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2009年4月

成増陸軍飛行場秘話5 〜沖縄特攻振武隊編・その1〜

Photo 成増飛行場を根拠基地とする防空任務部隊、飛行第47戦隊が首都防空任務を解かれた事については前回描いた。それでは、その後、成増飛行場はどう使われていたのだろうか。そう、何度か触れていたように、特攻隊の訓練基地として利用されていたのである。普通、特攻隊の基地といえば、九州にある知覧、都城、万世や海軍の鹿屋基地などが思い浮かぶが、これらは最終出撃地であり、部隊の編成や訓練は本土後方の基地で行なわれていた。その一つが、成増飛行場だったのである。これから数回に分けてそのことを描いてみる。まずは、振武隊の成り立ちからはじめよう。

[陸軍特攻・振武隊とは]

 昭和19年7月9日にサイパン島を制圧した米軍は、8月にはテニアン島・グアム島を陥落、9月にはペリリュー島へ上陸した。そして、マリアナ諸島の攻略にも成功した米軍は、次の目標であるフリピン島を目指した。一方、絶対国防圏を失ってしまった日本軍は、インドネシア方面から輸入される、燃料などの資源輸送ルートを確保するため、その中間地点のフィリピンを失うことは、何としても阻止しなければならなかった。米軍はフィリピン攻略に先立ち、台湾や沖縄の航空基地を叩いておく必要があり、米海軍機動部隊は、10月12日から16日にかけて大攻勢(台湾沖航空戦)を行った。その結果、日本軍は大敗北をきっし、米軍はフィリピンのレイテ島攻略を開始した。そこで、レイテ島に迫る米軍を阻止するため、日本の連合艦隊がレイテ湾へ突入(捷一号作戦を発動・レイテ沖海戦)する際の艦隊援護として、米空母の飛行甲板を一時的にでも使用不能にするため、海軍飛行隊による特攻隊・神風特別攻撃隊が組織され、零戦に250キロ爆弾を積み、10月21日から米艦船への体当たり攻撃が行われた。
一方、日本陸軍航空隊においても、特攻部隊の編成が計画されており、10月20日、陸軍は茨城県の鉾田教導飛行師団に編成を命令し、21日、万朶隊(ばんだたい)16名、26日、浜松教導飛行師団の富嶽隊26名を発表した。万朶隊は、11月12日にマニラ近郊のカローカン飛行場から、陸軍特攻隊として初の出撃を行った。11月2日、先に攻撃を始めた神風特別攻撃隊が大戦果を上げたため、陸軍中央部では、教育飛行部隊を母体とする特別攻撃隊を六隊編成。それぞれを八紘第一〜第六隊と命名し、フィリピンへ送った。このうちの第四隊に、47戦隊員から指名された4名が参加し、隊は「八紘第四隊・護国隊」としてフィリピンの海に散った。フィリピンからの特攻は、翌昭和20年1月13日・デルモンテ基地から出撃した精華隊まで続けられる。
1月中旬、フィリピンの航空軍は台湾へ後退し、大本営は「帝国陸海軍作戦計画」を策定した。この作戦は、南西諸島や沖縄・台湾方面を「天号作戦」、本土決戦準備は「決号作戦」と命名された。そして、この作戦に投入する陸軍特攻隊の一部が「振武隊」と名を付けられたのである。

 振武隊は、第六航空軍のもとで編成された特攻隊の総称であり、昭和20年1月29日に第十八〜第四七まで、3月20日に第四八〜第百十六振武隊までの編成が行われた。その後も編成は続き、終戦時までに第四百六十三振武隊を数えるに至った。但し、様々な理由により欠番になった隊や、出撃に至らずに終戦を向かえたり、飛行機の支給が間に合わず、訓練のみで終わった隊もあった。特例として、4月6日の天一号作戦・第一次航空総攻撃に参加した、第百飛行団の志願者で作られた、第一特別振武隊が存在している。これは、大本営からの命令ではなく、自発的に第六航軍より編成された特攻隊のようだ。
振武隊は、陸軍の教育飛行隊(担任)によって編成され、各地の陸軍基地(担当)へ送られて訓練を受け、最終的に知覧や都城東などの前線基地(陸軍機は航続距離が短いため、作戦地域に近い基地へ移動する)から出撃した。機材に四式戦を使用する隊は、都城基地へ送られた。振武隊の全体像を掴むのは困難なことで、特攻戦死したり、訓練中の事故で亡くなった方のことは、戦後、生き残った方々が調査した記録などを丹念に探すしかない。また、出撃後、生還した特攻隊員を収容した振武寮についての報道のされ方など、ある種の情報操作を持って伝えられていることなどもあり、事実を判断することが難しい。

故障などの理由で生還した方々の口は一様に重く、現在、田柄にお住いで、元第四八振武隊員として、成増飛行場で訓練中に赤塚小学校校庭に不時着し、大けがを負って隊員を外された、S元少尉へインタビューをお願いしたところ、「今さらそんな恥さらしなことを喋る気はない。」と断られたこともあった。  〜次回へ続く〜

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成増陸軍飛行場秘話5 〜沖縄特攻振武隊編・その2〜

S2022722 今日は板橋区が大きな被害を受けた空襲の祈年日ですね。詳しくは昨年同日の当ブログ記事をご覧下さい。今回は、成増飛行場を飛び立ち沖縄特攻(沖縄近海に停泊する米軍艦に対する特攻攻撃)を行なった振武隊について描く。

第22振武隊は、昭和20年2月4日に明野で編成された。成増で訓練を行ったのち、4月3日から11日にかけて知覧や喜界島基地より出撃、隊員12名中6名戦死。

第48振武隊は、3月23日明野で編成、4月3日より成増で対艦特攻訓練を行い、5月中旬に成増を出発した。5月25日に知覧基地に到着し、28日から6月8日にかけて出撃、8名戦死。知覧で富屋食堂を営み、特攻隊員の世話をして有名な、鳥浜トメさんを描いた「ホタル帰る」という本に、第48振武隊員だった中島豊蔵軍曹のエピソードが描かれている。中島軍曹は、着任当日、トラックの荷台に乗り富屋食堂の前を通りかかった際、以前から顔見知りだったトメさんを見つけて飛び降り、運悪く右腕を負傷してしまった。そのため最初の攻撃には参加出来ず、6月3日、自転車のチューブで体と操縦桿を縛りつけて出撃した。

第49振武隊は、3月23日明野で編成、成増で訓練を行ったのち、5月上旬に九州へ移動。5月6日から25日にかけて知覧を出撃、7名戦死。前出の「ホタル帰る」によれば、25日に出撃した南部少尉には、両親が見送りに来ていた。母親は白い着物を着、まだ夜も明け切らない早朝の見送りの場にはふさわしくない、白いパラソルを手に持って立っていた。やがて司令官の壮行の辞が述べられ、水杯が交わされた。この日の出撃は沖縄の米機動部隊への第八次総攻撃で、飛行場には71機が待機していた。これだけ戦闘機が並ぶと、どの機に誰が搭乗しているのかはわからなくなる。トメさんが、出撃して行く特攻機に手を振っていると、中の一機が、するすると赤い紙テープを出しながら離陸するのを見た。離陸した機が南へ反転したその時、南部少尉の母親が、白いパラソルを開き頭上にかざし大きく左右に振り始めた。トメさんは、はっと気がついた。そうか、あの赤いテープと白いパラソルは、母と子、お互いを認識させるための、悲しい小道具であったのだと。

第51振武隊は、3月29日、明野で編成された。5月6日から28日にかけて知覧を出撃、9名戦死。この隊については、直木賞作家である豊田穣氏著「日本交響楽7・完結編」に描かれているので、以下そこから引用する。
「明野で編成された隊は、まず所沢に飛行機を受領に行った。彼らが受領したのは、隼三型という戦闘機であった。自分が乗って突入する飛行機が決まると、彼らは東京に近い成増の飛行場で、突入の訓練を受けた。この頃研究されていたのは、敵のレーダーによる発見を避けるため、敵発見までは低空で接近し、突入の前に千メートルまで高度をとり、急降下あるいは暖降下するという方法であった。陸軍の飛行機は軍艦に突入することになれていないので、海上を飛ぶための航法の訓練も必要であった。一ヶ月ほど成増で訓練を行った後の4月下旬、いよいよ知覧に移動することになった。その隊員の中に、背の高いがっちりした男がいた。男は京都出身で名を光山文博といった。実は、光山少尉は朝鮮人であり、今までに判明している朝鮮・台湾出身者14名の特攻戦死者のうちの一人であった。5月上旬、富屋食堂に光山少尉がふらりと現れた。昭和18年10月から知覧の教育隊で、一年間教育を受けている間に親しくなっていたのである。トメさんは懐かしそうに光山少尉を迎えたが、この時期にやってくるのは特攻隊員であるからと、瞬時に悟った。5月10日、第51振武隊員のうちの10名が富屋食堂にやってた。トメさんは、彼らが明日出撃なのだとわかった。隊員達にはあきらめの表情が浮かび、屈託もない。やがて宴もたけなわとなり、隊員一人一人が歌を歌うことになった。光山少尉の番がきた。では私の故郷の歌をうたいます—アリラン、アリラン、アラリヨ‥‥—隊員一同とトメさんは驚いた。そのとき初めて光山少尉が朝鮮人であることを知ったのであった。光山少尉は、朝鮮の布地で織った財布を形見としてトメさんに預け、翌日午前6時30分、知覧飛行場を飛び立ち、帰らぬ人となった。」

第53振武隊は、4月14日常陸教導飛行師団で編成された。成増で機材の整備・訓練を行ったのち、5月18日から6月8日にかけて知覧を出撃、9名戦死。他に、4月30日に下館で編成された第179・180振武隊が、6月3日朝、成増飛行場から防府飛行場に向かったという話しが残されており、6月22日から7月1日にかけて都城東を出撃、計7名が戦死した。

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成増陸軍飛行場秘話5 〜沖縄特攻振武隊編・その3〜

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今回は、待機中終戦となり、出撃をしなかった振武隊について描く。なお、第183・184振武隊については、項をあらためて後日記述します。

 

 第187・188振武隊は、5月中旬に成増で編成された。6月上旬、47戦隊・富士隊に所属していた野村少尉が187振武隊に副隊長として加わり、両隊は館林の基地に移動した。野村少尉は終戦時に所用で成増飛行場におり、夏草生い茂る殺伐とした飛行場の姿を目撃されている。(当ブログでたびたび話題として取り上げた、堀山氏の所属していた第193・194振武隊についてはこの項、後半に記します。)
第231振武隊は、自殺機として後世に名を残すことになる、中島キ115(剣)を使用する予定の部隊であった。キ115は爆撃機として昭和20年1月に試作指示が出され、わずか二ヶ月後に試作機が完成した。資材不足の時期に作られたため、機体構造も簡略化され、木材やブリキで製作されており、離陸時に主脚は投棄され、着陸は胴体着陸で行う仕様となっていた。機銃も爆撃用の照準機も搭載しておらず、また、機体も胴体着陸には耐えられない強度であったため、爆撃機といいながら、これはもう特攻専用機といわれても仕方の無い代物であった。5月13日、第231振武隊長として成増に赴任した郷田克中尉は、飛行場の南にピストを貰い(富士隊が使用していたピストと思われる)99軍偵や99高練で、自らの計画により訓練を行った。助川伍長は高練で訓練中、二度不時着を経験する。訓練は8月初旬まで行われ、その後、館林基地に移動し終戦。この時までキ115は陸軍の審査を通らず、実戦に使用されることはなかった。

堀山隊長の場合
 それでは、振武隊への配属と、どういう経過で成増に赴任したのかを、第194振武隊長であった堀山久生元中尉の例で示そう。堀山さんは、現在、奇しくも成増飛行場跡地である光が丘にお住まいである。
堀山さんは大正12年に生まれた。昭和17年10月に陸軍士官学校に入校し、同19年4月に卒業、航空へ転科した。その後、陸軍航空士官学校を経て9月下旬に明野教導飛行師団附となり、天竜分教所で戦闘機の操縦訓練に明け暮れていた。
昭和20年5月10日頃、乙種学生を終了し、作戦補充要員となっていた堀山さん他2名に、「第16飛行師団附を命ず」との命令が出された。戦隊に所属すると聞いていた堀山さんらは、赴任する戦隊への配属命令の電報を待ったが、一週間経っても連絡が来ない。そこで、明野本校に照会電報を打ってもらうと、「何故赴任して来ないのか。」との返電があった。3人は急ぎ5月21日に営外生活に必要な荷物を担ぎ、疎開していた東京・蒲田東小4年生の児童らに見送られ、トラックで磐田駅へ向かった。堀山さんは東京の実家で一泊し、翌22日に下館の第16飛行団に出向き、飛行団長に申告した。その時、思いがけず「諸官に来てもらったのは承知の通り、特攻隊長要員である。然るに赴任せず、身辺整理をしてきた様子もない。」と叱責され、団長室を追い出されてしまった。幕僚室に行き、そこの少佐へ事情を説明したところ、少佐は、「そうか、明野のやりそうな(特攻要員であることを明示しない)ことだ」と頷き、堀山さんらが着任しない間に編成は進み、振武隊長は後1名いればよい、と告げた。実際に、飛行団が飛行師団へ特攻隊員の差し出しを命ずるときの電文表現には、微妙な言い回しがあり、やり取りの間で齟齬が起こることは、ままあるようであった。堀山さんらは、ここまできて1名を残して帰るなどという、恥さらしなことは出来ないので、このまま団に置いてくれ、と頼んだ。しかし、それは受け入れられず、代わりに、第30飛行師団では、次々に特攻隊の編成計画をしているので、集団に連絡するから市ヶ谷の航空本部に行き、指示を受けるようにと言われた。そこで、堀山さんと東京出身のもう一人が市ヶ谷に出向いたが、本部でも、編成は終わったと告げられた。しかし、懇願して名簿を調べ、ついに成増に隊長2名が欠員であることを見つけ出し、ようやく第193・194振武隊長として、下命を受けることが出来たのである。
翌23日、成増飛行場に行き、堀山隊長は4名(堀山さんらの振武隊は1隊6名編成)の部下と合流した。部下は、5月初め頃から成増で待機していたようである。ところが、成増では訓練をしたくとも肝心の飛行機が無く、それから10日ほどを、近接した場所にある沢田農場へ遊びに行ったりして過ごした。訓練は館林基地でおこなうことになり、堀山さんらは、6月3日に電車で館林へ移動した。その間、第193振武隊は、熱海の保養施設へ滞在するなどしていた。

6月23日、沖縄が米軍に占領され沖縄作戦が終了すると、振武隊は本土決戦に転用されることになった。堀山隊長らの両隊も、本土決戦に備え、迫る米機動部隊攻撃を目標に訓練を続けたが、8月15日、館林基地にて終戦を向かえた。

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夢の生まれた場所。 〜梶原製作所探訪記〜

1 先日紹介した、伝説のフレームビルダー・梶原さんの工房をお訪ねする機会があったので、記事にさせていただく。”カジワラフレーム”などのキーワードで当ブログにアクセスする方も多いようで、関心も高いようですし。

さて、説明するのがメンドウなので経過は省かせていただくが、今回の訪問には、私が日頃ご教授いただき、大変お世話になっている、旧交通博物館専任学芸員の佐藤M先生に同道いただいた。佐藤先生は昨年定年となられたが、引き続き学芸員を続けておられ、現在、鉄道博物館の学芸部長も兼任している。先生は”歩く交通図書館”と称される程、交通全般の知識をお持ちの超人だ。なにがすごいって、わからない事にも答えてくれるんですよ。(こういう切り口で調べれば解決するのではないか?と導いてくれるのだ。)

1_2 前回も書いたけど、梶原さんは自転車業界の一線を引いたが、工房である「梶原製作所」はまだ存在している。工房はJR浮間舟戸駅から歩いて10分程の住宅街(残念ながら北区側)の一角に、昭和然とした姿でひっそりと建っている。住居の隣の薄暗い工房内には、工作機械や、様々な自転車部品などが天井から床まで置かれ、溢れんばかりだ。左の写真は、明治時代のもの。

23 梶原さんは、仕事の傍ら(というかこちらの方が主かも。)全国の骨董市を回り、自転車などの資料を収集している。(左の写真は明治時代のフレーム)右の写真、手に持っているのは何だかわかりますか?これ、明治時代の”タイヤ”なんですね。まるで蛇の抜け殻みたいで気持ち悪いですね。(失礼)

4 これは明治時代の自転車灯です。初期の頃は”提灯”だったんですネ。小田原提灯をもっと小型化したような感じですか。なかなか手に入らない”レアもの”だそうです。骨董商もどんなことに使ったのか気がつかず、割とリーズナブルな値段で手に入れたのだとか。ふつう気がつきませんよね。。さすがです。

1_3 さりげなく天井に飾ってあるこの自転車、これは東京オリンピックの自転車競技でフランスチームが使用したレースマシンです。マニアには延髄の逸品だそうで、よく譲って欲しいと頼まれるそうですが、マニアは使用されている部品が目当てであり、譲ってもバラバラにされてしまうだけなので、絶対に手放さないそうです。

4_22_23_2 日本の自転車界にとって、東京オリンピックはエポックメーキングとなったイベントであり、企業は研究のため競って大会で使用されたヨーロッパチームの自転車を買い漁ったそうです。選手側もアマチュアでもありおおらかで、売って得たお金は、日本土産を買うのにあてていたそうです。
左の写真はヨーロッパチームが使用したタイヤ。日本のメーカーは、とにかく何でもかんでも貪欲に買い漁ったそうです。梶原さんが手にしているのは、イタリア・クレメント社がオリンピックの時にセールス用に持ち込んだタイヤ見本帳。当時は外国企業も日本に売り込みに来ていたそうです。でも、タイヤ一本でも相当な高額だったそうだ。先進国に必死で追いつこうとした時代を語る、貴重な逸品ですね。


2_33_3 工房内はとにかく収集品で溢れており、シロウトの私にはどんな価値があるのかはわからない。が、自転車歴史マニアならばヨダレ垂らしっぱなしになるんだろうなあ‥。コレクションには、今は無き国内の名フレームも保存されている。梶原さんの手にするのはそんなフレームの一つ、KATAKURA製フレーム。

5_26 梶原さんが特に収集しているのが、日本で現存最古のメーカー、宮田自転車の物だ。写真は戦時中の宮田自転車のレース用自転車ブレーキ。デットストック品で今でも新品同様だ。宮田では昭和11年頃から製造を始め、海外にも輸出していたそうである。

4_3 写真は、昭和30年代初めにデビューするや、その強さで他を圧倒、平成7年に引退するまで走り続けたスーパースター”高原永伍氏”が、昭和40年代の全盛期に梶原さんにオーダーしたフレーム注文指示書。さまざまな指示が書き込まれている。高原氏は現在も競技自転車界の重鎮として活躍しておられる。


1_42_4 さて、これが梶原さんの製作した幻の”カジワラフレーム”だ。フレームの接合部の細部に渡り”機能性と美”を追求した作品だ。梶原さんは自分の製作したフレームに自身の名を冠さなかったが、見る人が見ればわかるのだそうだ。まさに、梶原さんの前にカジワラなし梶原さんの後にカジワラなし、だ。


Photo 工房の表には、梶原さん愛用の自転車が、ひっそりと置かれていた。当然、ご自身で作られたカジワラフレーム車かと思いきや、スーパースター・中野浩一元選手愛用「NAGASAWA製」のものだそうだ。フレームはレース用だが、それ以外は一般品を装備しているとのこと。他にも数台所有されているが、ブリジストン製(フレームの一部を梶原さんが設計したもの)などである。


Photo_2 梶原さんは、フレームの製作こそやめたが、競輪用の自転車部品は未だに製作しておられる。工作機械も現役バリバリだ。
梶原さんの、けっして大きくない工房内には、過去の夢も、現在の夢も、未だたくさん詰まっているような気がする。

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