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2008年11月

さらば上板ファミリーランド

321 11月に入りました。気温もぐっと下がり、秋深しといった感じですね。でも、2週間くらい前に光が丘公園を通ったら、まだアブラゼミが鳴いていてビックリ。いったいどういうことなんでしょうか?

 11月最初の話題は、また一つ、板橋区内から想い出の場所がひっそりと消えてしまう話からです。タイトルでピンときた方は、上板橋近辺で子供時代を送った人くらいかな。その場所とは、上板橋駅北口近くのイトーヨーカドー屋上に存在する遊園地、ファミリーランド。まあ、こういう場所とは縁のない人から見たら、よくあるお子ちゃま用の遊戯施設にしか見えないだろう。設置遊具は、新都市交通システム風のバスと蒸気機関車と新幹線の乗り物、それとトランポリンとゲーセン。ホント、何のシャレも無いささやかな空間だ。でも、大山の水道タンクや常盤台住宅が無くなることよりもショックを受ける人は多いんじゃないかな。大人でも楽しめるように莫大な資金で造られたディズニーランドのようなテーマパークとは違い、まったく子供用に造られたささやかな遊園地だが、そこで遊ぶ子供達にとっては、ディズニーランドと等しく楽しい空間であったことに違いはないと思う。
ここの遊園地は、株式会社「友栄」が運営をしているそうで、HPで確認してみると、屋上遊園地や室内プレイランドを全国で展開し、特にイトーヨーカドーの店舗に多く出店しているようだ。都内では他に赤羽や、四ツ木、竹の塚、三ノ輪、小岩のヨーカドーにある。(アリオ西新井店も運営)ただし、上板と同じように屋上にあるのは三ノ輪だけになった。「友栄」は昭和42年に創業し、遊園地の運営の他に防災機器や測定器の輸入や販売も行っているそうである。
さて、いつものごとく歴史ウンチクを始めますか‥。上板の遊園地がいつできたのか、私の記憶にはありません。聞き込み取材もしていないので、とりあえず愛用の昭和44年度発行住宅地図を見てみると‥まだそのころのヨーカドー敷地は空き地!だった。南(線路側)の対面には映画館・上板東映がある。そしてさらに南側には産婦人科病院の松山病院。(何を隠そう、私が生まれた病院なんですよ。)住宅地図の昭和51年度版ではヨーカドーはすでに存在しているので、その間に出来たんですね。想像だけど、遊園地もその頃出来たのかな。当時、デパートでも屋上遊園があるのは当たり前の時代でしたから、ちょっとしたデパート風の高級感?をめざしたスーパーなら、開設当初からあったように思います。40年近い歴史があるということは、50歳世代から今の子供達までが想い出を共有しているということになりますね。
 
 それにしても、昭和44年度版の地図を見ると感慨深いですねえ。駅周辺には空き地だとか倉庫が多く、東上線から分岐する啓志線の線路もまだ描かれている。上板橋駅ホームには隣接して日本通運朝霞支店の上板橋営業所があり、貨物専用のホームがある。これは、割と近年まで残ってましたね。今はマンションですが。線路北側、東武ストアの入っているマンション敷地は、熊谷組の資材置き場と倉庫だった。ちらっと聞いた話だけど、陸軍や啓志線の運送には日通がかかわっていたらしい。グラントハイツの建設には熊谷組も参加しており、それも関係しているのかな。商店街は、富士見通りの方が充実していたような感じですね。きっと、古くからある街道だからなんでしょう。私が師と仰ぐ、泉麻人先生も住宅地図を見るのが何よりも好き、という人だが、地図は本当に面白い。町内だけの住宅地図は戦前からあったけど、全体の地図が市販された最初は昭和37年度版からだったと思う。板橋区はあまり関係ないけど、戦後、東京が大きく変貌したのは、東京オリンピック時の首都高建設からと言われている。板橋区内の図書館でも、こうした地域の住宅地図を年度別に置いてくれれば楽しいのだけれど‥

と、いつもの如く脱線してしまいましたが、上板屋上ファミリーランドの営業は11月9日まで。最後に想い出を確認したい、または、自分の子供時代と同じような楽しい経験をさせたい方は、足を運んでみてはいかがですか?

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2008年度 第31回板橋農業まつりオープニングパレードなど

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 祝・1万ヒット! これもアクセスしていただいた方々のおかげ、感謝を申し上げるとともに、さらなる内容の充実に務めるよう努力をいたして参ります。
さて、先週広告したように、11月8・9日、板橋区赤塚の赤塚体育館一帯にて「第31回 板橋農業まつり」が行われました。初日の8日、パレード会場の赤塚体育館通りでは、子供達や農業関係者などが曳く、板橋産の野菜で飾った総重量約1.5トンの「宝船」を先頭に、赤塚城戦国絵巻武者行列や、西洋流火術鉄砲隊保存会などが後に続いた。
 
 農業まつり初日は、ここ3年続けて雨にたたられましたが、昨年同様、パレード直前に雨が止むという幸運に恵まれた。パレード自体は、時間にすればわずか30分程の行事ですが、その準備たるや大変なもの。昨今ではYou Tubeなどを始め、動画を簡単にネット上にUPできる環境が整いましたので、祝・1万ヒット!記念の感謝の気持ちを込め、支度風景やパレードの様子を動画でお知らせいたします。ちょっとファイルサイズが大きいのでNo-1とNo-2にわけてUPしますね。
 赤塚城戦国絵巻武者行列では、大将が、坂本区長に対して”着到状”を手渡します。その後”鬨の声”を上げ、西洋流鉄砲隊がオープニングの祝砲を放つという段取りです。農業まつりでは、赤塚体育館2階で、野菜の品評会や高島秋帆生誕210年記念&清水かつら生誕110年を記念してのパネル展、隣接する少年運動場ではゲキレンジャーショーやいた橋鼓友会による組み太鼓が行われ、物産品の販売も。また、赤塚小学校校庭では苗木や植木、板橋区その他の物産品の販売などが行われました。2日目の本日は、音楽パレードや郷土芸能大会、けんちん汁の無料頒布が行われ、それぞれ大盛況でした。中でも盛況なのはMade in itabashi産の無農薬栽培の野菜販売で、毎回、昼前には売り切れてしまう程の大人気。いい物を手に入れるには、オープン直後に行かなければダメですね。私も柿や梅干しその他、たくさん買いましたよ。パネル展会場では、”徳丸産のお茶”が無料でふるまわれておりました。お茶は有志の農家の方が紅梅小学校の北側で栽培しており、葉は青梅に運んで焙煎してもらっているのだそうです。販売する程の量が採れないので、区内の敬老施設などに配布されております。実は、板橋区では明治時代から昭和30年代までお茶の栽培が盛んだったんですよ。でも、板橋ブランドで出すとあまり売れなかったので、摘み取った茶葉は狭山へ運んで焙煎し、”狭山茶”として販売されたのだとか。トホホ。いまでは貴重品な逸品ですが、一般的にはこの機会にしか味わえませんので、ぜひどうぞ。なんてもう遅いですね。来年トライしてみて下さい‥って来年もやるのかな?‥



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そうだ!兎月園へ行こう。

7592075921Photo 農業まつりも終わり、秋深し、といった感じですかね。私の長年の観察によると、板橋区内の紅葉は11月20日前後に見頃を向える。紅葉スポットは、大門近くの赤塚公園周辺ですかね。
でも、いまから80年くらい前ならば、当時の板橋人はきっとこう言ったことでしょう。”そうだ、兎月園へ行こう”

 兎月園とは、東武鉄道の社長である根津嘉一郎が、成増付近の発展のために考案した高級遊園地だ。正確な開園時期はわからないが、大正の終わりから昭和の始め頃といわれている。当時の板橋地域二大娯楽場といえば、中板橋の遊泉園と兎月園が上げられる。(ハッキリいって、両方とも石神井遊泳場と豊島園のパクリ施設ですが‥)兎月園についてはあまり資料がないので、板橋区役所発行の「写真は語る」から引用すると、広さは1万坪以上、園内には料亭や日本庭園、遊興施設、運動場、池などが完備していた。遊興施設には兎月演芸館という映画館があったらしい。
 東武鉄道が発行したパンフレットを見ると、なるほど帝都郊外にふさわしい行楽地にみえますね。入り口は二ヶ所、真ん中に、おそらく田柄用水から引いた池があり、そこに面して母屋の料亭などが点在し、池を中心とした右側(北側?)は日本庭園が広がるのでしょうか。奥のひときわ大きい建物が演芸場ですかね。池の左側(南側)は広々とした運動場や、滑り台などの遊戯施設が見えます。入り口付近には白い花畑が、ピンク色の木は桜のようで、オレンジ色で表現されている木は紅葉したもみじですかね?きっと冬には大きな興行を呼び、まさに一年を通じての娯楽場だったのでしょう。でも、この兎月園、非常に高級な施設であったため、ジモピー達には近寄りがたく、あまり縁のない場所だったらしい。そもそも考案者の根津嘉一郎は芸者遊びが大好きで(下賤なやつではないですよ。)、この時代、芸能向上の祈願社として芸者衆の信仰を集めていた東松山の箭弓(やきゅう)稲荷神社への参拝用として、東上線で初めての記念切符を発行し、芸妓達に配ったとの逸話が残るほどでした。そんな高級趣味人が作った遊園地ですから、地元の人々には高嶺の花だったんでしょう。しかし、戦時体制により昭和18年頃には閉園、短命で終わってしまいました。昭和17〜8年頃には、帝都防衛飛行場を建設するために視察に来た、陸軍の大河内大佐が滞在していたこともあったようです。昭和20年4月に米軍爆撃機・B29が偵察用に撮影した写真から兎月園と思われる一帯をトリミングしてみましたが、何となく場所がわかりますかね?
先日、そのあたりを歩いてみましたが、もはや面影はまったく見出せませんでした。わずかに、兎月園通りという名と、”板橋のいっぴん”に選ばれた、和菓子司ふじむら(成増1-25-9)の作る兎月まんじゅうにその名を残すのみのようです。

 この兎月まんじゅう、その愛らしい形といい、ホントにおいしいですよ。包装紙のデザインも素晴らしい。お近くをお通りの際はぜひどうぞ。
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グルメな縄文板橋人。小豆沢貝塚発掘現場から

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 食欲の秋、ってなことで、今回は食に関係する話題をひとつ。ブログタイトルバナーに、‥旧石器からグルメ情報まで‥と謳っておきながら、一度もグルメにふれていませんでしたね。私は外食はあまりしないタイプなので書く資格がナイんです‥なんて個人のサイフ事情はさておき、私のアンテナに、現在、小豆沢貝塚の発掘作業が行われているとの情報が引っかかりましたので、さっそく現場に出かけてみました。

 さて、そもそも貝塚ってなんでしょうかね?手元の文献によれば、貝塚とは約7千年前の縄文時代早期後半から前期にかけて起こった海進によって東京湾が後退し‥ええい、書き写すのがメンドウなのでぶっちゃけて書きますね。ちゃんと知りたい方は、別ウインドウを開いて板橋区立郷土資料館のHPを見るか、ググルなりウイキなりで調べてくださいな。ようするにですね、縄文時代に入ってから温暖化かなんかで海が内陸部まで侵入し、約6千年前には埼玉県富士見市(東上線・ふじみの駅近辺)や上福岡市まで達したのだとか。その時に、海岸線近くに住んでいた縄文人が食用として貝類を採集し、捨てた殻が堆積して出来たのが貝塚というわけです。いわばゴミ捨て場ですね。でもこのゴミ捨て場、さすがに3千年もたてばお宝の山と化し、当時の人々がどんな暮らしをしていたのかを解明するのに非常に有効なものになるんですよ。板橋区内で有名な貝塚には、中台馬場崎貝塚・四枚畑貝塚(前野町)・四葉地区遺跡・赤塚城趾貝塚、そして小豆沢貝塚があります。
 小豆沢貝塚は、龍福寺霊園を中心に広範囲にひろがっている。その存在が知られるようになったのは古く、明治16年から研究者の目に留まっており、板橋区の考古資料を代表する優れた出土物が多く輩出したのだとか。
今回、調査対象とされたのは、貝塚の北側の一番端、荒川に近い側の部分で、住宅地の一部になっている場所だ。古い建て方をした住宅が建っていたので、奇跡的に土地の撹乱が少なく、しかも、過去、畑として耕された形跡も少ないようで、ほぼ完璧な形で出土したのだそうだ。これってすごいことですよ。だって、約3500年もの間、土地に手が加えられていなかったってことですから。写真を見ていただくと、一見、黒土にまだらに白い貝の化石が混じっているだけにみえますが、そりゃあ数千年もの間土の下にあったんですから、風化してしまうのは当たり前。それでもこんなに残っているんですよ。しかも、ゴミ捨て場ですから、動物の骨や土器類、装身具など生活用具なんて物がザクザク出てくる。同じ場所で生活が営まれ続けられたようで、いくつもの年代の遺物が出土しているようですね。穴を掘っては埋め、また穴を掘っては埋めのくり返しだったようです。普通、貝塚は海岸線や、台地の斜面に形成されるケースが多いのですが、今回のように台地上に築かれるのは不思議なことで、これから専門家により評価が成されてゆくとの事。この区画からは住居跡も、いまの所2軒分見つかっているようで、それとの関係も考察しなくてはならないようです。
 基本的に、この時代は食料確保が一番大事なこと。必然的に海に近い関東ローム層のヘリにあたる土地に人が集まってくるというわけで、板橋区近辺は人気の場所だったんですね。で、現場の貝塚からは何が出てきたんでしょうか?ざっと見ると、ハマグリ、アサリ、マガキ、サザエ、ハイガイ、ヤマトシジミ、獣骨ではシカとイノシシが確認出来た。他に、採集した土を調べれば魚の骨や木の実などが見つかるはずだ。過去に小豆沢貝塚から発見された例では、貝類33種、魚類11種、頭足類や爬虫類、哺乳類も110種類確認されているという。また、土器の他に装身具や土偶、石棒や石剣も見つかっているので、今回の現場からもすごいお宝(金銀財宝ではありませんよ、念のため)が出てくる可能性があるので、今後の成果に期待したい。本来ならば時間をかけて調査をすべきなのだが、何せ個人宅の敷地。知らない方も多いと思いますが、文化財保護法により、発掘調査費用は土地の持ち主が負担しなければならない。区の補助も出るけど、費用の四分の一しか出ないのだ。1ヶ月の調査なら数百万円以上はかかるんじゃないかな。いやはや大変な出費だ。

 発掘作業は今月いっぱい行なわれるとのこと。もし見学にいかれる方がいたら、現場は住宅地の中にあるので、作業の様子は外側からそっとみるだけにしましょうね。民有地なので詳しい場所を書くのは控えるけど、小豆沢神社にお参りにいけばわかると思いますよ。

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グルメ☆区民が選んだ板橋のいっぴん

Photo_2Img_6209_2_1_thumb_2 しかし、今年もあと一ヶ月半なんですね。。町内会の掲示板では、赤塚の成田山不動大教会や西台の大鷲神社(善長寺境内)の熊手市の案内が出ていたりして、もはや年末気分。特に大鷲神社の熊手市はけっこうな規模で、初めて行かれる方はそのきらびやかさにびっくりするかも。そして新しい年を迎えると、初詣や年始回りですね。
ということで今回は、年始回りのお持たせにぴったりの品を、是非、板橋のいっぴんで、ということでお送りシマス。

 まずは”板橋のいっぴん”の誕生について、板橋区のHPからの引用を。
『板橋区では、区内商業の活性化を目的として、平成15年度及び平成17年度に、地域の方々に愛され親しまれているわがまち板橋のいっぴん(食料品)を選びました。区民の皆様から募集し、大変多くの推薦をいただき、区民の皆様の関心が高いことを感じました。
 推薦投票の結果を基に、専門家の委員5名と公募委員5名の合計10名で構成された「区民が選ぶ板橋のいっぴん選定委員会」で、厳正かつ公正な審査を行った結果、現在64商品が「板橋のいっぴん」に認定されています。選ばれた商品は、どの商品もお店の方々が創意と工夫を凝らしたもので、こんなに数多くの魅力ある商品があるのだと感動しております。皆様も、日常のお買い物に、ふるさとへのお土産に、お友達への贈答品等に、板橋自慢のいっぴんを是非ご活用下さい。』

と、言う経過をたどって選定されたものなんですね。へへ、何を隠そう、私は第一回目のいっぴん選定委員の一人だったのですよ。何かの間違いか、専門家の委員として席に座っておりました。実は、この事業の始まるずっと前(まだインターネットも普及していない頃)、独自に板橋の名物についての情報を収集するためにお店巡りをしていたのですが、店の写真を撮ったり、商品についての質問をしたりしていたため、何かの取材かと勘違いされてしまい、”趣味でやってるんすよ〜”とお断りしているにもかかわらず、試食用に置かれていない商品を食べさせてくれたり、お茶まで出してくれる始末で、しまいには、まるで無銭飲食サギをしているんじゃあないかとの心境になり、その作業は途中で挫折してしまっておりました。だから、選定委員の話が来た時には、こりゃいい機会だなと思い、すぐにお受けしたというワケなんですよ。
 
 審査は、確か区役所並びの情報処理センターの一室で行われたと記憶してます。当然ですが、事前に投票で選ばれた品を実際に食べて行う方式ですので、う〜ん、約90品目ぐらいだったですか、審査しなければならず、とても一回では試食しきれないので、二回に分けておこなわれました。それでも、40品目以上試食しなければならず、しかも、まんじゅうや菓子パン、洋菓子など甘い物が多く、いくら甘党の私でも拷問に近い試練でした。もちろん、商品はまるごといただくのではなく、分割出来る物は小分けして試食しましたが、何せ専門委員ですから、ただ食べて”おいし〜い(はあと)”では済まされませんので、何度も食べ直してみたりして、だいぶ血糖値を上げてしまいました。まっ、そんなこんなで試食をして、選定委員による投票を行い、その後のディスカッションを経て、晴れて選ばれたのがこの板橋のいっぴんであるのだ、ちゃんちゃん。‥なあんてことで終わらせたら、普通過ぎて面白くないですね?それでは、光ある所に影がある、じゃないですが、その審査の裏面(別面か)にあったことを、お上から叱られない程度にそっと話ましょう‥。まっ、審査は当然ですが公平に行われました。これはある意味間違いない。ある意味と書いたのは、経過に関して納得出来る、という意味ですね。具体的に言えば、和菓子洋菓子などに(一般の)投票が集中し、その他のものについては相対的にアイテムが少なかったということで、(特にお酒なんて元から数種類しかないんですもの)商品構成のバランス上、相対的な投票数が多くても、和菓子洋菓子類は切り捨てられた品も多くある、ということ。選挙における地方と大都市の投票格差みたいなもんですか。(違うかな?)それと、地域のバランスを考慮に入れたという点。商品は、あらかじめ選ばれた物ではなく、区民の推薦によって選ばれている。当然だが、かぎられた投票期間にお店と商品名を書いて板橋区役所で投票されたものだけが選ばれる、という訳で、同じ板橋区でも、地域差が出てしまうのだ。役所としてはこれでは困ってしまう。なんで高島平地区からは選ばれないんだ?とか、いろいろ厳しいご意見が届くことになりかねない。だからそこの所の事情も考慮に入っているんです。あとね、第一回の板橋のいっぴん投票では、ある店とその複数の商品に、ダントツに票が多く集まったんですよ。もう、他の店とはダブルスコアの段違い。ところがそのお店、あろうことか板橋のいっぴんに選定されることを断ってしまったんですね。まあ、選ばれると区の様々な行事に出店したりと面倒くさいことも多い訳で、わざわざ宣伝してもらわなくてもウチは結構です。と辞退する店もあるということなんですね。つい先日も、上板橋駅南口のそのお店の前を通りましたが、たくさんのお客さんで賑わっておりました。そこの名物、栗まんじゅうは、開店前!に売り切れる事もしばしばで、私も貰い物でしかいただいたことはございません。確かにそのまんじゅうはうまいっす。
で、今日の結論ですが、前から申し上げている通り、板橋区の歴史は「板橋区史」に載っていることだけではない、ということと同じで、”板橋のいっぴん”に指定されていない店でも商品でも、実は、人気のあるものがいくらでもある、ということなんですよ。

 私は、はからずもいっぴんの選定委員を務めましたので、なるべく手みやげには、自分が良い点を付けた”板橋のいっぴん”を持参することにしております。先日も、そんなある店を訪ね、商品を購入しましたが、その際に、店の方に聞いてみました。

「板橋のいっぴんに選ばれているようですが、売り上げはいかがですか?」
「ええ、おかげさまで知名度も上がり、売れてるんですよ。」

何だかちょっとくすぐったい気持ちで、私は店を後にした‥。

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そうだ!兎月園の情報を追加しよう。

Kaishou 食欲の秋。かつて”板橋のいっぴん”の選考委員まで務めた私ですが、よるメタボの波には勝てずダイエットに励む日々‥。食事制限の他に運動をせねばと追いつめられ、よしそれでは板橋区内を隅から隅まで歩いてやると固く決意して3ヶ月‥おかげで夏から7キロ体重を減らしましたが、目標はあと6キロ減。がんばれ自分。

 ということで、だいぶ板橋区内巡りも進みましたが、たまには気分を変えるため、先日はお隣の練馬区へ越境してみました。ちょうど紅葉も盛りだし、光が丘公園を目標にしました。光が丘公園といえばあれですね、ご存知の通り、前身はグラントハイツ。そのまた前身は成増陸軍飛行場。公園は、広い運動場もあれば、緑のうっそうと茂る場所もある。ダイエットのため、緑に覆われた周回コースを歩きながら、ええっと、ここら辺は東西補助滑走路、対空砲陣地はここ、射撃試射場はここかな、なんて思い浮かべてましたが、現況からはとても想像出来ませんね。ホント、60年余り前まで高い木などなく、野原が広がるばかりの場所だったなんて信じられません。
せっかく光が丘まで来たことだし、休憩ついでに図書館へ寄って郷土資料でも探るか、と光が丘図書館を訪ねました。今までも、たまにこの図書館を利用していましたが、最近、少しずつですが、郷土資料のコーナーに”やる気”を感じるようになりました。だいたい、郷土史のコーナーなんて区史や今まで発行された展示図録とか統計が置かれるだけ、それも全種類が揃っている訳でもなく、まったく使い辛いものというのが相場でした。(私がそう思うだけかもしれませんが。)しかし、光が丘図書館の郷土資料コーナーは、最近、館独自で、地域を扱った新聞雑誌の記事を収集しコピーして編集し、ファイリングを行ったりしていて、情報を求める私のような人間には非常に助かっております。(練馬区では今、図書館の運営に指定管理者制度を導入するかどうかで揉めているようなので、その影響もあるのかも。)で、そんな中に、先日ブログのお題にした、兎月園について纏められたファイルがありました。これも、最近作られた物のようですが、そのファイルには1992年に発行された「月刊光が丘・10月号」の記事のコピーが綴じ込まれており、今回は、そこから引用して紹介します。記事の題名は「幻の兎月園を探る」 月刊光が丘編集部では、一年がかりで取材をしたが、国会図書館を始め東武鉄道など、公の施設からはほとんど資料を見出せず、地元の人々のつてを辿って情報収集を行ったようです。

 兎月園は、大正10年、台東区根岸の住人で、貿易商だった花岡知爾(ともちか)氏が、現在の旭町3丁目にある妙安寺の寺領1万坪を借りて区画し、「成増農園」という貸農場を始めたことが、その出発点であったという。主に華族へ会員制で貸し出したり、そこで収穫された野菜を直送したりしていた。この地を選んだのは、東武鉄道社長・根津嘉一郎からの「成増周辺を発展させたい」という要請によるものらしい。(東武鉄道は、前年に東上鉄道を買収して傘下に納めていたので、その影響もあるかも。)この貸農園の企画は当たり、華族達がお供を連れたり家族連れで行楽を兼ねてやって来るようになった。そして、大正12年9月の関東大震災により東京市内では一時食料不足となり、さらに利用客が増したそうだ。利用客がふえれば、休息したり、食事を取ったりする場所が求められ、茶店が作られた。その茶店の規模がふくらみ料亭へと発展し、庭も整備され「兎月園」の原型になった、というわけ。おそらく貧乏人相手ではなく、金持ち相手だったということが、急速な発展に繋がった面が大いにありますね。今でも同じかも。。
 大正15年2月発行の地図では「兎月園」と「成増農園」が隣接して併記されているので、この頃にはすでに営業していたと思われる。開園当時、会員以外の人は入園料が必要だったが、有料の娯楽施設ができるにつれ、無料になったようですね。最盛期の園内の施設には、茶店や料亭のほか、浴場、小動物園、映画館、運動場、テニスコート、花園があり、中央部には、現在の光が公園北交番付近を水源とした、お玉が池から流れ込んで出来た池があり、ボート遊びや屋形舟を浮かべての遊興も行われた。入り口は二ヶ所で、正門左手には長屋門があった。写真の門がそれで、もともと勝海舟邸の門を移築したものである。(現在は、石神井の三宝寺に移築。)料亭の本館には宴会場があり、和室にシャンデリアという和洋折衷の洋式で、結婚式場としても使われた。園内には数寄屋造りの離れ家が点在し、それぞれ梅、桔梗、萩、竹、紅葉などの名がつけられ、客が本館と行き来する時には担ぎ駕篭に乗せて移動をしたのだそうだ。
池の西側には露天の岩風呂を備えた大きな浴場があり、「兎月園大滝」と名付けられた落差5メートルの滝を作り、露天風呂から眺められるようにした。小動物園には猿(近隣の人が山でつかまえてきて寄贈したらしい。)や熊の檻があり、兎は放し飼いされていた。ポニーも飼っていて、子供達が乗馬を楽しむことができたのだとか。運動場では、ボクシングの興行や相撲の巡業も招致され、自転車競技も行われていたらしい。中でも人気があったのは弁士の付いた活動写真館で、地元民も足を運んだのだそうだ。映画館は、最初、長屋門近くにあったが焼失し、後に正門北側にあった大鷲神社近くに再建された。華族御用達の農園からスタートしたからなのか、園内には久邇宮・朝香宮両殿下御来園記念樹があり、一条侯爵、大山子爵、細川子爵なども訪れたという。(朝香宮は、東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁であり、1932年・昭和7年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が東京駒沢から埼玉県膝折村に移転された際には、膝折村が朝香宮にちなんで朝霞町・現在の朝霞市・と改名されたことで有名ですね。)兎月園のそばには加藤政之助という政界の重鎮が住んでいて、政治家の利用も多かったようで、朝霞に予科士官学校が出来てからは軍人の利用も多くなり、東条英機もしばしば訪れていたそうだ。(以前、成増飛行場に土地を提供した方から話を伺った際、帝都防衛飛行場用地選定にあたり、東条英機が下見に来て兎月園に滞在していた、と話をされていた。このことについては、私は別の見解を持っているが、その話はまたの機会にでも。)賑やかだった兎月園も、戦争が始まり娯楽が制限されるようになるとともに利用者も減り、昭和18年にはついに閉園。兎月園の基礎を作った花岡知爾(ともちか)氏も、昭和20年に亡くなってしまいました。

 以上が、兎月園の歴史のあらましです。月刊光が丘誌では、取材中の話で、兎月園と東武鉄道のかかわりがしきりに出て来たが、東武鉄道の社史には出て来ないので、花岡知爾氏個人の事業であった。と結ばれているが、前回の項で示したように、東武鉄道が発行した兎月園のパンフレットも存在するし、その時代の他のパンフレットにも宣伝されているので、かかわりはあったと思われます。時期的にも豊島園に対抗したのは間違いないことだろうし、ここらへんの検証は面白そうな題材ですね。

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小豆沢貝塚遺蹟再訪と新たなるロマン。

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 ”晩秋”という言葉がふさわしい今日この頃。そろそろ紅葉も見納めかと思い、大門付近(板橋区の花・ニリン草群生地)の赤塚公園あたりを散策してきました。う〜ん、数日遅かったようで、だいぶ落葉が進んでしまいましたね。でも、地面にふんわりと積もった枯れ葉が素敵でした。

 さて、以前に紹介した小豆沢貝塚遺蹟発掘のその後ですが、先週いっぱいで調査も終了ということで、再び現場を訪れてみました。現場を訪れたのは26日、すでに貝層の部分も撤去され、住居址や土壙(どこう)も堀上がり、トランシットによる計測作業が淡々と続けられておりました。前回は、まだ発掘作業が始まったばかりでしたので、遺物も次々と出土し、これからナニが出てくるのかとワクワクしておりましたが、その後はどうだったのかを、現場に立ち会っている文化財係の先生に伺ってみました。ちょっと残念だったのですが、貝層の部分を掘り進めたところ、貝が畝状に細長く堆積している部分が多くを占めており後年、人為的に埋め直された可能性があるとのことでした。但し、貝は間違いなく隣接地域にある貝塚の物であること、貝層は二つに分かれており、下の貝層はオリジナルの物らしい、ということでした。気をつけなくていけないのは、遺跡の発掘調査は、これは何々だと簡単に断定をしてしまうのはいけないことで、採取した遺物や計測したデータ、写真などを時間をかけて詳しく調べ、他の地域のデータと比べたり分析した上でなくては、判断は下せないということです。だから今の時点で”お宝”なんて物が出て来なくても、ガッカリすることはないんですね。結局、住居址は2軒分が出土した(いずれも縄文後期のもの)ようです。
 私が発掘現場を訪れた時、近所の小学生達が興味深そうに作業の様子の見学をしておりました。中でも、一人の少年は何時間もずっと現場を離れず、さしずめ考古オタクのようでした。この気持ちを、世知辛いオトナになってからも忘れずにいてほしいもんですネ。

Photo 現在、板橋区内では他に数カ所、発掘調査が行われているようですが、その中のひとつに、成増3丁目にあった「東京印書館」の跡地があります。東京印書館は、昭和22年に設立された印刷会社で、ここには大きな印刷工場が建っていました。写真の奥に写る森に囲まれた小高い丘は「菅原神社」の鎮守で、その北側には菅原神社遺跡(現在は集合住宅地)があり、旧石器から古墳時代まで、綿々と人々が暮らし続けた痕跡が出てきました。板橋区内の川を望む台地上の地域は、最高の生活の場でしたので、ほとんどの地域から遺跡が出てきます。東京印書館のあった場所は、成増と和光市の境を流れる白子川の流域にあり、このような低地からは弥生時代以降の遺跡が見つかります。(海が引いたあとの時代ですからね。)今回、この工場の跡地からは、少なくとも10体の人骨が見つかったようです。でも、怖がる必要はありません。今でもそうですが、田舎へ行くと、畑の隅なんかに建つ個人墓を目にすることがあるでしょ?四葉の土地区画整理の時も、ずいぶん人骨が出て来たそうで、それらは長い年月の間に忘れ去られてしまったお墓の跡だったようです。ただし、この現場からは首だけが埋められた状態のものが数体出てきたとのこと、それはまるで斬首されたかの如く‥。これはいったいどういうことか‥まっ、まさか、あの伝説の”白子原合戦”で散った後北条軍のものか?ついに、物証がでたのか?? なあんて思わず興奮しちゃいますね。
 白子原合戦とはですね、詳しく書くと大変なので(板橋区史通史編上巻を参照してね。)簡単に説明すると、時は戦国時代の初め頃、関東における反北条勢の盟主的な存在であった上杉朝興(うえすぎ・ともおき/1488~1537)は、北条氏綱と激しく対立していた。 大永4年(1524)、家臣の太田資高・資貞が北条家に内応したため居城・江戸城を奪われるが、それでもなお打倒北条の決意は強く,本拠を河越城に改めると反撃を開始する。そして、翌、大永5年8月22日、上杉軍は白子原で北条軍と激突。北条方は大将・伊勢九郎親子はじめ、800名が戦死したという。上杉朝興はこの合戦に勝利すると、里見氏・武田氏などと結託して北条領へ侵攻,北条氏綱を苦しめた。しかし1535年に大敗を喫してからは状況が悪化し、その2年後に河越城で失意のうちに没する‥
 それにしても、戦死者800名なんてすごいですね。ホントの話ならば、鎧のかけらくらい出て来てもよさそうなのに。通常、関東ローム層の土壌では木や骨などは分解されてしまい、残ってもせいぜい江戸時代以降のものらしい。しかし、荒川の氾濫原で、湿地帯であった高島平の遺蹟からは、平安期の木製品も多数出土しているし、この白子川流域も低湿地帯という条件は同じはず。何がしか残っていてもおかしくはないと思いますがね。発見された頭部だけの人骨は、成人でもなく、子供のものでもないとの事。もしやすると、敗軍の将、伊勢九郎の息子とその近衆‥なんて妄想は広がるばかり。ああ、赤塚郷の近くでこんな壮大なロマンが(悲惨な話ですけど)あったなんて。。
 
 はてさて、東京印書館跡から発見されたという人骨が何を物語るのか、専門機関による検証を楽しみに待ちましょう!!

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