« 祝! おかげさまで一周年。 | トップページ | ー宣伝ー 西洋流火術鉄砲隊保存会 »

64年前の1月9日、成増上空。

PhotoPhoto_2Photo_3 いや〜寒いですねえ。冷たい雨がしとしととふり続いてます。明け方には初雪が舞ったのだとか。でも、いまから64年前の東京上空は、朝から真っ青に晴れ渡り、冬の太陽の光がまぶしく降り注いでいた‥

 昭和20年1月9日。成増飛行場戦闘指揮所のスピーカーから「一二二五、潮岬一五五度 二九◯キロ 四目標北進」との情報が流れた。マリアナ基地から発進したB29の第1梯団が静岡付近から侵入し、熊谷、下館を経て14時過ぎに東京へ、第2、第3梯団が静岡から甲府、八王子を経て東京へ向かった。空襲の目標は三鷹の中島飛行機武蔵製作所である。すぐさま、47戦隊は全力出動を行なう。最初に飛び立つのは、空対空特攻隊として選抜編成された「震天制空隊」だ。成増の震天制空隊は8機であったが、すでに前年の11月24日、19歳の見田義雄伍長が銚子沖でB29に体当たりをし、散華していた。第1中隊の山家曹長は、第2中隊から震天隊に選抜された幸万寿美軍曹が体当たりする瞬間を、目の前で見ていた。山家機がB29の上方から旋回しつつ攻撃をかけようとしたその時、前方から突っ込むキ44(鍾馗)の機影をみた。同時に無線機から「幸軍曹、ただいまより体当たり!」という声が飛び込んできた。幸軍曹は11機編隊で飛んでいた最左翼機の一番左のエンジンに激突したのだ。幸軍曹機はB29のエンジンもろともバラバラになりながら墜落し、B29のエンジンは椎名町へ、幸軍曹の遺体の一部は、立教大学のグラウンドに落ちていたそうである。この体当たりは都民注視の中で行われた最初のもので、その様子は、成増飛行場に居合わせた朝日新聞の報道班員によって撮影され、翌日の新聞の紙面を飾った。攻撃を受けたB29は、速度が低下し編隊から脱落した所を、配備されたばかりの新鋭機・キ84(疾風)を率いた真崎大尉の一隊により、千葉県神代村に撃墜された。
 
 この日、第2中隊の古参・粟村准尉は、東京上空を通り過ぎようとする最後のB29、8機編隊を5、6機の友軍機とともに追撃していた。この時の様子を、一緒に飛んでいた震天制空隊の鈴木精曹長が、後に読売報知新聞の記者に語っている。その記事から引用しよう。
「ほとんど向こうと同高度でしたね。敵の左後方、友軍機の先頭に粟村准尉殿(キ84)がいました。そのままの姿勢で銚子の上空まで来ました。敵の尾部がはっきり見える。そこで前に出た自分は速度をかけようとすると、その時、後ろのやや上の方から、ぐんぐん距離をつめて現われたのが粟村機でした。これは敵編隊のしんがりの一機です。双方の速度差はほとんどないと言ってもよいくらいだったので、准尉の飛行機は極めて静かに、自分がそばであっけにとられたほど静かに近より、あっという間にB29の尾翼の水平安定板をプロペラでがりがり齧っていったのです。とたんに粟村機は、首を敵機の尾部に突っ込んだまま、とんぼ返りでしっぽを上げ、敵機の背面に対し70度くらいの角度で逆さまになり、そのまま瞬時海の方へ走った。離れるとすぐ、昇降舵を齧りとられたB29はみるみる機首を下げ、3回ほどの環状錐揉みののち空中分解を起し、真っ逆さまに海中へ突っこんでゆきました。粟村機の方は、落下の途中座席のあたりから機体が真っ二つに裂けたが、その直前、七千メートルの辺りで飛び出した落下傘がうまく開いた。それは銚子の真上だったが、風が強いので自分の眼の前でどんどん沖へ流されてゆく。准尉殿は以前から体当たりの場合、落下傘の降下は何千メートルくらいの高度まで可能か、偏西風何十メートルくらいの高度まで可能か、偏西風何十メートルのとき落下傘は何キロくらい流されるかということを研究していました。(以下略)」
この時、粟村准尉は、降下しながら友軍機に向かい手を振っていたという。降下地点は銚子沖約30キロと推定され、すぐに無線で基地に知らされたが、救援隊が出されることは無く、太平洋の海に沈んでしまった。
 粟村准尉は、特攻隊の結成当初から体当たり攻撃法には反対し、必ず射撃で落とせると隊員達に指導をしていた。それが、最後には自ら体当たりをしてしまった。その時の心情を、鈴木曹長はこう代弁している。「このやむにやまれぬ体当たりの気持ちは、B29を目前に睨みつけ、どうしてもこいつを叩き落とさなくてはと思う。戦闘機乗りでないと本当にはわかっていただけないかもしれません。」

粟村准尉のいたピストの壁には、准尉が書いた「大義親を滅す」の銘が残されていた。

成増飛行場で撮影された映像・震天制空隊機/二式戦 鍾馗

|

« 祝! おかげさまで一周年。 | トップページ | ー宣伝ー 西洋流火術鉄砲隊保存会 »

コメント

はじめてコメントさせていただきます。ryoと申します。成増飛行場について調べており、その課程でたどり着きました。
大変興味深く拝見させていただきました。
私は大阪出身なのですが、以下の理由で板橋区には大変な愛着を持っております。
●子供の頃土支田に引っ越して成増が最寄り駅だったこと
●社会人になってからの勤務地(10年以上)が板橋区役所付近だったこと
●現在の通勤が富士見台〜光が丘〜成増〜高島平〜板橋〜池袋というルートでロードレーサー(自転車)にて通っていること
●飛行機マニアでもあり、47戦隊の活動に興味があったこと
●子供の頃、グランドハイツ(我々はこう呼んでいました)跡地にまだ掩体壕が残っており、よく遊んだこと

こちらに書かれている様々な記事はどれも大変興味深く、また懐かしくつい時間を忘れて全文拝読させていただきました(仕事中なのに・・・)。

47戦隊関連でふと思い出したことがありました。もう20年ほど前ですが、成増の川越街道そばの模型屋さんに出入りしていたことがありました。
そこのご主人は子供の頃から同じ場所にお住まいらしく、戦争中の成増飛行場についてお話をうかがったことがありました。
たまたま私が四式戦を制作中だったため、マーキングについての話くらいでしたが、今思うともっと詳しく色々と伺えば良かったなぁ〜と。
まだご主人がお元気なら伺ってみたいと思いました。

長々とすみませんでした。また、寄せさせていただきます。ありがとうございました。

投稿: ryo | 2009年1月15日 (木) 11時05分

>>ryoさま、コメントをありがとうございます。
成増飛行場につきましては、これからもおりに触れUPしていきますのでお楽しみに。もしロードレーサーに興味がおありのようでしたら、そのネタを取り上げることがあるかもしれませんのでお見逃しなく。まだ先の話ですが。

投稿: オーク | 2009年1月15日 (木) 16時08分

はじめまして、本日初めて拝見しました。板橋に生まれ、現在光が丘の隣町に住む私も、毎年1月9日には空を見上げずにはいられません。地元の者として子供の頃より47戦隊と成増飛行場には興味がつきませんのでこれからも拝見させていただきます。何より驚いたのは、194振武隊隊長のH中尉のお話があったこと、私も大変世話になっておりまして、とても親近感をおぼえました、これからもがんばってください。H中尉の同期の方で、成増で終戦を迎えられた102戦隊のN中尉もお近くで元気に暮らされているようですよ!

投稿: マグロ | 2009年2月14日 (土) 01時17分

>>マグロさま、コメントをありがとうございます。
H元隊長にはいつもご教示いただいております。以前N氏への仲介の労をとっていただき、貴重な話を伺ったことがあります。そのことについてはまたいつか描くことがあるかと思います。氏は最近大病を患いましたが、無事生還されたそうで何よりです。いつまでもお元気でいていただきたいと願うばかりです。

投稿: オーク | 2009年2月14日 (土) 22時16分

  成増飛行場の正門は現在の高松町にあり、看板が
東部第百七部隊と東部第百十九部隊となって居たときおくしますが。又、記事の中で、粟村准尉の乗機はキ44ではなくキ84でしたか。

投稿: ネフェリオン | 2011年1月 9日 (日) 12時03分

>>ネフェリオンさま
コメントをありがとうございます。
そう言えば、成増飛行場の正門に掲げられていた看板については確認しておりませんでした。ご指摘にあるような部隊名の看板と思います。
今後、機会がありましたら調査してみます。
47戦隊の機種改編は昭和19年12月からで、粟村准尉はその教官をされていました。銚子沖で戦死された時はキ84でした。

投稿: | 2011年1月11日 (火) 11時38分

Tue 11 JAN 2011/11h38 様

ご示唆有難うござゐます。1月27日の鈴木曹長が體当りされた日を調べて居りました時、吉澤中尉の電子記事中に「東部第百七部隊」とありました。

投稿: ネフェリオン | 2011年2月 3日 (木) 21時02分

Tue 11 JAN 2011/11h38 様

ご示唆有難うござゐます。1月27日の鈴木曹長が體当りされた日を調べて居りました時、吉澤中尉の電子記事中に「東部第百七部隊」とありました。

投稿: ネフェリオン | 2011年2月 3日 (木) 21時02分

1980年代の後半頃、TBS系ドキュメンタリー『練馬が一番』が放送され、その中で成増飛行場から飛び立つ前の特攻兵が挨拶する映像が流されたの覚えている。確か当時九州?に特攻兵の母親がまだ生きていて(おばあちゃんになってたが)、その下にVTRを持っていき見せていた。

その動画があればいいんですがね。TBSはアーカイブ室に保管していると思いますが。

投稿: | 2020年8月23日 (日) 13時09分

>>名無しさま
貴重なコメントをありがとうございます。30年前の番組をよく覚えておいでですね。平成のはじめ頃に放映されたドキュメンタリーで、成増上空で特攻散華された幸軍曹のエピソードとして、下宿をしていた先のお子さんに本立てを自作して贈った話が残されており、番組ではその本立てを出身の大分にお住いの遺族の方に返す様子を流しました。一見感動秘話のようですが、幸軍曹の元同僚だった方は、今更ご遺族に悲しい記憶を蘇らすような余計なことをしやがって、と訝しがっておられました。当時の動画(日本映画ニュース)は現在YouTube上で公開されております。

投稿: オーク | 2020年8月23日 (日) 14時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 64年前の1月9日、成増上空。:

« 祝! おかげさまで一周年。 | トップページ | ー宣伝ー 西洋流火術鉄砲隊保存会 »