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2009年1月

祝! おかげさまで一周年。

Kitano31 皆様、明けましておめでとうございます。ってもう年が明けてから一週間が過ぎてしまいましたね。初詣は行きましたか?私めは熊野町熊野神社、子易神社、本町氷川神社、中板氷川神社、上板氷川神社、天祖神社、徳丸北野神社、赤塚出世稲荷神社、赤塚諏訪神社、浄蓮寺、に行きました。。欲張り。。

 今月で当ブログを始めてからちょうど一年目となりました。数日前、どこぞのサイトにURLがさらされ、ではなく紹介されたようで異常にアクセスが多く、感謝のかぎりです。これからも、ニッチなネタをいろいろUPしてゆきますのでお楽しみに。
さて、新年明け最初の話題は・・一周年を記念し初心に帰ると言うことで、我が故郷、赤塚郷徳丸村の想い出話などをひとつ。興味のない人にはスミマセン。
 上の左側の写真、これは、昭和16年ころ、現・板橋有徳高校の前身である北野高校のそのまた前身、府立第12高女の建設地鎮祭が執り行われている所を撮影したものだ。地鎮祭の方角、というものが決められているのか知らないけど、たぶん生徒達は北西方向にむいているものと思われる。高い木立といい、なんだかとっても神秘的な景観ですね。今はこの左手側の方角にサティが建っているなんてホント信じられませんね〜。でも、私はなんとなくこの風景、実感があります。もちろん、この頃ワタシは存在していませんが、とにかく徳丸は大木の茂る林が多かった。子供の頃、さすがにこの辺は住宅地になっていたけど、北野神社周辺はまだまだ林で、徳丸通りなんてまるで日光杉並木街道のようだった。明治生まれの古老の話で、徳丸は昼なお暗い地、と言われていたが、そんな感じは昭和50年代初め頃まで残っていた。大山に住んでいた親戚には、なんでこんな田舎に住むんだ、といわれ、高校生の頃、清水町に住んでいた友人が自転車で来た時には、なんて緑の多い所だ!と驚いていた。(そんな徳丸6丁目住まいの我々でも、大門あたりを差して”板橋のチベット”よりまし。と自慢?していたが。)右側の写真は昭和50年代始めに北野神社境内で撮影した写真。本殿と旧・社務所の裏側に茂る林がわかるかと思います。小学生のころ、夏休みに毎朝5時に起きて、クワガタを獲りに通った場所です。ワタシはこのころからマメな性分で、5年生の時など実に30日間通い、30匹捕まえた記録を残しました。ノコギリやヒラタ、コクワ、いろいろいましたね。でも、カブトムシはいませんでした。当時、すでにカブトムシはデパートで買うもんでした。神社の隣は牧場で、家が並ぶのは参道沿いくらい、あとは畑と林の連続でした。あの急な天神坂は舗装もされていなくて、雨が降ったらもう悲惨。雪が降ろうものなら凍りつき、登り下りは命がけ(これはオーバーですが)でした。東側は竹林で、白黒マダラの強烈なヤブ蚊がわんわん唸る人跡未踏といった感じの地帯でしたが、そこは田舎・徳丸の子、笹の葉でヤブ蚊を追い払いながら糸鋸で竹を切り出し、竹馬を作ったり、竹をつっかえ棒にして前谷津川を飛び越えたり(飛び越えきれずに川に落ちたり)しましたね。前谷津川には魚の姿は見えなかったけど、イトミミズはいました。あと、カエルとかカタツムリとかトンボは多かったですね〜。徳石公園は私が小学一年の時に出来ましたが、砂場を掘っているとオケラがゴロゴロ出てきました。近くに天神坂の方へ向かう”鷹番の坂”があり、そこの崖には清水の湧く(地下水が染み出てくるところ)場所では、小さな沢ガニが穫れた。当時でも見つけたときは、沢ガニだあ〜!!と驚きましたね。さすがに珍しいのでリリースしましたが。そうそう、オニヤンマなんかもブインブイン飛んでました。虫歯で中尾観音堂近くにあった布施歯科医院に通っていた時、途中で捕まえたカナヘビを袋に入れて持っていたら、女医さんに”今すぐ捨てて来い!”と怒られたのも懐かしい想い出だなあ‥。
日頃、お年寄りの方に昔話を伺いながら、”昔は自然がいっぱい残っててね〜虫や動物もそここに”‥なんて話をされ、そりゃ昔はそうでしょうよ、他にもっとめずらしい話はないのか?なんて不遜な態度をしている自分がお年寄りと同じ話をしているのでもう止めますが、それにしても、上の話はそんなに大昔のことではないんですよ。今でも、当時の風景をカラー映像で思い出すことが出来ますもん。あの”なめじじい”の日に焼けて深くシワの刻まれた顔とか、点在していた小さな駄菓子屋の風景‥。時々、あのころを思い出したくて徳丸を彷徨うことがありますが、う〜ん、ほんと変りました。。いや、変らないものがありました。それは「坂道」。今も昔も徳丸の坂の多さは変りません。ちょっとメタボな体であえぎあえぎ坂を上れば、そこには晴天に照らされた徳丸の台地が広がる‥

‥きれいにまとまった所で、今年もよろしくお願いいたします。

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64年前の1月9日、成増上空。

PhotoPhoto_2Photo_3 いや〜寒いですねえ。冷たい雨がしとしととふり続いてます。明け方には初雪が舞ったのだとか。でも、いまから64年前の東京上空は、朝から真っ青に晴れ渡り、冬の太陽の光がまぶしく降り注いでいた‥

 昭和20年1月9日。成増飛行場戦闘指揮所のスピーカーから「一二二五、潮岬一五五度 二九◯キロ 四目標北進」との情報が流れた。マリアナ基地から発進したB29の第1梯団が静岡付近から侵入し、熊谷、下館を経て14時過ぎに東京へ、第2、第3梯団が静岡から甲府、八王子を経て東京へ向かった。空襲の目標は三鷹の中島飛行機武蔵製作所である。すぐさま、47戦隊は全力出動を行なう。最初に飛び立つのは、空対空特攻隊として選抜編成された「震天制空隊」だ。成増の震天制空隊は8機であったが、すでに前年の11月24日、19歳の見田義雄伍長が銚子沖でB29に体当たりをし、散華していた。第1中隊の山家曹長は、第2中隊から震天隊に選抜された幸万寿美軍曹が体当たりする瞬間を、目の前で見ていた。山家機がB29の上方から旋回しつつ攻撃をかけようとしたその時、前方から突っ込むキ44(鍾馗)の機影をみた。同時に無線機から「幸軍曹、ただいまより体当たり!」という声が飛び込んできた。幸軍曹は11機編隊で飛んでいた最左翼機の一番左のエンジンに激突したのだ。幸軍曹機はB29のエンジンもろともバラバラになりながら墜落し、B29のエンジンは椎名町へ、幸軍曹の遺体の一部は、立教大学のグラウンドに落ちていたそうである。この体当たりは都民注視の中で行われた最初のもので、その様子は、成増飛行場に居合わせた朝日新聞の報道班員によって撮影され、翌日の新聞の紙面を飾った。攻撃を受けたB29は、速度が低下し編隊から脱落した所を、配備されたばかりの新鋭機・キ84(疾風)を率いた真崎大尉の一隊により、千葉県神代村に撃墜された。
 
 この日、第2中隊の古参・粟村准尉は、東京上空を通り過ぎようとする最後のB29、8機編隊を5、6機の友軍機とともに追撃していた。この時の様子を、一緒に飛んでいた震天制空隊の鈴木精曹長が、後に読売報知新聞の記者に語っている。その記事から引用しよう。
「ほとんど向こうと同高度でしたね。敵の左後方、友軍機の先頭に粟村准尉殿(キ84)がいました。そのままの姿勢で銚子の上空まで来ました。敵の尾部がはっきり見える。そこで前に出た自分は速度をかけようとすると、その時、後ろのやや上の方から、ぐんぐん距離をつめて現われたのが粟村機でした。これは敵編隊のしんがりの一機です。双方の速度差はほとんどないと言ってもよいくらいだったので、准尉の飛行機は極めて静かに、自分がそばであっけにとられたほど静かに近より、あっという間にB29の尾翼の水平安定板をプロペラでがりがり齧っていったのです。とたんに粟村機は、首を敵機の尾部に突っ込んだまま、とんぼ返りでしっぽを上げ、敵機の背面に対し70度くらいの角度で逆さまになり、そのまま瞬時海の方へ走った。離れるとすぐ、昇降舵を齧りとられたB29はみるみる機首を下げ、3回ほどの環状錐揉みののち空中分解を起し、真っ逆さまに海中へ突っこんでゆきました。粟村機の方は、落下の途中座席のあたりから機体が真っ二つに裂けたが、その直前、七千メートルの辺りで飛び出した落下傘がうまく開いた。それは銚子の真上だったが、風が強いので自分の眼の前でどんどん沖へ流されてゆく。准尉殿は以前から体当たりの場合、落下傘の降下は何千メートルくらいの高度まで可能か、偏西風何十メートルくらいの高度まで可能か、偏西風何十メートルのとき落下傘は何キロくらい流されるかということを研究していました。(以下略)」
この時、粟村准尉は、降下しながら友軍機に向かい手を振っていたという。降下地点は銚子沖約30キロと推定され、すぐに無線で基地に知らされたが、救援隊が出されることは無く、太平洋の海に沈んでしまった。
 粟村准尉は、特攻隊の結成当初から体当たり攻撃法には反対し、必ず射撃で落とせると隊員達に指導をしていた。それが、最後には自ら体当たりをしてしまった。その時の心情を、鈴木曹長はこう代弁している。「このやむにやまれぬ体当たりの気持ちは、B29を目前に睨みつけ、どうしてもこいつを叩き落とさなくてはと思う。戦闘機乗りでないと本当にはわかっていただけないかもしれません。」

粟村准尉のいたピストの壁には、准尉が書いた「大義親を滅す」の銘が残されていた。

成増飛行場で撮影された映像・震天制空隊機/二式戦 鍾馗

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ー宣伝ー 西洋流火術鉄砲隊保存会

091092 今日は1月15日。本来の成人の日にあたりますね。この、小泉時代に決まった、飛び石休日を連休にするやり方はどうも馴染みません。何故、その日が祝日に当たるのかの意味が薄れてしまうんじゃないでしょうか。構造破壊もほどほどにしてほしいもんですなあ。

 先日、ときわ台の天粗神社にて、恒例の「西洋流火術鉄砲隊保存会」の安全と繁栄を願う新年の昇殿参拝が行なわれた。会の設立に関与した者として、保存会の発展を願い宣伝に務めなくてはなりません。まず、西洋流保存会については専用HPがありますので、設立意義などについてはそちらをご覧下さいませ。残念ながらMacのsafariで見ると崩壊してますが。<http://www011.upp.so-net.ne.jp/seiyouryuu/>
 
 おかげさまで保存会は、今年でシーズン8を向かえました。昨年は、前板橋区長・石塚輝雄氏が会の最高顧問に就任し、新年参拝後の直会の席上にてご挨拶をいただきました。昨年の区民まつりの際、板橋区では金沢市と友好交流都市協定を結び、今年6月に行なわれる加賀百万石まつりに、いくつかの文化団体が参加する予定で、当会もその一つに予定されている。但し、参加をするには警察からの火薬使用許可が下りなければならず、まだ参加出来るかはわからない。石川県内では、今まで許可された事がなく、前例主義を重視する警察から許可を得るのはなかなか厳しい。空砲演武は、どこでも簡単に出来るもんじゃないんですね。板橋区内では、「赤塚梅まつり」「板橋区民まつり」「高島平まつり」「板橋農業まつり」で見ることができるけど、これは相当恵まれているんですよ。火薬の使用については厳格な取り決めがあり、扱いが大変なんですね。同じ板橋区内でも、志村では撃てなかったりします。たまにテレビ局が取材さしてくれと来て、「練習しているところで一発撃って下さいよ。撃ってくれないと画にならないッスから。」と気楽に申し込むけど、とんでもない話だ。
 使用している火縄銃(西洋流なのに火縄銃とはこれいかに?についてはHP参照)では発砲の際、銃口から黒色火薬を流し込み、銃身の横についている火道に通ずる火皿の部分に、乳鉢でパウダー状にした火薬を詰め、火縄で点火して爆発させ、銃身に詰めた火薬を誘爆させる。現在の弾丸のようにすべて金属でシールドされている訳ではなく、いわばむき身の火薬を直接爆発させるので、銃士はけっこう危ない。発砲の瞬間火花が飛び散り、服に穴が空くは、へたをすると目に飛び込んできそうになるのだ。だから、発砲の瞬間は目を閉じなくてはならない。怖いから目をつぶるんではないんですね。西洋流の特色である集団密集体形演武が出来ないのも、そんな訳があるからなんです。新年の昇殿参拝で安全祈願をするのは大事な行事ですね。西洋流では、赤塚地区で始まった「赤塚城戦国絵巻武者行列」事業にも全面的に協力をしており、今年から人数をさいて、鎧兜姿で火縄銃の演武をする「和流砲術」の披露も行なうことになった。衣装は、武蔵千葉氏の紋を使用する。果たして実際に赤塚城には鉄砲隊がいたのか??ということはさておき(時代的にいてもおかしくはない)、流派はなんですかね。後北条氏の流派?う〜ん。。まあ、お楽しみですね。
せっかくですから、今年の演武スケジュールも書いておきましょう。

*3月7日 赤塚梅まつり(赤塚城趾にて和流演武披露。子供達による戦国武者行列もある)

*3月8日 赤塚梅まつり(赤塚城趾にて西洋流演武披露。鷹狩りの披露や、様々な武術団体による演武も)

*5月10日 新撰組まつり(日野市の新撰組まつりにて西洋流演武披露)

*6月6日 加賀百万石まつり・予定(金沢市の加賀百万石まつり参加、パレード後、金沢城趾にて和流・西洋流演武披露)

*10月17日 板橋区民まつり(養育院・グリーンホール前にて西洋流演武披露)

*10月25日 高島平まつり(旧・高島第七小学校会場にて西洋流演武披露)

*11月14日 板橋農業まつり(赤塚体育館前の通りでパレードの後、西洋流演武披露)

ということで、興味のある方は是非お越しを!!

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成増陸軍飛行場秘話1 〜太郎の飛行機雲〜

PhotoPhoto_2 私は、かれこれ15年近く成増飛行場のことを調べてきた。そこで、関係者から伺った話や調べたことを元にした話を、おりにふれUPしてゆこうと思う。
今回は、1月9日のブログで取り上げた粟村准尉と、愛犬・太郎の哀しい物語をひとつ。

 

 
 富士隊(第2中隊)空中勤務者だった伴了三さんには、今でも思い出すたびに胸の痛む、忘れられない出来事がある。それは、粟村准尉の残した愛犬達のことだ。

 昭和20年1月9日の帝都防空戦で未帰還となった粟村准尉は、いつも出撃前に私物を綺麗に整理し、荷物の一番上には、飛行学校を卒業した時に優秀者として与えられた、恩賜の銀時計を置いていた。出動の度にもう戻らぬ覚悟でいたのである。しかし、准尉の帰りをいつも待っていたものがいた。それが、愛犬の太郎だった。太郎は、前身茶色の毛をした中型の雑種のメス犬である。茶目っ気のあった粟村准尉が、面白がって太郎という名前をつけたのだ。太郎はチビと花子という子犬を産み、それは富士隊の操縦者一同で世話をしていた。粟村准尉と太郎は片時も離れず寝るときも一緒だった。ある時、准尉が離陸するとき、操縦席から「来い」と呼んだため、太郎は戦闘機の尾翼の上にポンと飛び乗ってしまった。もう滑走をしている機体の丸い胴の上に必死にへばりつき、操縦席にかじりつこうとした瞬間、振り落とされたこともあったという。
 
 1月9日、いつものように粟村准尉を見送った太郎は、ピスト前のベンチの上に座り込み、出撃機の残した飛行機雲を見上げながら、主人の帰りを待っていた。やがて、戦闘を終えた飛行機が次々に滑走路へ戻って来た。太郎はベンチを飛び出し、着陸した飛行機の後を追いかけ、准尉の姿を探して、広い滑走路を駆けまわった。しかし、この日はその度、ションボリとしてピストに戻ってくるのであった。とうとう夜になっても准尉は帰ってこない。明くる日も、明くる日も、太郎は准尉の姿を求め、飛行場を走り回っていた。伴さんが着陸した時、猛然と駆け寄ってくる黒い物体が目に映った。太郎だった。伴さんは「おい、粟村准尉殿はもう帰ってこないんだぞ」と呼びかけた。そんな哀れな太郎の姿に、富士隊全員の胸も痛んだ。数日経ってのち、太郎はようやく飛行機を追いかけることを諦めた。
 
 ある夜、伴さんは兵営内の将校宿泊所の自室で、同僚と碁を打っていた。その時、音もなくドアが開いたのでふと見ると、そこに太郎がいた。富士隊のピストから兵営までは距離があったけれど、太郎はまだ粟村准尉を探して歩き回っていたようだった。それから間もなくのこと、突然、太郎がむやみに吠え、人間に噛み付くようになった。富士隊一同はさすがにもてあまし、獣医学校出身の同僚に、太郎を診察してもらった。すると同僚は「これは狂犬病に罹ったな。」と言う。やむなく、医務室から薬をもらい、哀れ太郎は薬殺されてしまった。そのうち、今度は富士隊でかわいがっていた、チビの様子がおかしくなった。体の大きさが二十センチくらいの子犬であったが、母親の太郎並みの大声で吠え、やたらと噛みつく。体が小さいので机の陰にいるとわからず、急に飛び出して来ては、隊員を攻撃した。これではたまらないと、止むを得ずチビも、そして花子も薬殺処分となってしまった。
 
 チビ達に噛まれた者や、口移しに餌を与えた者は、狂犬病に罹る可能性があるかもしれないので、訓練終了後、一同トラックに乗り込み、近くにある朝霞の陸軍病院(現・埼玉病院)に、診察と予防注射を受けに行った。注射は毎日、きょうは背中に、明日は右側、次は左側と二週間くらい続いた。充分薬が吸収されていないのに、その上からまた注射をするので非常に痛く、中には化膿してしまった隊員もいた。
 
 ‥こうして、富士隊員達から愛されていた犬たちも、特攻に散った方々と等しく、悲しい最後を遂げてしまった。伴さんは、あのかわいそうな犬たちのことを、注射の痛みとともに、今でも思い出すという。

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ー宣伝ー 特別展「おがわ是苦集に見る鉄砲小道具の用と美」

P1010621P1010625P1010626P1010622 いや〜早いもんで、一月も終わりですね。めずらしく身辺が忙しく、ネタはあるんですが、まとめが出来なくて更新が遅れがちなんです‥というわけで宣伝をまたひとつ。

 
 板橋区立郷土資料館では、本日から特別展「おがわ是苦集に見る鉄砲小道具の用と美」が始まった。なんじゃこりゃ?といった感じですかね。私もこんなコレクションは知りませんでした。展示の趣旨を図録から抜粋すると‥
「山口県下関在住の小川忠文氏は、幕末の蘭学全般(医学・天文学・軍事科学)にわたるコレクターとして知られ、その中の多くが国内の博物館で公開されてきました。今回、江戸時代に盛行し和流砲術に使用された火縄銃(鉄砲)に付属する小道具、特に発火薬を収納する火薬入れを小川コレクションの中から紹介します。小川氏は、長年にわたる苦難辛吟の末に集められた資料を「おがわ是苦集」として名づけて、一部の研究者のみ紹介していたものを本邦初公開します。」
ということで、日本伝来の火縄銃の小道具に焦点をあて、鉄砲伝来以来の戦国期から江戸時代を通じて使用され、武芸として独特の発展をとげた和流砲術が生み出した火薬入れなどの諸道具類の美術・工芸的な側面に光をあてる‥ようするに、普通は銃だけに目が行きがちだけど、それらに使われる小道具達を語らせよう、という趣旨なんです。
 今朝、私は風雨吹きすさぶ天候の中、一番目の客として展示を見学したけれど、なるほど江戸時代に入り、一応の平和の中で芸術品へと進化して行った火縄銃の小道具類に目を見張りました。いや〜もう日本の職人ここにあり、って感じでしたね。繊細で美しい装飾の数々、図録に書かれているように「一種のアートとしての世界観を創出している」とはその通りでした。展示では小川コレクションの他に、久能山東照宮博物館が所有する国重要文化財の徳川家康使用の鉄砲と小道具など、めずらしい品々がずらりと並んでおります。やっぱり伝統工芸はいいなあ。練馬区大泉に住む漫画家の松本零士先生は、銃コレクターとしても有名で、板橋の資料館にも度々お見えになるけど、今回もきっとこられることだろう。皆さんも是非、足をお運び下さい。期間は3月22日まで。
宇田川武久氏(元国立歴史民俗博物館教授)による特別講演「上杉家の砲術と直江兼続の役割」は2月8日(日)午後1時半〜午後3時)先着100名 無料

‥ちょっと地味で気がつかないかもしれないけど、今回、1階常設展示の半分を高島秋帆の展示に変えてますが、その中に、私が以前寄贈した軸が展示されてました。それは、徳丸原調練に参加した、秋帆先生が長崎から連れて来た門下生達による寄せ書きで、秋帆先生の息子・浅五郎の書も描かれてます。これはホント珍しいものなんですよ。やっぱり寄贈しなきゃ良かったかなあ‥惜しいなあ。(小さい)

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