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板橋最古の映画館?

PhotoPhoto_2Photo_3 12月14日といえば、赤穂浪士組討ち入りの日ですね。それにあわせるかの様に、ハリウッドでは米俳優キアヌ・リーブス主演で、忠臣蔵をベースにした映画が製作される(米ユニバーサル・ピクチャーズ/47 Ronin)なんて記事が新聞に載ってました。今回は正月休みも近いので、映画の話題などひとつ。

 正月映画の風物詩といえば、もう一昔前になりますが”寅さん”シリーズでしたね。そう、板橋区に縁の深い渥美清主演の人情喜劇。渥美さんが子供時代を板橋区で過ごしていたなんて知ったのは、亡くなる少し前にNHKで放映されたドキュメント番組だったような気がします。正直、寅さんシリーズが定番だった時代は、私も若造で寅さん映画にまったく興味ありませんでしたが、それなりに歳を重ねた現在、たまにテレビで放映されたりするのを観ると、しみじみしてしまいます。
 こん日、板橋区内にある映画館は、2000年5月に開業した板橋サティ内のワーナーマイカルシネマだけになりましたが、かつては板橋区内にもいくつかの映画館が存在していました。きちんと資料を見ないで申し訳ありませんが、記憶にあるまま(昭和40年代後半)に上げると、板橋駅界隈に1館、志村坂上に2館、大山に3館、上板橋に1館、成増に2館でしたか。もう映画が斜陽化し、次々に閉館していった頃はピンク映画しか上映していなかったような印象があります。私が初めて区内で映画を見たのは、小学生の頃、学校で観に行かされたアニメの「龍の子太郎」とか「空気(酸素?)の無くなる日」だったかな、大山の遊座側の映画館でした。そこでは、中学生の時、チャールトン・ヘストン主演「大地震」も観ましたね。”センサラウンドシステム”を使って低周波の音波を響かせ、震動を疑似体験出来るというふれこみの作品でした。高校生の頃は、池袋の文芸座へ行ってましたね。一度だけ、友人に無理矢理誘われて大山の文化会館近くのピンク映画館に入ったことがありましたが、(確か山本晋也監督、五月みどり主演の未亡人下宿シリーズと原悦子主演シリーズの二本立て)館内の殺伐とした雰囲気を今でも思い出します。(ゴミの散らばる座席、オトナの玩具の販売機のある汚いトイレとか)おっと、こんな話をするつもりじゃあなかった。板橋区内に初めて映画館が出来たのはいつ頃だったんだろうか?ここらへんの話は板橋区史等には出て来ないけど、過去、郷土資料館で関連の展示があったように記憶してます。確か、大正時代後半、旧金井窪駅の近く、高田雑司ヶ谷道沿いに出来た「板橋帝国館」が最初の映画館だったと紹介されていたと思います。今でこそ、なんの変哲も無い住宅街の通りですが、昭和20年4月に空襲で一帯が焼けるまでは、乗合バスも走る板橋区内でも有数の繁華街だったんですよ。
 さて、上掲の写真は、最近手に入れた古い写真です。大きな建物の上棟式の記念写真でしょうか、大勢の人が集まり、前方には正装した町の名士達が並んでいます。建物の中央に掲げられている看板を拡大して読んで見ると、「常設活動写真 板橋キネマ館 新築工事 磯井工務店作業場」とあります。撮影日時が入ってないので推測してみますが、日本で最初に出来た常設映画館は、1903年(明治36年)に浅草で開業した「浅草電気館」、初期の頃は活動写真と呼ばれ、「キネマ」という称号は大正時代に入ってから、「映画」という言葉は昭和になってから一般化したもので、となると、”板橋キネマ館”は大正時代に撮影されたもののようです。台紙には撮影した「板橋写真館(北川)」の文字が刻印されています。板橋写真館は明治44年に北川基一郎が開業した板橋区で一番最初の写真館です。場所の特定ですが、写真に写る鳶の人達でしょうか、その中に”荘病院”と書かれた法被を着た人達が写っており、昭和40年代まで、荘病院の近くには映画館<板橋松竹>が有りましたので、その前身ではないかと考えられます。”板橋キネマ館”は、郷土資料館の調査では出て来なかった名で、短期間で名称が変わったのでしょうかね。さて、金井窪の映画館と板橋町の映画館、どちらが最初に開業したのでしょうか?明確な資料が無いので、推測するしかありませんが、まず、映画館に必要な物はなんでしょうか?そう、電気ですね。電気がなけりゃ映写機を動かせないし、スクリーンに映せません。じゃあ、電気が来たのはいつ頃なのか?‥残念ながら、正確にはわからないんです。まだ資料を突き止め切れておりません。大正時代後半に撮影された”板橋”の写真には電柱と電線が写ってます。古老への聞き取り調査を読んで見ると、板橋町に比べ、ど田舎だった徳丸に電気が来たのは大正6年くらい、池袋に近い中丸町もその頃だったようです。もう一つの手だては、当時の新聞に開業の記事か広告が出ていないか探すことですが、これはまたの機会にでも調査してみます。

 私の手元に、いまからちょうど25年前の昭和58年12月末日に閉館した、上板東映の資料があります。「さようなら上板東映 Final Carnival」と題されたパンフレット類で、ファイナル・カーニバルは、「カミイタ」の愛称で親しまれたこの映画館のファン達の呼びかけにより行われた、さよならイベントでした。当時、私は全く知りませんでしたが、上板東映は、昭和33年ころに開業され、後年、個性的な館主だった小林紘支配人(当時40歳)が、自主制作グループの意欲的な作品を積極的に上映し続け、多くのファンがいたのだそうです。イベントは12月10日に開催され、約300人の観客で超満員、映画監督の大島渚、長谷川和彦、石井聡互、俳優の松田優作、永島暎子さんらが駆けつけた。イベントの最後、大島渚監督は、こう惜別の辞を述べたのだそうだ。「営業努力をしない映画館だらけの中で、小林さんはファンを引きつけるうえでも、若手映画人を育てるうえでも、多大な努力を続けてきた。カミイタの名前をみんな一生忘れない」

 あれから四半世紀、誰が今日の板橋サティの映画館の盛況を予想出来たのでしょうか。。感慨深いですね、いろんな意味で。

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コメント

大変興味深く拝読させていただいております。
その昔、今の板橋区坂下の一部は長後町と呼ばれていましたが、
昭和40年代の後半あたりまで今の坂下3丁目のアクアスポーツ蓮根の辺りに
「長後映画館」と呼ばれる小さな映画館があり、何度か親に連れられて映画を見に行きました。
主に日活や東映の邦画が上映されていたと記憶しています。

板橋の加賀藩下屋敷跡の一部が明治以降に火薬工場や学校(府立九中、現在の都立北園高校)となった
という話は北園高校在学中に古参の先生方(先生方も九中や北園の卒業生)から聞いていました。
現在は校舎が改築されてしまいましたが、改築前には正門を入ってすぐの校舎玄関の右脇に下屋敷当時の
石造りで高さ2.5m程の灯籠が置かれていました。

また、校舎は斜面地に建てられていたため、校舎の地下1階が校庭側からは1階になっていました。
その校舎地下1階はクラブの部室や家庭科の調理室、柔道場などに利用されていたのでが、
校舎1階の廊下部分の地下は倉庫となっており(いつもは施錠されていて滅多に中には入れなかった)
在学中に中を探検する機会があり奥の方で戦前に行われていたという軍事教練に使ったと思われる
木製の銃剣が何本も束ねられ置かれていたのを見つけて長い歴史を感じたものです。

私は今、縁あって昔の加賀藩、今の石川県金沢市で暮らしています。

投稿: 九曜のボツ | 2009年8月 8日 (土) 06時07分

>>九曜のボツさま

コメントをありがとうございます。
昭和40年代後半の事は、カラー映像ではっきり記憶しているのでつい最近のように思いますが、もう40年!近くも経つんですねえ‥
子供の頃は行動範囲が限られていましたので、当時はあまり遊びに行かなかった地域の話は興味深いですね。
金沢市にご在住とのことですが、今年6月の金沢百万石まつりに西洋流砲術隊が参加予定でしたが、直前まで石川県警の許可が
下りませんでしたので、断念しました。2年後の周年記念にはおそらく出演出来ると思いますのでお楽しみに。

投稿: オーク | 2009年8月 8日 (土) 07時13分

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