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そうだ!兎月園の情報を追加しよう。

Kaishou 食欲の秋。かつて”板橋のいっぴん”の選考委員まで務めた私ですが、よるメタボの波には勝てずダイエットに励む日々‥。食事制限の他に運動をせねばと追いつめられ、よしそれでは板橋区内を隅から隅まで歩いてやると固く決意して3ヶ月‥おかげで夏から7キロ体重を減らしましたが、目標はあと6キロ減。がんばれ自分。

 ということで、だいぶ板橋区内巡りも進みましたが、たまには気分を変えるため、先日はお隣の練馬区へ越境してみました。ちょうど紅葉も盛りだし、光が丘公園を目標にしました。光が丘公園といえばあれですね、ご存知の通り、前身はグラントハイツ。そのまた前身は成増陸軍飛行場。公園は、広い運動場もあれば、緑のうっそうと茂る場所もある。ダイエットのため、緑に覆われた周回コースを歩きながら、ええっと、ここら辺は東西補助滑走路、対空砲陣地はここ、射撃試射場はここかな、なんて思い浮かべてましたが、現況からはとても想像出来ませんね。ホント、60年余り前まで高い木などなく、野原が広がるばかりの場所だったなんて信じられません。
せっかく光が丘まで来たことだし、休憩ついでに図書館へ寄って郷土資料でも探るか、と光が丘図書館を訪ねました。今までも、たまにこの図書館を利用していましたが、最近、少しずつですが、郷土資料のコーナーに”やる気”を感じるようになりました。だいたい、郷土史のコーナーなんて区史や今まで発行された展示図録とか統計が置かれるだけ、それも全種類が揃っている訳でもなく、まったく使い辛いものというのが相場でした。(私がそう思うだけかもしれませんが。)しかし、光が丘図書館の郷土資料コーナーは、最近、館独自で、地域を扱った新聞雑誌の記事を収集しコピーして編集し、ファイリングを行ったりしていて、情報を求める私のような人間には非常に助かっております。(練馬区では今、図書館の運営に指定管理者制度を導入するかどうかで揉めているようなので、その影響もあるのかも。)で、そんな中に、先日ブログのお題にした、兎月園について纏められたファイルがありました。これも、最近作られた物のようですが、そのファイルには1992年に発行された「月刊光が丘・10月号」の記事のコピーが綴じ込まれており、今回は、そこから引用して紹介します。記事の題名は「幻の兎月園を探る」 月刊光が丘編集部では、一年がかりで取材をしたが、国会図書館を始め東武鉄道など、公の施設からはほとんど資料を見出せず、地元の人々のつてを辿って情報収集を行ったようです。

 兎月園は、大正10年、台東区根岸の住人で、貿易商だった花岡知爾(ともちか)氏が、現在の旭町3丁目にある妙安寺の寺領1万坪を借りて区画し、「成増農園」という貸農場を始めたことが、その出発点であったという。主に華族へ会員制で貸し出したり、そこで収穫された野菜を直送したりしていた。この地を選んだのは、東武鉄道社長・根津嘉一郎からの「成増周辺を発展させたい」という要請によるものらしい。(東武鉄道は、前年に東上鉄道を買収して傘下に納めていたので、その影響もあるかも。)この貸農園の企画は当たり、華族達がお供を連れたり家族連れで行楽を兼ねてやって来るようになった。そして、大正12年9月の関東大震災により東京市内では一時食料不足となり、さらに利用客が増したそうだ。利用客がふえれば、休息したり、食事を取ったりする場所が求められ、茶店が作られた。その茶店の規模がふくらみ料亭へと発展し、庭も整備され「兎月園」の原型になった、というわけ。おそらく貧乏人相手ではなく、金持ち相手だったということが、急速な発展に繋がった面が大いにありますね。今でも同じかも。。
 大正15年2月発行の地図では「兎月園」と「成増農園」が隣接して併記されているので、この頃にはすでに営業していたと思われる。開園当時、会員以外の人は入園料が必要だったが、有料の娯楽施設ができるにつれ、無料になったようですね。最盛期の園内の施設には、茶店や料亭のほか、浴場、小動物園、映画館、運動場、テニスコート、花園があり、中央部には、現在の光が公園北交番付近を水源とした、お玉が池から流れ込んで出来た池があり、ボート遊びや屋形舟を浮かべての遊興も行われた。入り口は二ヶ所で、正門左手には長屋門があった。写真の門がそれで、もともと勝海舟邸の門を移築したものである。(現在は、石神井の三宝寺に移築。)料亭の本館には宴会場があり、和室にシャンデリアという和洋折衷の洋式で、結婚式場としても使われた。園内には数寄屋造りの離れ家が点在し、それぞれ梅、桔梗、萩、竹、紅葉などの名がつけられ、客が本館と行き来する時には担ぎ駕篭に乗せて移動をしたのだそうだ。
池の西側には露天の岩風呂を備えた大きな浴場があり、「兎月園大滝」と名付けられた落差5メートルの滝を作り、露天風呂から眺められるようにした。小動物園には猿(近隣の人が山でつかまえてきて寄贈したらしい。)や熊の檻があり、兎は放し飼いされていた。ポニーも飼っていて、子供達が乗馬を楽しむことができたのだとか。運動場では、ボクシングの興行や相撲の巡業も招致され、自転車競技も行われていたらしい。中でも人気があったのは弁士の付いた活動写真館で、地元民も足を運んだのだそうだ。映画館は、最初、長屋門近くにあったが焼失し、後に正門北側にあった大鷲神社近くに再建された。華族御用達の農園からスタートしたからなのか、園内には久邇宮・朝香宮両殿下御来園記念樹があり、一条侯爵、大山子爵、細川子爵なども訪れたという。(朝香宮は、東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁であり、1932年・昭和7年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が東京駒沢から埼玉県膝折村に移転された際には、膝折村が朝香宮にちなんで朝霞町・現在の朝霞市・と改名されたことで有名ですね。)兎月園のそばには加藤政之助という政界の重鎮が住んでいて、政治家の利用も多かったようで、朝霞に予科士官学校が出来てからは軍人の利用も多くなり、東条英機もしばしば訪れていたそうだ。(以前、成増飛行場に土地を提供した方から話を伺った際、帝都防衛飛行場用地選定にあたり、東条英機が下見に来て兎月園に滞在していた、と話をされていた。このことについては、私は別の見解を持っているが、その話はまたの機会にでも。)賑やかだった兎月園も、戦争が始まり娯楽が制限されるようになるとともに利用者も減り、昭和18年にはついに閉園。兎月園の基礎を作った花岡知爾(ともちか)氏も、昭和20年に亡くなってしまいました。

 以上が、兎月園の歴史のあらましです。月刊光が丘誌では、取材中の話で、兎月園と東武鉄道のかかわりがしきりに出て来たが、東武鉄道の社史には出て来ないので、花岡知爾氏個人の事業であった。と結ばれているが、前回の項で示したように、東武鉄道が発行した兎月園のパンフレットも存在するし、その時代の他のパンフレットにも宣伝されているので、かかわりはあったと思われます。時期的にも豊島園に対抗したのは間違いないことだろうし、ここらへんの検証は面白そうな題材ですね。

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