ストーリー 〜五本けやきは残った〜" />

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小豆沢貝塚遺蹟再訪と新たなるロマン。

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 ”晩秋”という言葉がふさわしい今日この頃。そろそろ紅葉も見納めかと思い、大門付近(板橋区の花・ニリン草群生地)の赤塚公園あたりを散策してきました。う〜ん、数日遅かったようで、だいぶ落葉が進んでしまいましたね。でも、地面にふんわりと積もった枯れ葉が素敵でした。

 さて、以前に紹介した小豆沢貝塚遺蹟発掘のその後ですが、先週いっぱいで調査も終了ということで、再び現場を訪れてみました。現場を訪れたのは26日、すでに貝層の部分も撤去され、住居址や土壙(どこう)も堀上がり、トランシットによる計測作業が淡々と続けられておりました。前回は、まだ発掘作業が始まったばかりでしたので、遺物も次々と出土し、これからナニが出てくるのかとワクワクしておりましたが、その後はどうだったのかを、現場に立ち会っている文化財係の先生に伺ってみました。ちょっと残念だったのですが、貝層の部分を掘り進めたところ、貝が畝状に細長く堆積している部分が多くを占めており後年、人為的に埋め直された可能性があるとのことでした。但し、貝は間違いなく隣接地域にある貝塚の物であること、貝層は二つに分かれており、下の貝層はオリジナルの物らしい、ということでした。気をつけなくていけないのは、遺跡の発掘調査は、これは何々だと簡単に断定をしてしまうのはいけないことで、採取した遺物や計測したデータ、写真などを時間をかけて詳しく調べ、他の地域のデータと比べたり分析した上でなくては、判断は下せないということです。だから今の時点で”お宝”なんて物が出て来なくても、ガッカリすることはないんですね。結局、住居址は2軒分が出土した(いずれも縄文後期のもの)ようです。
 私が発掘現場を訪れた時、近所の小学生達が興味深そうに作業の様子の見学をしておりました。中でも、一人の少年は何時間もずっと現場を離れず、さしずめ考古オタクのようでした。この気持ちを、世知辛いオトナになってからも忘れずにいてほしいもんですネ。

Photo 現在、板橋区内では他に数カ所、発掘調査が行われているようですが、その中のひとつに、成増3丁目にあった「東京印書館」の跡地があります。東京印書館は、昭和22年に設立された印刷会社で、ここには大きな印刷工場が建っていました。写真の奥に写る森に囲まれた小高い丘は「菅原神社」の鎮守で、その北側には菅原神社遺跡(現在は集合住宅地)があり、旧石器から古墳時代まで、綿々と人々が暮らし続けた痕跡が出てきました。板橋区内の川を望む台地上の地域は、最高の生活の場でしたので、ほとんどの地域から遺跡が出てきます。東京印書館のあった場所は、成増と和光市の境を流れる白子川の流域にあり、このような低地からは弥生時代以降の遺跡が見つかります。(海が引いたあとの時代ですからね。)今回、この工場の跡地からは、少なくとも10体の人骨が見つかったようです。でも、怖がる必要はありません。今でもそうですが、田舎へ行くと、畑の隅なんかに建つ個人墓を目にすることがあるでしょ?四葉の土地区画整理の時も、ずいぶん人骨が出て来たそうで、それらは長い年月の間に忘れ去られてしまったお墓の跡だったようです。ただし、この現場からは首だけが埋められた状態のものが数体出てきたとのこと、それはまるで斬首されたかの如く‥。これはいったいどういうことか‥まっ、まさか、あの伝説の”白子原合戦”で散った後北条軍のものか?ついに、物証がでたのか?? なあんて思わず興奮しちゃいますね。
 白子原合戦とはですね、詳しく書くと大変なので(板橋区史通史編上巻を参照してね。)簡単に説明すると、時は戦国時代の初め頃、関東における反北条勢の盟主的な存在であった上杉朝興(うえすぎ・ともおき/1488~1537)は、北条氏綱と激しく対立していた。 大永4年(1524)、家臣の太田資高・資貞が北条家に内応したため居城・江戸城を奪われるが、それでもなお打倒北条の決意は強く,本拠を河越城に改めると反撃を開始する。そして、翌、大永5年8月22日、上杉軍は白子原で北条軍と激突。北条方は大将・伊勢九郎親子はじめ、800名が戦死したという。上杉朝興はこの合戦に勝利すると、里見氏・武田氏などと結託して北条領へ侵攻,北条氏綱を苦しめた。しかし1535年に大敗を喫してからは状況が悪化し、その2年後に河越城で失意のうちに没する‥
 それにしても、戦死者800名なんてすごいですね。ホントの話ならば、鎧のかけらくらい出て来てもよさそうなのに。通常、関東ローム層の土壌では木や骨などは分解されてしまい、残ってもせいぜい江戸時代以降のものらしい。しかし、荒川の氾濫原で、湿地帯であった高島平の遺蹟からは、平安期の木製品も多数出土しているし、この白子川流域も低湿地帯という条件は同じはず。何がしか残っていてもおかしくはないと思いますがね。発見された頭部だけの人骨は、成人でもなく、子供のものでもないとの事。もしやすると、敗軍の将、伊勢九郎の息子とその近衆‥なんて妄想は広がるばかり。ああ、赤塚郷の近くでこんな壮大なロマンが(悲惨な話ですけど)あったなんて。。
 
 はてさて、東京印書館跡から発見されたという人骨が何を物語るのか、専門機関による検証を楽しみに待ちましょう!!

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コメント

はじめまして、検索からお邪魔いたします。私は沖縄で小説と音楽の活動を行っていますが、今小説で、菅原神社台地上遺跡の弥生時代の話を書いています。15年前埼玉に住んで、菅原神社の発掘に携わっておりました。成増で働いていたころが懐かしいので、板橋には思い入れがあります。今は沖縄にいますので板橋区にいらっしゃる歴史に詳しい方と連絡をとりたいと思っていましたので、3年前の貝塚の記事興味深く見せて頂いた所です。もし、挨拶だけでもお返事いただければ幸いです。

投稿: みかつきなお | 2011年4月15日 (金) 03時00分

>みかつきなおさま
コメントをありがとうございます。菅原神社台地上遺跡は今は集合住宅が建っておりますが、遠目には緑に囲まれ昔の面影を残しています。あの場所は荒川と白子川に面した武蔵野台地縁であり、旧石器から古墳時代までの遺跡がまんべんなく残る最高級の住宅地でしたね。ちなみに、私はみかつきさまとは面識があると思います。。また、別の方法でアクセスさせていただきますね。

投稿: オーク | 2011年4月15日 (金) 22時25分

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