成増陸軍飛行場秘話2 〜小隊長ハ還ラズ〜
昭和20年2月10日。この日午後1時過ぎ、八丈島のレーダーがB29の編隊を捕捉し、現在敵機は北上中との情報が入った。関東地方の防空を任務とする第10飛行師団は、ただちに隷下の防空戦隊に全力出動を命じた。
出撃前、第2中隊・富士隊の伴さんは、いつものように第2分隊長の三瓶曹長に向い「敬礼、伴少尉僚機!」と報告する。それを受けた三瓶曹長は「三瓶曹長以下2名、第2分隊!」と小隊長の吉沢中尉に報告した。すると、吉沢中尉は伴さんへ向かい、「今日はついてこいよ・・」と声をかけた。「はい、冥土までもついて行きます!」そう咄嗟に伴さんは答えた。いつもは、こんな言葉をかけられることはない。伴さんは、これまで何度も邀撃のたびに吉沢中尉の僚機として行動を共にしたが、第一撃をかけるとついて行けず、単独行動となってしまうのが常であった。この時も、それを注意されたのかな、と思っていた。見れば中尉は、首からマスコット人形をぶらさげている。当時はよく慰問品として、人形やお守りが兵隊に贈られていた。しかし、吉沢中尉は普段の出動ではそのような物を身につけることは無かった。
小隊はいつものように編隊離陸をし、指定されている八王子上空へ向かった。途中、戦隊本部から無線が入り、太田(群馬県)上空へ進路を変更するようにとの命令が入った。この日は、太田の中島飛行機工場が敵の目標のようであった。B29の編隊は、午後3時ころから鹿島灘方面より本土に侵入して来た。吉沢中尉率いる小隊は方向を変え、高度九千五百メートルで水平飛行に移った。そのうち、吉沢機が急に増速したので、伴さんもレバーを一杯にしてついてゆこうとしたが、どうしても引き離されてしまう。その時、前方右下にB29の一編隊が飛行しているのを発見した。どうやら吉沢機は敵を追い越し、前方から攻撃をかけるつもりらしい。伴さんは加速する吉沢機に追いつけず、とうとう見失ってしまった。すると、まもなく前方から猛烈な勢いで一機のキ84(疾風)が突っ込んで来た。その時、伴さんは敵編隊の下に潜り込もうとしていて一瞬、目を離した。次に見たとき、キ84は敵編隊の真上十数メートルで敵と同航しながら旋回し、水平姿勢をとった。伴さんはそのままB29の真下に入り、間合いをはかって上昇しながら全力射撃をした。が、離脱をしようと敵機の真後ろを通った瞬間、ガンガンガン、と大きな音がして敵弾を浴びてしまった。滑油系統をやられ、滑油圧力計がみるみる低下しエンジンが焼き付いた。下を見回すと、下館飛行場が見える。伴さんはそのまま飛行場へ滑空ですべり込んだ。そこでは士官学校の候補生が飛行機の練習をしており、飛行場の大尉の人に「自分は成増です。」と言うと、それでは近いから乗せて行ってあげましょう、と2式高等練習機で連れて帰ってくれた。大尉は、伴さんが降りると何も言わずに離陸して帰って行った。すぐに戦隊本部へ報告にいくと、吉沢中尉と伴少尉が未帰還、ということになっていた。奥田戦隊長から、「吉沢は知らないか」と聞かれた。ところが、僚機だった伴さんは見ていなかった。「前方攻撃をする所は見ていましたが、それからあとは見ておりません。」非常に無様な思いをしながら答えるしかなかった。その後、情報が入り、吉沢中尉は体当たり攻撃を行ったことがわかった。体当たりをし、機外に投げ出された吉沢中尉の体は、敵弾により傷つい落下傘縛帯から抜け落ち、そのまま地上に落下していったという。吉沢中尉の最後の様子を聞いた伴さんは、長機の最後を確認出来ずにいたことを恥じながらも、「なぜ特攻隊員でもないのに体当たりを・・」と思った。しかし、気持ちが落ち着いてから思い返してみれば、心当たりがいくつかあった。前年の11月下旬、幸軍曹とともに特攻任務を伝えられた時、「俺がなりたかったんだが、お前らが・・」とつぶやいていたこと。狂犬病の予防注射を拒否したこと。出撃の時にさげていたマスコット人形。「今日はついて来い」と微笑みながら話しかけられたこと・・。吉沢中尉は、先任将校として部下だけを特攻で死なせず、いつかは自分も、と考えていたに違いないと気がついた。同じ富士隊の幸軍曹、粟村准尉、鈴木曹長が特攻に散ったいま、今度は自分の番だと覚悟を決めていたのだろう。吉沢中尉には、2月23日付けで、防空総司令官の東久邇宮稔彦王より感状が授与された。
体当たり散華からちょうど38年経った昭和58年2月10日、吉祥寺市の大法禅寺境内に、吉沢中尉の辞世の句を刻んだ勇魂の碑が、中尉の姉達によって建立された。隣には観音像が建てられ、その下に、ご先祖や、昭和16年に同じく飛行隊員として戦死した兄と共に、吉沢平吉中尉は眠っている。
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