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2009年9月

成増陸軍飛行場秘話7 〜沖縄特攻振武隊編・続編〜

S2022722 当ブログに訪れていただいている方々、お久しぶりです。私は元気です。(‥いや〜ずいぶん長い夏休みでした〜)実はこの夏、何十年ぶりかで勉強をしたくなり、某・都の西北大学の学芸員資格講座に通っていたんですよ。久々のキャンパスライフを楽しんでいた‥わけでもなく、仕事と学校で全く休みが無い状態で、ブログを更新する心的余裕がなかったんです。。

さてさて、本題に移ります。先月の初めころだったか、光が丘に住む、元・第194振武隊隊長でおられた堀山少尉から拙宅にこんな連絡があった。
 少尉 「貴殿は、最近講談社から発行された『特攻隊振武寮』という本を読んだかね?」
 私  「いえ、その本については寡問にして存じません。」
 少尉 「勉強不足である。研究家たるもの、いつも耳をそばだて目を見開き情報の収集を怠らなくてはならないのではないかッ!」
 私  「はっ、申し訳ありません。つい多忙にかまけて‥」
 少尉 「莫迦者!日本男児たるもの見苦しい言い訳など言語道断である!」
 少尉 「‥もういい。この本には成増飛行場に関するエピソードがいろいろ載っておるので、参考にするやうに。以上。」
といったやりとりがあり、さっそくamazonで該当の本を購入した。
41uxsip62pl_sl500_aa240_ この本は、NHKディレクターである渡辺考氏(1966年生れ)が、第22振武隊の一員であった大貫健一郎氏に取材をし、まとめたものだ。お二方の共著ということになっている。憶えておられる方もいると思うが、この本は、渡辺Dが担当し、一昨年前にNHKスペシャルで放映された「学徒兵 許されなかった帰還〜福岡・陸軍振武寮〜」がベースとなっている。まず、取り寄せた本をパラパラと見て驚いた。中には成増飛行場で撮影された写真が数葉掲載されており、特にカバーの下にある本の表紙の写真に目が止まった。それは、上に掲げた写真の別のカット(トリミングされているが)の写真だったのだ。上の写真では空中勤務者の顔は横を向いていてわからないが、本の表紙では、この機に乗務している大貫氏その人がこちらを向いてカメラ目線で写っている。いままでこの写真がどういうシチュエーションで撮られたものなのかわからなかったが、本書を読んでようやくわかった。ま、主題である”振武寮”については、研究家により諸説あり、大貫さんの体験は本当の事だとしても、ここで論じるのは無理があるので、肝心の成増飛行場でのエピソードについて少し引用させていただく。私も知らなかった話ばかりで非常に興味深いものだ。(以下引用途中省略あり)

『大貫さんは昭和17年9月、大学を繰り上げで卒業し、歩兵部隊に1年間所属したあとに「特別操縦見習士官」を志願して航空隊に入隊、戦況の悪化によって編成された特攻隊員に選ばれた学徒出身操縦士だった。昭和20年2月、大貫さんは本土防衛のための特攻隊員として東京の成増飛行場に「と号第22飛行隊」の一員として配置された。第22飛行隊は隊長をはじめとして全員が黒いマフラーを巻き、別称「黒マフラー隊」と呼ばれていた。(ここからは大貫さんの証言部分)私が22飛行隊の一員となった昭和20年2月ごろ、陸軍は米軍の動向を正確に把握しておらず、上陸の狙いは東京ではないかという噂が広まっていました。そのため、陸軍は本土で編成した9特攻隊のうち4特攻隊を関東地区に配置したのです。当時、東京の成増、調布、千葉の松戸、柏に帝都防衛用の飛行場があり、私は第22飛行隊に合流してすぐに明野から成増飛行場へ移動することになりました。ここには防空戦隊の飛行第47戦隊が常駐しており、そこに居候する形をとったのです。第22飛行隊は、最重要地域である東京周辺に米軍の機動部隊が来襲した際、海軍航空隊と連携して洋上攻撃をかけるのが最大の任務で、沖縄戦ということは言われていませんでした。2月末になると、我々第22飛行隊は大分県別府の近くにある海軍の大分海軍航空基地に短期派遣され、実際の船舶を相手にした実戦訓練を受けることになりました。(上の写真はその出発の時に撮られたようだが、本書では昭和20年3月とある)
3月20日、我々が所属する第10飛行師団の参謀が成増にやってきて集合をかけました。「おまえたちはこれからは沖縄作戦に参加してもらう。都城に移動して待機せよ」この時点でようやく、作戦が本土防衛から沖縄作戦に変ったことを知ったのです。参謀が帰ると、藤山隊長が我々の小隊を呼びつけました。「三小隊はちょくちょく夜行軍をしているが、明晩は第22飛行隊全員(12人)の設営を頼むぞ」夜行軍とは一種の比喩ですね。死にゆく前に隊員全員で別れの宴を開こうと言ってくれたわけです。幹事は私が買って出て、拓殖大学時代に通っていた大塚の料亭に出向き交渉しました。すると馴染みの女将が「みなさんの門出をお祝いしたいのはやまやまですが、飲み物も食べ物もないし、芸者は勤労動員でいないし、どうすることもできません」と言われ、我々で食料と酒は持ち込むということを条件とし、芸妓はなんとか女将さんがかき集めてみるということになった。私は成増基地に戻り、日ごろから我々特攻隊員を親身に世話してくれている、成増の最高責任者である奥田暢・47戦隊長に相談しました。「おう、主計に話しとくから、好きなだけ持っていってくれ」豪気な戦隊長はそう言ってくれました。成増飛行場の倉庫には酒も食料も豊富にそろい、当時超高級品だったサントリーの角瓶も大量に備蓄されていたのです。夕方になるとトラックを拝借し、角瓶30本と沢の鶴20本、ビールを2ケース、さらに肉、魚、米、缶詰をはじめとした食料を満載し、隊員12名もいっしょに乗り込んで出発しました。宴会がはじまり、東京大空襲の直後で灯火管制が敷かれていたが、どうせ死ぬ身だからと、窓に降ろしていた黒幕を外してワイワイやってました。ところが宴もたけなわのころ、女将さんが「大貫少尉さん、ちょっと」と手招きをします。帳場に降りると、そこには憲兵曹長がいて、これはまずいなと思いました。苦虫を噛みつぶしたような顔で「何事ですか、このご時世に」と抗議されました。私は明日都城へ出発する特攻隊員であることを説明しましたが、納得しない憲兵は、成増の47戦隊に電話で問い合わせました。話は奥田戦隊長まで行ったようで、どうなることかと思ったのですが、意外な展開になりました。奥田戦隊長は恐縮するどころか、憲兵を怒鳴りつけたのです。「お預かりしている特攻隊の方々だ。文句があるなら戦隊が全力でお相手するが、どうするか。憲兵隊長に聞いて来い」怒号にも似た迫力のある声が電話口から漏れてきて、さっきまで威丈高だった憲兵がすっかり縮こまってしまいました。憲兵へ隊長に渡すようにと清酒を3本ほど持たせると「なるべくお静かに」と言って帰っていったのです。我々は明け方近くまで痛飲し、成増の基地まで歩いて帰りました。霜柱を踏みしめながら、ふと見上げると朝焼けだけがやけに鮮やかだったのを覚えています。
3月22日午前10時ごろ、搭乗機の整備が完了したのを確認すると、黒いマフラーを首に巻いて機に乗り込み、戦隊長以下全戦隊員、飛行場勤務者総員をあげての盛大な見送りを受け、成増をあとにしました。』〜以上引用終わり〜

Photo ふ〜、だいぶ省略しましたが、成増飛行場についてはだいたいこんなエピソードが語られていました。特に奥田戦隊長についてのエピソードはあまり聞いたことがなく、興味深かったですね。戦隊長は、爆撃機からの転科生であり、47戦隊においては特攻隊員の人選を行なったりしましたから、戦後になってしこりもあったようです。まっ、いろいろむずかしいですね。優しい人だった、と聞いたことはあります。興味のある方は是非、本をお買い求め下さい。あくまで本題は”振武寮”について書かれたものですが。今年7月に出たばかりなので、容易に手に入ると思います。

 つい先日、旧成増会の幹事を引き受けている方から、靖国神社昇殿参拝のお誘いのハガキをいただきました。今年も無事開かれるようで安心です。現実に戦いに参加していた方々にお会いして話を伺える機会はそうそうないことですから。今回はどんなエピソードが聞けるのかなあ‥その様子はまたこのブログにUPします。

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