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2008年12月

上板橋ラヴストーリー 〜五本けやきは残った〜

Photo0812月も10日近く過ぎてしまいました。いや〜師走ですね。商店にはそろそろ正月用品が並べられています。最近気がついたのですが、都心は例外として、クリスマス商品が前ほど溢れていないように思います。日本のクリスマスは、基本的に子供のいる家庭か若いカップル向けのイベントですので、これも少子高齢化の影響なんですかね。

 本格的な冬を迎え、急速な景気の冷え込みも加わり心もフトコロも寂しくなるこの時節、ポッと暖まる話をひとつ‥

 板橋区を東西に走る国道245号線、通称・川越街道。15世紀に太田道灌が江戸城と川越城を築き、その城を結ぶために整備した道であることは有名ですね。もともとの旧・川越街道は、17号線・中山道の板橋区役所近くから分かれて続く道で、実は大山のハッピーロードも川越街道の一部なんですね。現在の川越街道は大正時代に企画され、昭和8年から工事を開始。工事は部分的に着工し、板橋区内の工事は昭和19年、赤塚新町近辺の拡張工事を最後に完了。当時は改正道路と呼ばれてました。
そんな歴史から始まった新・川越街道(ややこしいのでこれからは単に川越街道とします。)、都心から郊外への輸送を円滑にする他、途中に大きな川がないことが好都合だったので、道路沿いに軍事施設を設置する目的もあったようだ。今の練馬自衛隊一帯は、十条地域にあった兵器組み立て工場の陸軍第一造兵廠の倉庫だったし、赤塚新町には成増飛行場、白子辺りには各種軍需工場、埼玉陸軍病院(現在の市民病院)、朝霞には士官学校が置かれた。自衛隊あたりの直線部分は、飛行機の離発着が可能なようにつくったなんて話も残っている。実際、終戦直後に米軍の飛行機が北町交番あたりに不時着し、不幸にも子供が巻き込まれて亡くなる事故が起こった。

 さて本題。川越街道の上板橋駅付近、道路の中央に舟形の安全地帯のような部分がありますね。そこには大きな欅の木がすっくと立ち並んでいます。この欅は「五本けやき」と命名され、上板橋のランドマークとなっています。うろ憶えですが、昭和55年に”板橋区の木”が選定された時、五本けやきがあったことから板橋区の木に”けやき”が選ばれたんじゃなかったかな。でも、なんで道路のど真ん中に残っているのだろう?ちょっと文献を見てみると、概ねこんな理由が書かれている。「川越街道の拡幅工事の際、当時の上板橋村村長であった飯島氏が屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供した。」 一見、ああそうなんだ、と思ってしまいますが、当時、ハイウエイのように設計された道路に存在する”五本けやき”は、障害物以外のなにものでもなく、しかもその土地は、地元の村長の土地。飯島弥十郎氏は北豊島郡会議員をはじめ、豊島病院管理者や消防組頭、巣鴨関東市場の社長も務めていたほどの人物。道路買収が始まった頃、時代は日中戦争に向かうなど、次第に戦争協力が求められる時期でもあり、そんな時にわざわざ木を残せなんて、よく言えたものだと思いますね。ある本には”戦争反対論者だった飯島氏は軍用道路建設をこころよく思わず、木を残すことで抗議の姿勢を示した。”なんて載ってますネ。にわかには信じがたい話ですが、とにかく飯島さんは相当頑強に抵抗したらしい。ついに当局は折れ、道路はその部分を舟形に迂回するように作られた。掲示のモノクロ写真は、その工事の際に撮影されたもの。アレ?よく見てみると、けやきは五本じゃないじゃん? 実は、「五本けやき」は後年になってから付けられた名称なんですね。もともとは、もっと本数があったそうで、枯れたりしてだんだん少なくなっていったらしい。五本けやきと名がついてからも一本が枯れ死し、一本が交通事故に巻き込まれて折れてしまった。その後、これではおかしいとの声が上がり、地元有志の力により二本が植樹され、現在に至っている。
 何故、けやきは残されたのか?そこには、確かに力強い意志を感じます。しかし、どの文献を見ても、飯島さんの強い意向により残った、としか書かれておらず、その強い意向について明らかにしているものはありません。
ところが、解答を示す一つのヒントが、2001年11月8日付けの読売新聞地方欄に載っておりました。「弥十郎さんの親族によると、弥十郎さんの妻・錫(鈴)さんは、川越街道が通る前の昭和初期、若くして病気で亡くなっていたが、生前、けやきのそばにあったテニスコートに着物姿で立ち、よくテニスを楽しんでいたという。」そして、記事はこう結ばれています。「‥五本けやきを板橋区の樹木保存の先駆とさせたのは、弥十郎さんと錫さんの遠い日の想い出だったのかもしれない‥」と。飯島氏は、愛する妻を忘れることができず、その想い出をけやきに託し、後世までも残したかったのだろうか‥。なんてステキな話じゃありませんか。明治生まれの気骨ある日本男児としては、妻との想い出に残した、なんてことは気軽に口に出来なかったんでしょうね。

 人は信じたいことを信じるものだ、と言われます。私は、軍国主義に反対した、というよりも、奥様との愛のカタチを残したかった、という物語の方を信じたいと思います。もうすぐクリスマス、あなたは愛する人と過ごしますか?

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板橋最古の映画館?

PhotoPhoto_2Photo_3 12月14日といえば、赤穂浪士組討ち入りの日ですね。それにあわせるかの様に、ハリウッドでは米俳優キアヌ・リーブス主演で、忠臣蔵をベースにした映画が製作される(米ユニバーサル・ピクチャーズ/47 Ronin)なんて記事が新聞に載ってました。今回は正月休みも近いので、映画の話題などひとつ。

 正月映画の風物詩といえば、もう一昔前になりますが”寅さん”シリーズでしたね。そう、板橋区に縁の深い渥美清主演の人情喜劇。渥美さんが子供時代を板橋区で過ごしていたなんて知ったのは、亡くなる少し前にNHKで放映されたドキュメント番組だったような気がします。正直、寅さんシリーズが定番だった時代は、私も若造で寅さん映画にまったく興味ありませんでしたが、それなりに歳を重ねた現在、たまにテレビで放映されたりするのを観ると、しみじみしてしまいます。
 こん日、板橋区内にある映画館は、2000年5月に開業した板橋サティ内のワーナーマイカルシネマだけになりましたが、かつては板橋区内にもいくつかの映画館が存在していました。きちんと資料を見ないで申し訳ありませんが、記憶にあるまま(昭和40年代後半)に上げると、板橋駅界隈に1館、志村坂上に2館、大山に3館、上板橋に1館、成増に2館でしたか。もう映画が斜陽化し、次々に閉館していった頃はピンク映画しか上映していなかったような印象があります。私が初めて区内で映画を見たのは、小学生の頃、学校で観に行かされたアニメの「龍の子太郎」とか「空気(酸素?)の無くなる日」だったかな、大山の遊座側の映画館でした。そこでは、中学生の時、チャールトン・ヘストン主演「大地震」も観ましたね。”センサラウンドシステム”を使って低周波の音波を響かせ、震動を疑似体験出来るというふれこみの作品でした。高校生の頃は、池袋の文芸座へ行ってましたね。一度だけ、友人に無理矢理誘われて大山の文化会館近くのピンク映画館に入ったことがありましたが、(確か山本晋也監督、五月みどり主演の未亡人下宿シリーズと原悦子主演シリーズの二本立て)館内の殺伐とした雰囲気を今でも思い出します。(ゴミの散らばる座席、オトナの玩具の販売機のある汚いトイレとか)おっと、こんな話をするつもりじゃあなかった。板橋区内に初めて映画館が出来たのはいつ頃だったんだろうか?ここらへんの話は板橋区史等には出て来ないけど、過去、郷土資料館で関連の展示があったように記憶してます。確か、大正時代後半、旧金井窪駅の近く、高田雑司ヶ谷道沿いに出来た「板橋帝国館」が最初の映画館だったと紹介されていたと思います。今でこそ、なんの変哲も無い住宅街の通りですが、昭和20年4月に空襲で一帯が焼けるまでは、乗合バスも走る板橋区内でも有数の繁華街だったんですよ。
 さて、上掲の写真は、最近手に入れた古い写真です。大きな建物の上棟式の記念写真でしょうか、大勢の人が集まり、前方には正装した町の名士達が並んでいます。建物の中央に掲げられている看板を拡大して読んで見ると、「常設活動写真 板橋キネマ館 新築工事 磯井工務店作業場」とあります。撮影日時が入ってないので推測してみますが、日本で最初に出来た常設映画館は、1903年(明治36年)に浅草で開業した「浅草電気館」、初期の頃は活動写真と呼ばれ、「キネマ」という称号は大正時代に入ってから、「映画」という言葉は昭和になってから一般化したもので、となると、”板橋キネマ館”は大正時代に撮影されたもののようです。台紙には撮影した「板橋写真館(北川)」の文字が刻印されています。板橋写真館は明治44年に北川基一郎が開業した板橋区で一番最初の写真館です。場所の特定ですが、写真に写る鳶の人達でしょうか、その中に”荘病院”と書かれた法被を着た人達が写っており、昭和40年代まで、荘病院の近くには映画館<板橋松竹>が有りましたので、その前身ではないかと考えられます。”板橋キネマ館”は、郷土資料館の調査では出て来なかった名で、短期間で名称が変わったのでしょうかね。さて、金井窪の映画館と板橋町の映画館、どちらが最初に開業したのでしょうか?明確な資料が無いので、推測するしかありませんが、まず、映画館に必要な物はなんでしょうか?そう、電気ですね。電気がなけりゃ映写機を動かせないし、スクリーンに映せません。じゃあ、電気が来たのはいつ頃なのか?‥残念ながら、正確にはわからないんです。まだ資料を突き止め切れておりません。大正時代後半に撮影された”板橋”の写真には電柱と電線が写ってます。古老への聞き取り調査を読んで見ると、板橋町に比べ、ど田舎だった徳丸に電気が来たのは大正6年くらい、池袋に近い中丸町もその頃だったようです。もう一つの手だては、当時の新聞に開業の記事か広告が出ていないか探すことですが、これはまたの機会にでも調査してみます。

 私の手元に、いまからちょうど25年前の昭和58年12月末日に閉館した、上板東映の資料があります。「さようなら上板東映 Final Carnival」と題されたパンフレット類で、ファイナル・カーニバルは、「カミイタ」の愛称で親しまれたこの映画館のファン達の呼びかけにより行われた、さよならイベントでした。当時、私は全く知りませんでしたが、上板東映は、昭和33年ころに開業され、後年、個性的な館主だった小林紘支配人(当時40歳)が、自主制作グループの意欲的な作品を積極的に上映し続け、多くのファンがいたのだそうです。イベントは12月10日に開催され、約300人の観客で超満員、映画監督の大島渚、長谷川和彦、石井聡互、俳優の松田優作、永島暎子さんらが駆けつけた。イベントの最後、大島渚監督は、こう惜別の辞を述べたのだそうだ。「営業努力をしない映画館だらけの中で、小林さんはファンを引きつけるうえでも、若手映画人を育てるうえでも、多大な努力を続けてきた。カミイタの名前をみんな一生忘れない」

 あれから四半世紀、誰が今日の板橋サティの映画館の盛況を予想出来たのでしょうか。。感慨深いですね、いろんな意味で。

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達人と歩く北池袋。

123 新年を向かえるまであとちょうど2週間となりました。‥なのにまだ年賀状を作っていない‥ 昨日も、オープンしたばかりの前野原温泉さわの湯処の岩盤浴で骨抜きにされ、何も出来なかった‥。岩盤浴ってさわやかな汗がドバドバ出て気持ちいいですね。

 先日、久しぶりに我が師と仰ぐ、コラムニストの泉麻人センセと同道し、JR池袋操車場近くにある「新井アマゾン昆虫資料館」に行って来た。泉センセがコラムを連載していた「読売ウイークリー」が今月で廃刊してしまい、コラムは新年明けから別の媒体(平凡社だったかな‥)に引き継がれるので、そのネタ仕込みも兼ねてのことだ。板橋区の話題ではないが、隣接する場所なので許してね。

 泉センセとは北池袋駅で待ち合わせをした。目的地は昆虫資料館だったが、連載コラムは喫茶店を題材にしていたので、途中おもしろそうな店を見かけないかと期待して、西側の商店街を歩く。北池袋は、なんとなく猥雑なイメージを持っていたけど、さすがに平日の午前中ではシャッターが閉まっていたりして閑散としており、正直そそらない。センセもすぐにNGと見切ったのか、ずんずん歩いてゆく。資料館は操車場側にあるので、途中、跨線橋を渡った。この跨線橋、とても古くていまにも崩れそうだ。それもそのはず、戦前から存在し、昭和20年4月13日の城北大空襲時には焼夷弾が雨あられと降り注ぎ、今はアスファルトで覆われて見えないが、いたるところに焼夷弾が当たって凹んだところが残っているそうだ。残念ながら、耐震力が無く危険なので近く取り壊されてしまうという。ここの跨線橋から見渡す景色が好きだったのだが、また一つ、昔の風物が無くなってしまう‥。
「新井アマゾン昆虫資料館」(豊島区上池袋2-28-13 ℡03-3916-5623 見学要予約)は、御年85歳になる新井久保さんという人が個人的に開いている資料館だ。細い道が入り組む一角にあるので、初めて行くと非常にわかりにくい。迷ってうろうろしていたら、近所で掃除をしていたおばあさんが連れていってくれた。資料館は、自宅の一室を解放していて室内は雑然としており、資料館というより物置兼、作業場といった趣きだ。壁一面には標本箱がずらりと並び、収納棚はもとより机の上や床にも積み上がっている。新井さんは、大正14年、上野谷中に生まれ、幼少の頃から昆虫採集に熱中していた筋金入りの昆虫マニアだ。兵隊として中国大陸に送られても、戦場でチョウチョの観察をしていたのだという。一方、泉センセも昆虫マニア(バスよりも好き)であり、その膨大な御著書の中でたびたび昆虫の話題に触れている。センセは普段、飄々としていて、興味があるんだか無いんだかその表情からは伺えず、よくわからない所があるが、本当に関心があった時には、急に耳が紅潮し饒舌になられる。この資料室に入ったとたん、思わず感嘆の声を上げてコレクションに見入っていた。館主の新井さんは、昆虫の中でも特にカミキリ虫が好きで、収集や分類に力を入れているが、センセもカミキリ虫マニアであり、うれしそうに、ずっとカミキリ虫談義をしておられた。私にも、ときどき話をふったり説明してくれるのだが、ワタシの知識と想像力では理解出来ない領域の話をするので、フ〜ンとかヘ〜とかナルホド〜とか相打ちをうつのがやっとデシタ‥。新井さんは、1971年からアマゾンでの昆虫採集に力を入れ、ほとんど毎年のように訪れるという。来年も春にマナウスへの採集行を予定しているとのこと。
1時間程滞在し、泉センセは仕事もあるので名残り惜しそうに昆虫資料館をあとにされた。資料館を出て、JR線路と清掃工場の脇の路を通り池袋方面へ向かった。途中、昼食を食べようということになり、センセ贔屓のロサ会館近くにある「中国茶館」(中国茶と点心の店)でごちそうになった。このお店にセンセと行ったのは三回目かな。しかし、このあたりはホント中国系の店が増えましたね〜

 さっきも書いたけど、新井さんは現在85歳。私もたまにお年寄りの方から話を伺ったりするが、ここまでお元気な方はそういない。健康な方でも、外出が億劫になるのが普通であり、ましてやアマゾンまで足を運ぶなんて凄すぎる。マニアの情熱恐るべし、である。ワタシはせいぜいボケて板橋区内を徘徊するくらいだろうな〜。。

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しばしお別れ、東武博物館。〜花上館長閉館直前特別インタビュー付き〜

123 もういくつ寝るとお正月‥なんて今の子供達にはそんな感覚はないのかな? 今回は冬休み特別スペシャルとして、来年の開館20周年を機に大幅リニューアルのため、半年間お休みをする「東武博物館」へ行って来た。準備に忙しい花上館長へのインタビューも交えてお送りしよう。

 「東武博物館」は、東武鉄道創立90年記念事業として平成元年(1989年)5月20日に東京都墨田区の東武伊勢崎線東向島駅の高架下に開館した博物館だ。(Wikより引用)爾来、数年に一度の割合で訪れている。開館初期の頃は正月に部品販売会などを行い、私のコレクションの多くはそこで購入したものだ。博物館のある東向島は、東上線沿線の人間にとっては非常にアクセスが悪い。幻の西板線が実現していたならば、どんなにか楽であったか‥。それと、東上線は後に買収された路線なのか、どうも本線に比べ扱いが下のような気がするのはひがみであろうか。そんな東武博物館が、開館以来のリニューアルを行うというので、久しぶりに手みやげを持ってお訪ねしてみた。手みやげにしたのは、東武デパートで買ったお持たせと啓志線の資料等々。先日、所用で鉄道博物館へ行った際、所蔵のマイクロフィルムを拝見し、啓志線で使用していた気動車(ガソリンカー)の配置表を紙焼きしてしてきたので、それを持参したのだ。(その日偶然、レイルマガジン編集長の名取氏が写真を借りにこられていたので、ガソリンカーの件をお伝えした。)
「東武博物館」館長の花上嘉成氏は、昭和15年に四谷で生まれ、昭和33年東武鉄道に入社。以来、技術畑から営業畑へ移り、大宮駅長、北千住駅長、浅草駅長を経てた後、東武博物館の仕事についておられ、中学生の頃から鉄道趣味一本。筋金入りの”鉄っちゃん”である。氏が個人的に収集した資料もまた膨大で、特にフライング東上号を始めとするヘッドマーク類や乗車券・記念券その他もろもろの品は、花上氏がおられなければ今日に残らなかったといってよい。知識はもちろん人脈も豊富で、数々の講演会もこなし、東武鉄道に関しては右に出る人はいないだろう。
以下、インタビュー形式でおおくりする。

オーク(オ)「今日はお忙しいところ時間を割いていただき、ありがとうございます。」
花上館長(花)「いや〜、リニューアルの打ち合わせや何やかやで最近全然館にいられないんですよ。」
オ「今回の大規模なリニューアルは、昨年開館した鉄道博物館への対抗の意味もあるんですか?」
花「いや、開館20周年ということと、耐震工事の関係でね。外側は今年一杯で終了して、これから中をやるんですよ。」
オ「新しく車両も増やすと聞きましたが‥」
花「2両ね。何を入れるかはオフレコ。年明けからの作業ですかね。その打ち合わせで忙しいの。」(←搬入車両はファンが存廃にやきもきしているアレかも‥)
オ「他に変るところはありますか?」
花「パノラマもね、ほら、業平橋にタワーが出来るから、それを作ったり、もっと走行する電車を魅せるようにレイアウトの配置換えしたりとか。」「シミュもね、ちょっと変るし。」
オ「あの‥東上線の展示をもっと増やしてほしいのですが‥というか増やしていただけませんか?」
花「ん〜 展示室もね、いじりますよ。初代・根津社長のコーナーを縮小したりとか、ね。」 
オ「ところで、下板橋駅が移動して、操車場の上に日大病院が出来ると発表がありましたが、その後作業は進んでいるのですか?」
花「いろいろ事業計画があってね、大きなのが3っつ。そのうち東武動物公園駅西口(旧杉戸工場跡地)の再開発は景気がね‥。曳舟の高架化もなかなか進まない。一番、可能性が高いのが下板橋駅でしょう。」
オ「東上線の高架化の話も具体的に進むんですか?」
花「東京都の事業でもあるしね、難しいね。」
オ「中板橋駅と、ときわ台駅が統合されるなんてことはありますか?」
花「はっはっは、そんなことになったら大変ですよ。もとあった物を無くすなんて、そりゃあ反対運動がすごいでしょうね。」

(‥話を伺っている最中にもひっきりなしに電話がかかり、来客もあったりして席を立たれることも多い。)
オ「気の早い話ですが、2014年に東上線は開業100周年を迎えますが、大々的にイベントをやりませんか?例えば、沿線の博物館でそれぞれの地域の東上線の企画展示をするとか。」
花「あっ、それいいですね。大々的にやれればいいですね。‥でも、そのころ私はもういませんね。はは。」

 花上館長は来年69歳になられるが、まだまだお元気そのもの。好奇心も行動力も全然衰えているようには見えない。博物館は年内28日までの営業となるが、それから来年夏休みのリニューアルオープンに向けての作業が本格的に始まる。どうかお体に気をつけていただきたいものだ。私もとても楽しみにしております。(東上線の展示が増えますように‥しつこい。)
花上館長、お忙しい所御対応いただき、ありがとうございました。
 

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去り行くグラントハイツの面影。

Fuji1Fuji2Fuji 年の瀬も押し詰まってしまってきた。部屋の片隅に積み上がった資料の整理もまだ終わっていない・・新年に入って、新しい気分で整理したらいいんじゃない?なんてささやき声が聞こえる・・。どうしよう。

 
 とにかく、ゆく年くる年である。今年も、我が板橋区では様々なことがあったが、年の暮れにきて、私にとって大変ショックな出来事が起こった。それは、赤塚新町の川越街道沿いに建つ、ある古い建物がこつ然と姿を消してしまっていたことだ。
その建物とは、正面に大きく「FUJI」とエンボスされた茶色い建物‥。ああ、あの家ね、とわかる方も多いかもしれない。それは、グラントハイツ時代を物語る、おそらくは今に残る唯一の建物だった。二週間程前に通りかかった時、FUJIの前の歩道でなにやら工事をしており、作業員がFUJIの敷地に入って水道をつかったりしていたのを横目で見つつ、下水道工事でもしているのかな?と思っていたのだが、う〜む、、不覚であった。実は、近い機会に突撃取材を行おうと考えていたところだったのだ。
「FUJI」は、川越街道からグラントハイツゲート入り口に向かって入る路沿いに建っていた。グラントハイツ内に存在した、NARIMASU HIGH SCHOOLのOB会が運営しているHPに、建物の現役時代の写真が掲載されている(左の写真)。もとは進駐軍相手の土産物屋さんであったようで、ありがたいことに、このお宅を以前取材された方がおり、貴重な写真をご自身のサイトに掲載しておられる。(光が丘の眺め・http://urushibara.info/hikarigaoka/docum/index.html)そのサイトの写真を見てみると、正式な店の名は「TOKYO FUJI SHOP CO..LTD.」であるようだ。販売していたのは、陶器や銀製の食器類が主で、シルク生地に描かれた絵も良く売れたそうである。上掲の写真では、FUJIの隣にも”CUPID””NO.1 SHOP”などの看板を掲げた土産物屋さんらしきものが並んでおり、なんだか外国のようですね。以前、”グラントハイツのことども”と題したページで紹介したように、車の修理屋もあった。(そこに掲載した写真は、ちょうどこのFUJIの建物の上からグラントハイツのゲート方向に向かって撮影されたように見える。)私の愛読書、昭和44年度版の住宅地図でFUJI周辺の並びをみてみると、池袋方向から成増方面へ向かい、「ミリオン商会」「BEST BARTERING LS HERE」「大きな個人邸宅」「PHOTOGRAPHY STER.CO.FUJI」←(地図ではこう記載されているが、「PHOTOGRAPHY STER.CO.」と「FUJI」か?)「シルバースミス」「大きな個人邸宅」「SAKRN STORF」「アメリカンスタイルKK」「吉野タイヤ商会」などと続く。もうグラントハイツも日本に返還される時期が近い頃だったが、ハイツの外側の地域にも外国人の家がたくさんある。私はこの時代まだ子供であり、赤塚新町は生活範囲外の地域だったので、記憶には無い。当時もしこの場所へ来たなら、きっと、子供心に外国へきたような気分を味わえたに違いない。
 しかし、このような歴史を語れる建物が無くなってゆくのは寂しいものである。いまメタボ対策を兼ねて、板橋区内をくまなく歩いているが、本当に古い建物が少なくなったということが実感出来る。不思議なことに建て替えられたあとになると、前にその場所に何があったのかを思い出せなくなる。古い空中写真や住宅地図を見ても、実体を想像することができないのだ。何かと批判のあるグーグルマップのストリートビューだけど、あれ、年度別に保存できると後々素晴らしいバーチャルマップになるんじゃないかと思うのだが、そういうこと出来ないのかなあ。

 それでは、今年一年「板橋ハ晴天ナリ。」をご覧頂き、ありがとうございました。来年もまた知られざる様々な板橋区の魅力を発掘していきますので、どうぞお楽しみに!! 良いお年を

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