなど集められる情報は貪欲に入手した。それと平行し、大木伸銅会社と掛け合い閉鎖された工場内部の撮影を頼み込み、ブローニーカメラで徹底的に撮影した。確か一番古い建物は昭和17年ころに建てられたものがあったのかな。
ビデオカメラを購入したのは1998年で、それからはビデオでの記録も始めた。住民説明会から工場建物解体作業、遺跡発掘調査の試掘風景から建設の様子、そして完成までを出来うる限り記録して来たつもりだ。以来10有余年、その記録テープは私の手元で時間という熟成を重ねていた。本当は、もうあと20年くらいしたら世の中に出すつもりだったけど、まあ、10年というのも一昔だし、何より、サティがオープンして以来、恐ろしい速度で一帯の景観が変ってしまったこともある。今ではYouTubeなどで簡単に、しかも無料で動画をネットを通じて公開出来る実に信じがたい世の中になったので、もったいぶらず公開することにした。

もったいぶらず、と書いたけど、YouTubでは映像は10分以下の規定があるし、現在とちがってコンデジや携帯で気軽に撮影してパソコンにファイルを取り込むなんてお手軽ではなく、もとはテープなのでビデオファイルから作成しなくてはならず作業が大変なので、大幅なダイジェスト版となってしまいました。解体や建設作業風景は全部カット‥でも、お宝スペシャル映像を入れてあるのでお楽しみに!!

それでは、スタート!!

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出し惜しみしないで兎月園の写真を追加しよう。

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 先日、超久しぶりに兎月園の写真をUPしたが、今回、新たに3枚の写真を追加出来るようになった。それぞれの写真について見てみよう。
 
 兎月園はパンフレット(既出記事参照)を見ると入り口が二ヶ所あり、一つは長屋門を通り運動場の方へ、一つは施設へ向かう正面入り口となっている。パンフレットの上方には秩父の山並みが見えるので、西向きに描かれていると推測して話を進めると、施設へ向かう入り口を通ると左手(北側)に母屋と思われる建物が池に面して建っており、左側の写真「兎月園池畔ノ一部」はその母屋の位置から撮影されている。京都の川床を思わせる、優雅な風情が漂っていますね。池畔に浮かぶ小舟も涼しそう。この写真の奥(北側)に運動場があるようです。池は西方向に縦に広がり、次第に幅が狭くなってそのまま小川となっています。真ん中の写真「兎月園東屋ノ一部」はどこで撮影したのかはわからないけど、台地っぽいですね。右真ん中の小さな表札には「園内は歩道を御通行下さい」と書いてある。右側の写真は「兎月園浴場前清流ノ一部」とあります。この石がごろごろしている清流は池の延長上で小川になった部分かな?浴場横には湧き水を利用した落差5mもある「兎月園大滝」が流れ落ち、それを露天の岩風呂風につかりながらゆったりと眺められたのだとか。いいですね〜。内風呂にはタイル張りのモダンな円形風呂があったようです。

 それにしても、こんな風光明媚な遊園地が(現在の概念とは違いますが)板橋区(こう書くと練馬区民の方々が怒りそうですけど‥)に存在していたなんて信じられませんね。いまのあの住宅街からはまったく想像することも出来ません。失われてしまったことがつくづく惜しいですが、もし、現在に残っていたとしても、この不況の世の中ではやっぱり存続は難しかったかもしれません‥

追伸;前回「兎月園運動場ノ一部」の写真をUPしましたが、その記事中、当時自転車は高価な物‥と書きましたが、先日”伝説のフレームビルダー”として紹介した梶原氏にお聞きしたところ、昭和10年頃は戦前の自転車輸出がピークの時期で、自転車は一般家庭でも買えるくらいの値段だった、とのことです。

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