« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月

成増陸軍飛行場秘話6 〜さらば成増飛行場〜

007347Jpg <飛行場偽装作業>
 成増飛行場では、飛行場付きの第43飛行場大隊により、飛行機の掩体壕への隠匿作業が行われた。本来のコンクリート製の掩体壕の他に、ヒワダ葺き(ヒノキの皮を敷き詰めたもの) を施し偽装した、木造の掩体壕も作られた。
当時、飛行場大隊で教育作戦室に勤務していた、故・高橋正治氏(中尉)が残した「成増飛行場・飛行場記録(昭和20年3月10日作成)」の<飛行場の秘匿及偽装に関する事項>によると、“主として上空に対し偽装秘匿しあり飛行地区は偽装道路並に畠地に偽装、舗装滑走路は道路並に家屋の迷彩を施しあり。又掩体には植芝植樹の外麦種の播種、天蓋の構築在地機並に用水池自動車掩体にはヨシズを用ふる等、努めて付近の地形地物色彩に調和する如く偽装す。右の外在地機は既設道路を利用し飛行場西方約三粁地域に分散秘匿する如く工事中なり”とある。後には、滑走路に見えるように偽装した道路へ、ベニヤ板とドラム缶で作ったニセ飛行機を並べたり、笹目橋付近の荒川の河川敷に偽物の飛行場まで作ったそうである。しかし、ニセ飛行機を狙って米艦載機が機銃掃射を行い民家に被害が出たり、また、偽装はすぐに見破られてしまい、効果の程は疑問であった。

<さらば、成増飛行場>
 昭和20年3月26日、米軍はついに沖縄・慶良間列島へ上陸を開始した。4月6日、47戦隊は、関西方面に敵機動部隊が接近中ということで、攻撃任務につくことになった。戦隊は成増飛行場を出発し、大阪の佐野飛行場へ向かった。そこで米機動部隊の出現を待ったが、一向に出撃命令は出されず、隊員達は訓練の合間に魚釣りなどをして過ごしていた。18日、とうとう出撃の機会がないまま、戦隊は成増飛行場に戻った。47戦隊が成増を離れている間、4月2日、7日、12日、13〜14日と、板橋区は断続的に空襲に見舞われていた。特に13日深夜の空襲は、東京陸軍造兵廠地域が爆撃の目標とされ、板橋町地区は、ほぼ全域に渡って被害を受けていた。
 米軍の沖縄侵攻を受けた第六航軍は、「天一号作戦」を発動した。隷下にあった第百飛行団は、すでに沖縄作戦が予想されていたため、3月10日前後に南九州へ移動しており、第101戦隊は都城東へ、団司令部及び第102戦隊は都城西へ、第103戦隊は隈庄基地に展開していた。第百飛行団は、飛行団の中から特攻隊・振武隊を編成させられたり、沖縄に上陸した米軍に占領された飛行場への攻撃や、特攻隊の掩護任務など、第一次から第八次に及ぶ航空総攻撃に参加していた。展開していた飛行場に対する米軍の空襲も激しく、5月25日までに戦力のほとんどを失ってしまっていた。そこで、第百飛行団の戦力建て直しが計られることになり、それは成増飛行場で行われることになった。入れ替わりとして、47戦隊が都城西飛行場に展開することが決まり、28日に移動せよとの命令が下された。成増飛行場は、戦隊の根拠基地であったため、本部機能と連絡機を有した留守部隊を残し、戦隊は出発することになった。
あわただしい出発だったが、中隊ごとにいつもの分隊離陸を行い、空中で集合した戦隊機は、近隣の住民達の見送りに翼を振りながら答え、住み慣れた成増を後にし、南の方角へと去っていった。

‥九州へ移動した47戦隊は、8月14日に九州の最南端にある佐多岬上空で行なわれた、日本陸軍飛行隊最後の戦闘まで戦い抜く。これらの戦いのさ中、中隊長はじめ主力のベテラン隊員達は、次々に散華していった。そして、47戦隊は成増飛行場へ戻ることなく、山口県の小月基地で終戦を迎えた。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

成増陸軍飛行場秘話 ”神話”について

Photo 最近続けて成増飛行場についての記事をUPしておりますが、これらは地元の史談誌に数年間に渡って連載していたものを、小出しにして掲載しております。文章については、関係者の方から直接伺った話を元に、様々な参考資料と照らし合わせながら書き綴ったものです。当然、事実からはずれないようにしなければなりませんが、人間の記憶はあやふやなものであり、数十年も前のことをきちんと記憶して語るなどということはなかなかできません。勘違いをしていたりすることはよくあることで、印象強く残った記憶を断片的に語っていただき、検証しつつそれらを組みあわせる‥そういった作業をするわけですね。
 すでに出版されている資料については、出来うる限り目を通しますが、常に、この記事は何を元に書かれているのかを考慮しなくてはなりません。最近は、ネットという便利な検索道具が充実したおかげで、本を探したりすることが非常に便利になりました。そして、様々な人がネット上で自分の研究成果を発表し、それらの情報を安易に読む事ができます。私もそれらの情報をよく参考にさせていただきますが、その元となるもの‥ソースはなんだろう?と考えると、大本の資料を引用し、それをさらに孫引きし‥といったケースが多く、そうするうちに情報が一人歩きし、ついには”神話”のように語られるようになる、なんてことがあります。47戦隊を例にすれば、「整備の神様、刈谷中尉による四式戦・疾風の稼働率の驚異的な高さ」がそうですね。これは、様々な本やネット上ではすでに周知の事実で、まさに神話のごとく語られています。私も、生前の刈谷さんに何度かお会いし、その高い見識に圧倒された一人です。ご高齢にもかかわらずパソコンを使いこなし、非常にシャープで、数値に関しては実に的確にお答えになりました。(写真は、マニアから入手した疾風の主輪を鑑定してもらった時のもの。刈谷さんの書斎にて写す)
 刈谷さんは、昭和30年代から航空雑誌に手記を寄せたり、インタビューに答えたりし、たくさんの資料が残されています。私も直接、貴重な話を伺いましたが、尊敬の念を込めてお聞きし、また刈谷さんの知識の豊富さに圧倒され、疑問を差し挟むなんてまったく考えられないことでした。後年、文章を書くことになり、あらためて検証しつつ、常に”これはホントのことなのか?”という疑問の目で見ていくと、どうも、話が単一なのが気になってきました。それは、すべて刈谷さん自身が提供した情報であり、外から検証されたことについては、ほとんど見当たらない、ということが原因でした。もちろん、刈谷さんが嘘やでっち上げの数値を提供しているということではありません。ただ、検証が出来ない、ということなのです。大戦末期に製造された四式戦は、熟練の工員が戦地に送られてしまい、勤労動員されたシロウトにより粗製乱造され、部隊稼働率は、酷い所では50%以下といわれました。しかし、47戦隊では、刈谷さんの確立した合理的な方法でメインテナンスを行ない、稼働率は常に80%とも100%ともいわれておりました。これが後々尾ひれがつき、神話へとつながってゆくのです。
 私は、ある空中勤務者(パイロット)の方からこんなことを聞いた事があります。「空中勤務者は、整備員を信頼していますが、やはり、空中勤務者同士の結びつきと同じにはなれない。だから、感じ方も違うことはありますね。」「刈谷さんはエリートだからね。だからプライドも高い。」実際、47戦隊では整備隊は1中隊に1隊付き、そこに刈谷中尉を頭にした整備専門の中隊(吉野隊)がついていました。刈谷さんは中隊の一人の長ではありましたが、全体の指揮をしていたのではなく、ましてや一人で定数50機あまりの機材の面倒を見ることはできません。そして、やはり人間の集まりなので、エリートである刈谷さんを心良く思わない同僚もいたようで、「◯◯と刈谷さんは仲が悪くってねえ‥」という話もちらほらと。刈谷さんは当時としては珍しく、非常に合理的に物事を考える方であり、そういう人間は誤解を受け易いものなのです。現実のことでは、前回描いた、”さらば成増飛行場”で、成増飛行場を離陸し、一路、山口県の防府基地を目指した47戦隊機でしたが、離陸後故障機が続出し、次々に途中の基地へ脱落してしまい、予定通りに着いたのは半数に満たなかったそうです。「やっぱり四式戦は故障が多かったよ。」というのが空中勤務者の一致した意見でした。稼働率が何をもって数えられるのか、私にはわかりません。全機離陸出来れば100%とカウントされるものなのでしょうか‥。

 今回は、たまたま刈谷さんについて思うこと(故人となられた方について、今さらこんなことを書いてしまうのは心苦しいですが)を述べましたが、取材をするにつれ「う〜ん、これは書いてしまっていいのかどうか‥」というケースが出てきます。事実なんだから臆すること無く描くべき、と思う反面、話者の心情を思うと、書いてしまうことをためらうこともありますね。なかなか難しいものです‥。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »