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2008年10月

啓志線について考察してみる。その1

Photo 10月になってしまった。最近、ブログのトピックスが、人から聞いた話や自分の体験、子供時代の話などに偏って来たので、今回は時間をかけて調べてきたことを題材にします。

本日は、メジャーなタイトル、あの謎の多い”啓志線”についての考察です。この路線については、ネット上で様々に語られており、実地に歩いて見聞記をUPしている方もおられるので、まずはそちらをご覧下さい。なんていつもの通り、不親切ですみません。せめてもの罪滅ぼしに割と詳しいHPを紹介しておきます。それは、
「東上沿線 今昔物語」http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/ 
「編集長敬白」http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2008/01/post_684.html 
以上の二つです。両方とも、プロとして本の編集をされている方のサイトですので、クオリティは高いです。
 
 さて、どこから書き始めようか・・と考えましたが、まず、見落としがちな基本的な問題から触れていきましょう。
何故、「啓志線」という名がついたのか。漢字からでは意味がわかりませんね。そう、それは、ケーシーと言う人の名前を日本語に当ててつけられたからです。ではこのケーシーさんは誰なんでしょう?世に出回っている情報では、”鉄道敷設責任者のケーシー中尉”であるとか、”グラントハイツ建設司令官のケーシー少将”など様々です。なんでこういろいろな説が出るのか混乱しますが、それは一重に、第一次資料(公文書)から情報を得ていないからです。例えば、連合軍占領局から”成増住宅建設資材運搬用途の側線建設監督責任者を命ずる”なんて指示書が見つかれば良いのですが、発見の報告をみたことはありません。では、何故ケーシーという名前が出て来たのか・・。
 「啓志線」という存在を調べようと思ったとき、まず、どうしますか?「はい、ウイキやグーグルで検索します。」と、それじゃあネット上の情報なので、他人がどこかから引用して来た文であり、信ずるに値する情報なのか判断するのが難しいですね。基本的には、東武鉄道社史とか、練馬区史を調べるでしょう。ネットで調べるにしても、その情報が、何をソースにしているのかを調べなければ、検証は出来ません。私は、たまに啓志線について検索してみますが、たくさん出てくる記事の基本的ソースは、上記の社史や区史と、ネコ・パブリッシング社発行、レイルマガジン1990年12月号のトワイライトゾーン記事、ではないかと思っています。トワイライトゾーンの記事は秀逸で、名取編集長が実際に廃線跡を歩いて記事にしたものでした。雑誌の発売後、練馬区に住んでいる読者から情報提供があり、その方は高校生の頃、啓志線のレポートを所属していた鉄研の機関誌に発表するため、線路近くの旧宅を訪ね歩き、数枚の啓志線の写真を発掘しました(ピーコックが引く貨車を見て耳を塞いでいる少年の図、など)。しかし、どこを走っていたか、など外から見た情報は多いけれども、ケーシー線の成り立ちなど、疑問な点は全く解消されておらず、それらの情報は、社史や区史からの引用にとどまっています。
ところが、この社史や区史に書いてある情報が、必ずしも正しいとはかぎらないのです。現在、一番新しい本は、平成10年に発行された東武鉄道百年史ですが、啓志線に関する記述は、基本的には東武鉄道六十五年史からの引用で、新しく調査して得た情報は載っていません。そして、グラントハイツの前身が”板橋飛行場”のままになっています。なかにはそう呼んでいる人もいたでしょうが、正式には成増陸軍飛行場なので、訂正していただきたかった箇所ですね。昭和56年に発行された、練馬区史にもいろいろ問題点はあります。断っておきますが、きちんと関係者5名から対談形式で聞き取り調査を行い、成増飛行場のことなど相当詳しく記述され、私もここから引用させていただいております。ところが、聞き取り調査のみで構成してしまったようで、事実確認がおろそかになっている箇所が見受けられるのです。特に、成増飛行場の終戦後の記述に「降伏後、日ならず、8月24日数台のジープに分乗したアメリカ兵が成増飛行場にやって来た。そして戦いに傷ついた戦闘機にガソリンをまいて、それに火をつけた。もうもうたる黒煙が翌日まで、土支田・田柄・高松の空を焼いていたー(以下略」とあるけど、これはおかしい。終戦後、テンチ米陸軍大佐以下150名の占領軍が沖縄から飛行機で厚木基地に到着し、横浜に進駐したのが8月28日のこと。その後、30日、マッカーサー元帥が連合国軍最高指令官として厚木に到着。 31日、米軍8軍主力部隊が横浜港、千葉県館山港から上陸。 9月8日、米軍が東京に進駐開始。という流れになる。日付の間違いもそうだけど、進駐した米軍がただちにジープで成増飛行場にやって来るなんてことも考えられない。そんなに重要な拠点ではないんですよ、成増は(くやしいけど)。今の日本史の授業がどうなっているのか知らないが、近現代史はだいたいかけ足で終わるもので、特に大東亜戦争と終戦後については扱いが難しいせいか、教わることはない。そして、区史を作る先生方もあまり関心を持つことがないので、上記の記述もそのまま検証もされずに掲載されちゃうんですね。困ったことに、こういう社史や区史は、社会的信用度が高いので、これを基本として引用されることが多いのです。それがネットに載ると、どんどんコピペされて広まってゆく、ということになる。おっと、ケーシーの話からだいぶそれちゃいましたね。区史にはケーシーさんの話も出て来て、「( 啓志線は)工事責任者のケーシー中尉の名をとって付けられた」とあります。もう一冊、これは練馬区内の図書館に置いてあるけれど、光が丘出身で、母校の光丘高校の教師になった方が、光が丘学という講座を開き、その成果を論文集みたいな冊子に編集した本があります。なかなか熱心に情報を集め、きちんと整理しておられ、ケーシーなる人物の謎解きもしています。それが、米陸軍がネットで公開している退役軍人のサイトから得た情報で、これにはちょっと首をひねらざるを得ません。このケーシーさん(HUGH JOHN CASEY)の履歴を見ると、マッカーサーの副官として、フィリピン戦線で工兵隊の指揮官として戦い、戦後進駐軍の一員となりケーシー少将として赴任します。なるほど、工兵隊で少将ならばグラントハイツ建設の総責任者になってもおかしくないな、と思うのも無理はありません。でも、他に”ケーシーさんは若い中尉”と記述してある資料もあります。そこで、探しましたよ、その元ネタがどこから出ているのかを。それは、練馬郷土史研究会会報 第151号 昭和56年1月31日発行 成増飛行場からグラントハイツまで(二)の中で、練馬区史の座談会にも登場していた加藤佐平氏(旧土支田出身)が、ケーシー線について語った証言でした。「このケーシーというのは若い中尉で、ここを建設した指揮官だということから、その名を付けたのです。そうのうち石炭が重油(ボイラーの燃料として使用)に変わったので、この線の利用価値は失ったわけです。」加藤佐平さんは、成増飛行場建設時には土地を接収されずにすんだが、グラントハイツ建設時に土地を取られてしまったので、当時のことはよく記憶しているらしい。グラントハイツ建設の総責任者ならば少将もありうるかもしれませんが、側線の延長程度の工事監督ならば、中尉クラスで充分でしょう。ちなみに、工事は国鉄の新橋作業隊によって行われたそうで、これは国鉄の資料にもあるようです。中尉という階級は、戦時中の前線で将校の消耗が激しい場合を除き、基本的には士官学校を卒業した段階(21〜22歳くらい)で少尉に任官し、その後数年で中尉に昇進するので、”若い中尉”というのは本当のことではないかと思います。少将と書いてしまった先生は、見つけた時点で”これだ!”と思い込んでしまい、筆が走ってしまったんでしょうね。(私もよくあります‥自戒)。ちなみに、その米陸軍のHPでは、ケーシー少将がグラントハイツの司令官になったという記述は出てきません。
区史にしろ社史にしろ、一度印刷されて世の中に出てしまった本はもう訂正のしようがありません。影響も大きく、だからこそ、校正には気をつけなければいけませんね。また、資料を読む場合も、常に疑問をもって読むことが必要です。このブログの情報も、こっそり訂正している場合がありますのでたまにチェックして下さいネ。

さて、次回は私が把握しているケーシー中尉についての情報をお教えします!お楽しみに!

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啓志線について考察してみる。その2

30あっ、私が把握しているケーシー中尉の情報は、確実、というほどのものではないので最初に断っておきます。言い訳はいつもの通りですね。では本題に入る前に、ちょっと寄り道を。
先月末、共同通信が配信した記事に、こんなトピックスがあった。その記事を引用させていただく。

山本長官機撃墜、米に暗号筒抜け 古い乱数表を使う
【ワシントン27日共同】太平洋戦争中の1943年4月18日、南太平洋の前線巡視に向かう山本五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機が待ち伏せた米軍機に撃墜されて長官らが死亡した事件で、旧海軍が本来は破棄すべき古い乱数表を使って長官の巡視日程を知らせる暗号電報を作成、これが米側に解読され撃墜につながったことが27日までに、機密解除された米軍史料で分かった。
 米軍が暗号解読を通じて巡視日程を事前に把握していたことは戦後間もなく明らかにされたが、この暗号が規則に反して古い乱数表で作成されていたことが文書で裏付けられたのは初めて。現場最高指揮官の行動日程という最高機密に属する情報のずさんな取り扱いぶりが、事件後65年を経て浮き彫りになった。
 史料は米海軍情報部の暗号解読史などと、解読文を記載した2通の暗号カード。戦史研究家の原勝洋さん(66)が米国立公文書館で見つけた。           2008/09/27 18:12 【共同通信】

 米国立公文書館、そう、”NARAへの道”で紹介したメリーランド州にある公文書館ですね。戦史研究家の原勝洋氏は、たぶん毎年のように滞在して調査をされているのだろう。昨年は、戦艦大和が出撃する2時間前の様子を米軍機が撮影した写真を発見し、ニュースになった。沖縄の特攻機の戦果が、米軍の発表した情報よりも、はるかにダメージを与えていたことを調べ上げたのも最近のことだ。
 さて、これのどこがニュースなのだろうか。海軍の暗号電報が解読され、山本長官機が撃墜されたなんてことは、とっくの昔から知られていた事実じゃないか、と思う人がほとんどだろう。これは、記事中の「機密解除された米軍史料により、文書で裏付けられたのは初めて。」という部分が肝で、常識だと思われていたことが、きちんと裏付けられた、ということがニュースなんですね。長い前フリだったけど、啓志線については、この裏付けがほとんど無いんです。多分、ケーシー駅(後・グラントハイツ駅)の正しい場所すらわかってないでしょう。(この件についてはまた後に触れることとして)さて、ケーシー中尉って誰?ということでしたね。古い話になりますが、今から10年くらい前と3年前に浜松町の東京都公文書館で調べてみたので、整理してある公文書のタイトルだけ書き出してみます。

東京都公文書館公開;東京陸軍第一造兵廠練馬倉庫・グラントハイツ関連文書  平成17年4月28日調査

起案年月日S21.10.12  「旧東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫使用許可の件 東京都養育院練馬分院」
       S22.07.18  「旧東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫返還申請について」
       S22.09.04  「旧東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫返還申請」
       S22.09.10  「元東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫敷地の一部に配電工事許可申請」
       S22.09.19  「成増鉄道線路促進について」
       S24.03.31  「東京都成増管理事務所及び東京都成増建設事務所関係物品保管転換引継について」
       S24.10.09  「成増地区連合軍設営関係工事第一期屋外暖房工事(小川管鉄工業株式会社請負
                分)に関する会計検査の結果指摘された事についての回答」
       S24.10.31  「成増地区資材関係引継目録綴、成増建設事業所No-5」
       S24.12.17  「成増地区連合軍関係設営工事の実地検査の結果指摘された事項について
               <冊20㎝・封印された箇所数カ所有り>」
       S24.12.21  「成増工事関係第一期東地区土木工事(竹中工務店請負分)に関する会計検査の結
                果指摘された事項について<冊20㎝・封印された箇所数カ所有り>」

この他、まだいくつか書類はあるのですが、10年前に調べた資料はコピーしたままの状態で、英文翻訳の関係もあり、書き上げることが出来ません。
 旧東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫とは現在の自衛隊練馬駐屯地のことで、陸軍が敷設した側線の終点があった場所です。啓志線はここからグラントハイツまで延長されました。いまさらですが、最初は上板橋駅から練馬倉庫までを結ぶ路線だったんですよ。陸軍が工事を担当したらしいのですが、経過については不明です。実は、調べた事があるんですが、そのメモがどこかへいってしまって‥。練馬倉庫が出来たのが昭和15年で、側線は昭和18年に入ってから敷設されたと記憶してますが不確実です。確か東武鉄道百年史の表に載っていたような気がしますので、お持ちの方は調べてみて下さい‥。
 上記の公文書のうち、「S22.09.19 成増鉄道線路促進について」の案件については、1947年9月15日付けで、東京神奈川地区軍政部東京分遣隊の司令官代理で副官の、ウイリアム J ヒーサー歩兵中尉から発せられています。もったいぶるのはやめて、いよいよ核心に迫りますが、コピーしたままになっている公文書の中に、1947年3月29日、4月17日、5月7日に作成された Narimasu Housing Project に関する命令書があります。その発令者として”HUGH B CASEY”の名前が登場するんですね。階級は1st Lt,CE Project Engineer。 1st LtとはFirst Lieutenantの略で、中尉の階級を表します。CEが何を表すのかはわかりませんが、日本語で書くと、ヒュー B ケーシー中尉 CE 技術職員(または工務主任?)となります。私は、この人物こそが啓志線のケーシー中尉ではないかと考えています。ただし、まだ決定的な文章は発見していないので、断定は出来ません。また、これを機会に調査を再開しますので、その結果はしばしお待ち下さい。

次回は、さらに啓志線のナゾに迫ります。

        

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啓志線について考察してみる。その3 

 今回は、啓志線を走っていたガソリンカーについての考察です。
「東武鉄道100年史」によると、啓志線が旅客営業を行ったのは、昭和22年6月から昭和23年2月までとされ、その時に使用された車両が、国鉄から借り入れたガソリンカー10両と記載されています。ガソリンカーとは、ガソリンを燃料にして走る列車のことで、気動車の仲間です。同じ仲間には蒸気動車(石炭燃料)や天然ガス動車もありますが、現在ではディーゼル動車しかありません。ガソリンカーは火災の危険が高く、戦後、しばらくして順次改造されていきました。
 連合軍の使用する列車・貨物車については、一般的に、時刻表には載らないので、どんな運行をしていたのかわかりません。「練馬区史」では、唐突に”米軍物資輸送本部から、山手線外廻り経由で、直通の二両連結車が30分おきに運転された。”と記載されているだけで、それが貨物列車のことを指すのか、旅客列車を指すのか記載がありません。まっ、貨物が二両編成なんてことはないから旅客のことなんでしょう。しかし、当時を知るお年寄りから、ケーシー線の旅客は池袋駅から発着していた、と聞いたこともあるし、どうもよくわかりませんね。池袋とを結んでいたのなら、10両(5編成)も必要ないのでは?と思いますが。

 さて、お待たせしました。ここからがスクープ情報です。ケーシー線で運用されていたガソリンカーには、どんな車両が使われていたのか??
今から2年前の6月頃ですが、私は、板橋区からケーシー線跡の史跡散歩の案内人を依頼されました。そのことを、旧知の交通博物館学芸員(当時)・岸由一郎氏に話すと、後日、こんな物がありましたよ、と書類のコピーとそこから注出した資料を送ってくれました。(岸氏は、鉄道博物館の学芸員として勤務していたが、今年6月14日朝、出張で滞在していた栗原市栗駒温泉にて岩手・宮城内陸地震に遭い、旅館ごと土石流に巻き込まれ惜しくも亡くなられた。)そこには、以下の情報が書かれていたのです。

「東上線用」気動車配置の推移(上野管理部/田畑機関区/我孫子機関支区)
1947年(昭和22)4月1日現在 なし
1947年(昭和22)8月1日現在 キハ41017・41053・41066・41087・41501・41126
1947年(昭和23)3月1日現在 キハ41017・41053・41066・41087・41501・41126
1947年(昭和24)3月1日現在 なし

各車両の車歴は以下の通り。
キハ41017 1933年(昭和 8)日本車輌 「改造」1950-5(高砂工)  キハ41502
キハ41053 1934年(昭和 9)日本車輌 「改造」1949-8(新小岩工) キハ41206
キハ41066 1934年(昭和 9)日本車輌 「改造」1950-5(松任工)  キハ41506
キハ41087 1934年(昭和 9)日本車輌 「改造」1952-3(小倉工)  キハ41561
キハ41126 1935年(昭和10)日本車輌 「改造」1950-5(大宮工)  キハ41509
キハ41501 1935年(昭和10)日本車輌 「改造」1950-5(名古屋工) キハ41501 ←*製造時よりディーゼル動車
 
おお、これこそ探し求めていたガソリンカーの情報ジャマイカ!と驚喜し、岸氏に「このネタもらっていいですか!」というと、氏はこころよく譲ってくれた。(この資料の出所である書類のコピーもいただいたけど、部屋のどこかに紛れ込んでしまい見当たりません‥)
0002この資料は、ちょうどその頃、岸氏が鉄道博物館に展示される予定のキハ41307の車歴を調べていた時に見つけたようだ。車両は、現在、鉄道博物館に展示されている(左写真)ので、見学されるといいだろう。おそらく、啓志線を走っていた車両と同型車と思われる。

後日、ネコ・パブリッシング社から出ているRM LIBRARY1「キハ41000とその一族(上)」岡田誠一著 発行;1999年8月1日 という本を購入したが、そこに、グラントハイツ輸送のため、白帯のキハ41000型が使用された、との記載があります。東武鉄道65年史では、ガソリンカーの使用は、昭和22年12月6日から昭和23年2月26日まで、とされているけれど、岸氏提供の資料を見るかぎりでは、昭和22年6月から昭和23年2月まで運行していたとしても、良いのではないかと思います。従来いわれていたように、2ヶ月余りしか走っていなかった、ということではないのでしょう。それと”国鉄から10両借り入れた。”ということですが、実態はわからず、もしかすると、資料で示されているように、6両のみであったのかもしれません。まあ、他の機関区から残り4両借りた可能性も大いにありますが、仮に6両(3編成)ならば、池袋駅発着でもおかしくはありませんね。東武鉄道博物館館長の花上氏も、「当時、進駐軍からそのように要請されたが、ダイヤを組むのが難しく、池袋発着ということで運行することになった。」と述べているようです。

しかし、昔のことを調べるのは、とにかく時間と手間がかかります。今回の情報もホントに偶然見つかったもので、岸氏にはあらためてお礼と、ご冥福を申し上げます。
次回は、「啓志線の旅・空白地帯を行く」をお送りします!乞うご期待!

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板橋区民まつり2008<宣伝>

Dsc_0020Dsc_0011 Img_3872_2_1今日は宣伝をさせていただく。来週、10月18・19日、板橋区立グリーンホール(旧産文ホール・栄町36-1)前道路とその周辺で、恒例の「平成20年度第37回板橋区民まつり」が行われる。

 板橋区民祭りは、おそらく板橋区内で最大規模の祭りだろう(花火大会は除く)。催し物も人出もダントツだ。ただし、私のような板橋区西北部出身の人間には、そんなに馴染みはない(なかった)。もともと、板橋区域は乱暴に区切ると、”赤塚郷””旧・板橋宿”地域に分かれる(中台あたりが分断線か)。その昔、赤塚郷の人々にとっての最大の祭りは、和光市にある吹上観音堂(東明寺)(白子川と笹目通りの間の丘上にある/和光市白子3丁目 江戸時代前期とされる、立派な木造仁王門が建つ)で行われた市で、市は年4回行われた。とくに3月に行われた市は「嫁っこ市」といわれ、吹上観音のある下新倉一帯に、その1年の間に他所からきた嫁が参拝するしきたりになっており、新妻達はきれいに着飾って大勢の人前で披露され、それを見たさに近郷からの人たちであふれていたそうだ。で、そこにやって来た独身の女の子を目当てに若い男も集まる、という具合で「見合い市」とも呼ばれていたとか。んで、上板橋界隈から東側の人々はどこへ行くのかというと、巣鴨や王子方面に出かけていたんだそうな。
ああ、いかんいかん、また関係ない方へ話が進む‥。まっ、板橋の東と西では文化圏が違うということですね。

 話を元に戻します。板橋区民まつりの宣伝もそうだけど、18日のオープニングパレードでは、西洋流火術鉄砲隊保存会の演武が行われる。今年で4回目の登場だ。この会の結成に関わった者として、宣伝をせねばならない。ブログではいままで何回となく、高島秋帆先生と西洋流砲術については触れてきた。西洋流鉄砲隊は、高島流を顕彰し、その偉業を今日に伝えるために活動を続けている。結成当初は、和流砲術の指導を受けていたので、装備や演武もチグハグだったけど、ここ最近では装備も充実し、だいぶ伝承されている型に近くなってきた。ちょっと知っている人には、なんで火縄銃なの?西洋流銃陣て密集陣形が基本じゃないの?とか号令はオランダ語じゃないの?などいろいろ物言いがあるだろうけど、現在残るゲベール銃は、管打ち式(雷管方式)に改造されたものがほとんどで、秋帆先生が輸入した火打式の銃はなかなか手に入らないし、管打ち式銃の発砲は銃刀法に抵触する恐れがあって、公の場で使用することが出来ないのだ。密集陣形も、人数が多ければいいけど、十数人規模では、固まると何をやっているんだか見学している人にはわからないし、オランダ語の号令も、何を意味するのか見ている人にはわからないから、それはそれで苦情が来るのですよ。本来の形にしたいのはやまやまだけど、妥協せざるを得ないという事情があんですね。それでも、何とかオリジナルに近づきたいと努力&改良は続けているので、温かい目で応援してあげて下さい。西洋流鉄砲隊では、今年から、前・板橋区長の石塚照雄氏が最高顧問に就任し、板橋区民まつりに見聞役として参加していただけることになった。今日は、石塚氏をお呼びし、衣装合わせと演武のリハーサルに参加していただいた。前区長は、御年80歳近くになられたが、肌はつやつやし、お元気そのもの。当日は、立派に采配を揮っていただけるだろう。西洋流の演武は午後2時から行われるので、御用とお急ぎでない方は是非、見学しに来て下さいネ。

*石塚前区長は、急用が出来、板橋区民まつり当日の演武には参加されなくなりました。10/17記

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啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

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静かなる証言者たち。

08_3 平成20年10月某日、今年も「成増会」による靖国神社昇殿参拝が厳かに行われた。「成増会」は、成増陸軍飛行場に関わった飛行場部隊や、飛行第47戦隊関係者によって結成された戦友会だが、4年前に解散した。現在では、有志のみにより細々と参拝が続けられている。私は、会の解散後に末席に加えていただき、昇殿参拝に参加させていただいている。今年は、4名の現役だった方々が参加された。参拝後、現役であった方々から、成増飛行場時代の様々なお話をお聞きすることが、楽しみ(不適切な表現かもしれないが)である。
 
 白石さんは、元・桜隊の空中勤務者で、終戦後、世話になった成増の農家へ、野菜を分けてもらいに出かけたとき、飛行場の真ん中に積み上げられている旧軍機の残骸を見た。堀山さんは、成増で編成された振武隊の隊長さん。御年85歳にもなるのに非常にお元気で、関係した様々な戦友会の活動で飛び回っている。

216 一楽さん(大阪在住)は、47戦隊が成増飛行場に移動した時から空中勤務者として在籍し、昭和19年11月から始まった本土防空戦より、昭和20年8月14日、鹿児島佐多岬で行われた日本陸軍最後の防空戦闘までを戦い抜いた方だ。
昭和20年2月16日、米機動部隊は硫黄島上陸作戦直前に、艦載機の大群で関東地方の基地へ波状攻撃を行った。左の写真は、午前の戦いを終えて成増基地に戻り、隊長に戦闘報告をおこなっている時のもの。桜隊は、有利な位置から米軍F6Fを襲い、一度に6機をたたき落とした。しかし、午後の戦いで、この写真に写る2名が未帰還となる。一楽さんは、86歳になる今でも、死ぬのが怖いと言う。「ハタチそこそこで死ななければならなかった特攻隊員は、それはもうキツかったんと違うやろか。わずか10ヶ月の戦闘やったけど、そりゃ強烈な経験でしたで、ホンマ。」と話す。

 宇津木さんは、本部で教育を担当し、戦闘詳報を書いていた方だ。戦闘詳報の作成は、戦闘終了後、各中隊長から聞き取りを行い、それを戦闘詳報のフォームに記載する(戦闘報告は一行空けて書く)。そして、飛行長に見せ判子を貰う。その時、飛行長が、空いた行に訂正を書き込むのだが、この時、戦果の水増しが行われるのだそうだ。その後、戦隊長に判子を貰い(戦隊長はメクラ判を押す)、第10飛行師団本部に電話で報告をする、という流れで進む。電話をした後、すぐにラジオで放送されるのだが、その放送内容が、報告した物よりもさらに戦果が水増しされて流れるので、宇津木さんは複雑な気持ちで聴いていたそうである。書いた戦闘詳報は、旗を立てたサイドカー付きのバイクで、宮城内にある第10飛行師団本部へ運ぶ。宇津木さんは、こんな話もしておられた。47戦隊が成増を離れ、都城西飛行場に駐屯していた時(昭和20年5月下旬〜7月中旬)のある日、第51振武隊の川崎少尉が、面識もないのに会いに来た。(注;川崎少尉は、特攻出撃しても何度も引き返して来たエピソードで知られ、この方をモデルにいくつか作品が作られている。最後は電線に引っかかり事故死された。引き返してきた理由は、婚約者の存在のせいだとされているが、真相はわからない。)何度か会って話をし、ある時、「あんたはなぜ、奥さんがいるのに特攻隊に志願したんだね?」と聞くと、「とても断れる雰囲気じゃなかったんですよ・・」と答えておられたのだとか。
 私は、以前のインタビューの経験から、高齢の方から話をお伺いするときには、内容に疑問を思ってもすぐに指摘をせず、そのまま拝聴するようにしている。(安易に疑問点を指摘したところ、話者の方が混乱し、一切口を開かなくなってしまったことがあった。)この時も、疑問はいろいろあったが、そのままお聞きしていた。「面識もないのに〜」とおっしゃっておられたが、第51振武隊は、知覧に移動する前に成増飛行場で訓練を行っているので、そのときに47戦隊とは面識があったのかも知れない。

 戦争当時の貴重な話をお聞き出来るのはありがたいが、経験者の方が元気でおられるからこそであり、この一年も、何人かの方が鬼籍に入ってしまわれた。以前にも記したが、「成増会」の会長を務めておられた、刈谷氏の逝去(今年七回忌をむかえる)により、47戦隊の戦隊史は永遠に未刊となってしまった。現在、存命の方々も、もう高齢になり過ぎてしまい、活発な活動を行うことは出来なくなってしまった。後は、静かに語り継がれてゆくのみである。

 以前、「人は二度死ぬ」という言葉を聞いたことがある。一度目は当人の死、そしてもう一つは、その人を知っている人の死だ。昇殿参拝では、宮司の詔の最中、神となった方々の名前が読み上げられる。「成増会」ではその数、51名をかぞえる。私は、散ってしまった方々を忘れないよう、微力ながら伝え残す努力を続けていくつもりだ。彼らを、二度死なせてはならないのである。

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高島平まつり2008<宣伝>

0808_2 昨日から始まった板橋区民まつりは、好天に恵まれまずまずの人出であった。午後一時半から行われたオープニングパレードでは、桜川中学校のマーチングパレードに続き、西洋流鉄砲隊の演武がおこなわれた。今回は、各隊が前進しながら発砲をする、くり攻めという方式がとられた。いつもように固定位置で演武をすると、道路を使った細長い会場では多くの方に見えないということに配慮したもので、なかなか評判は良かったようだ。ただし、それを知らなかったマスコミ・カメラマン達はあわてていましたが。区民まつりは本日も養育院周辺でおこなわれているので、間に合う方は是非足をお運び下さい。全国各地から集まった物産販売もあり、規模も大きく楽しいですよ。

 さて、引き続き宣伝をしますが、来週26日、高島平図書館に隣接する旧・高島第七小学校にて、恒例の「高島平まつり」がおこなわれます。当日は、午後一時半から西洋流鉄砲隊の演武があります。ご存知の通り、この場所一帯は天保12年、高島秋帆先生率いる砲術隊が演練をおこない、太平の世に慣れきった幕府・諸藩の高官達に衝撃を与え、それが後の明治維新につながった・・という歴史的な場所。おそらくは板橋区が歴史の教科書に登場する、唯一の出来事ではないかと思いますので、幕末の歴史好きな方もそうでない方も是非、お越し下さい。高島平まつりは、時間的余裕があるので、演武終了後に質問等出来ますので。あっ、祭り自体は朝からやっており、植木や物品の販売、大東文化大学のチアリーディング披露や、ミニチュア蒸気機関車の乗車体験など楽しめます〜

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啓志線について考察してみる。その5 

 前回掲載した”空白地帯を行く”の項でオチをつけてしまった気分になっていましたが、「啓志駅」はどこにあったのか?について書くのを忘れていたので、その他小ネタを挟みながらおおくりします。

GhPhoto 左の空中写真は「グラントハイツのこととども No-2」で紹介したものをトリミングしたものだ。撮影されたのは1952年6月5日。真上から撮られた写真と違い、建物の立体感がわかるかと思います。(写真は米国国立公文書館・NARA2所蔵)緑色の文字で、駅のあったとされる場所を示してみた。ここは、現在、田柄第三小学校の敷地内と思われる。
もう一枚の写真は、練馬区役所情報公開課が所持しているケーシー駅ホーム跡の写真である。昭和50年代半ばの撮影だそうだ。啓志線でガソリン動車による旅客営業がおこなわれていたのは、昭和22年6月から翌年2月までのこと。この時期以外でも客車貨車混合列車が走っていたようだ。それにしても、どうも解せない。ホーム跡と、空中写真の敷地が同一の場所とは思えないのだ。そもそも、旅客用の啓志駅は存在したのであろうか?そのことからしてわからない。単に旅客乗降場として指定された場所があっただけではないのか?私は、駅の存在を示した地図はまだ確認したことはありません。(”グラントハイツ”と記入された東武鉄道発行の路線図は所持しておりますが。)初めから旅客輸送は長期間行う予定ではなく、臨時扱いだったのか、それとも途中で列車輸送を打ち切り、バス輸送に振り替えたのか・・。池袋駅からグラントハイツを結ぶバス路線があったことはよく知られていますね。
Photo_2拡大しすぎてわかりづらいかもしれませんが、駅と思われる部分をさらにトリミングして見ました。この頃はもう朝鮮戦争も終わり、旅客輸送が行われていなかった時期です。ん〜、なんとも判断が出来ませんね。以前、ケーシー中尉のことで、ちょっと厳しく指摘してしまった、光丘高校の先生の本の中には、駅のホーム跡は田柄高校のもっと北側のセブンイレブンの近くにあった、と記載されていたと記憶しますが、練馬区提供の写真を見ると、そんな感じにも見えますね。ホーム跡とされている場所は、ご本人が直にみておられた記憶なので、信憑性はあります。
しかし、まだまだナゾの部分も多いですね。例えば、いったいどんな切符を使っていたんでしょうか。GHQからクーポンみたいなものが支給されるのか、池袋駅で販売していたのか・・。昔、切符の収集家から見せていただいた東上線用の進駐軍乗車券は、よく東武本線で使用されていた、東武の青地紋で、行き先の駅名を手で書き込むタイプのA型硬券でした。

自衛隊の方からお聞きしたのですが、練馬自衛隊が出来た頃、富士に演習へ行く時、啓志線を利用したそうです。隊員達は貨車に乗り込み、そのまま演習場まで運ばれていったのだとか。

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残る話、残らない話。

S542S541 このささやかなブログも、もうじき一万ヒットを向かえそうですね。これもひとえに皆様方のご支持の賜物‥(以下略。今回はコラム風でおおくりします。
左の写真は、いまから約30年前に撮影した東武練馬駅前の風景です。しかし、なんでこんな写真を撮ったんでしょうね。自分ながらシャッターを押した動機がわからない‥。でも、30年経って、ようやく価値がでてきたような気もします。
 しかし、なんとまあ様変わりしたことでしょう。かわらないのは線路と遮断機くらい‥いや、あの頃は枕木も言葉どおり木製でした。北口改札前には交番があり、その後ろには、ド〜ンとそびえ立つサティの建物もなく、大木伸銅の煙突が見えるのみ。交番の隣には、一時期ドムドムバーガーがありました。当時はやった竹の子風の若者も写ってますね。南口も、あの懐かしい”練馬食堂”や、その上の階には、壁に犬の看板のかかった喫茶室”セントバーナード”が見えますね。その奥の白い建物の一階はパン屋だったかな。ここには日本に進出したばかりのケンタッキー・フライドチキンがオープンしたけど、徳丸・北町の人間には敷居が高く、半年くらいで撤退したような薄い記憶があります。(勘違いかもしれませんが)
 
 私の写真の話はさておき、東武練馬といえば、ある方のことを懐かしく思い出します。その方は大木さんと言いました。もう亡くなられて5〜6年になります。大木性の家はこの界隈にたくさんありますが、一説には、中世時代に一帯を支配していた豊島氏に従いこの地に土着した家なのだとか。それから500年くらいたちますので、分家も多くあるのでしょう。私の知っていた大木さんは、大きなお屋敷に住まい、土地の商売をしておられました。知り合ったきっかけは、新宿のニコンサロンで開かれた、大木さんの写真展の会場でした。大木さんは北野高校に通っていたころ写真部に所属し、それが写真との出会いだったそうです。大人になってからは一時離れていたそうですが、ある時からまた写真を再開します。得意なのは街角のスナップ写真で、腕試しに写真誌のコンテストに送ったところ入選が続き、ついにはコンテスト荒らしの異名をとり、もう投稿しないでくれとまで言われました。そのかわり写真誌では、大木さんの作品特集を組んでくれるという具合でした。その腕はアマチュアの最高峰を極め、それゆえ、あの名門、ニコンサロンでの個展開催が許されていたというわけでした。
大木さんのすごい所は、自身が健康な体ではなく、松葉杖をつかなければ歩けない体で作品を作ってこられ、それも、ただでさえ撮影の難しい、人間を主役にした街角スナップ写真を得意としていたことでした。いつだったか、私は偶然、撮影現場に出くわしたことがあります。場所は西台駅前、レンジファインダーのカメラを構えている松葉杖の方がいるな、と思い目を向けると、それが大木さんでした。そばには奥様が付き添っておられました。西台駅前で写真を撮っている人なんてなかなかいないし、レンジファインダー式カメラで撮影する方もめずらしいので、目に止まったというわけです。愛用の機種は憶えておりませんが、ミノルタCLEかライカだったかと思います。アンリ・カルチェ・ブレッソンや木村伊兵衛など、スナップ写真の神様と呼ばれる人は皆、レンジファインダー式カメラで撮影をしておりました。大木さんはお体が悪かったので、いわゆる浅草や佃町など”絵になる下町”ばかりではなく、王子や赤羽や光が丘や板橋区内などの近場で撮影されることも多く、私はそれが大変にうれしく思いました。作品として鑑賞できる写真が板橋界隈で撮られることは、あまりないですから。出版された写真集も数冊あり、それは私の宝物となっております。この項を書くにあたりネットで検索すると、今でも写真集はアマゾンやユーアンドアイ、ヤフオクなどでヒットします。
 大木さんは、地元の仕事仲間からは”怖い人”と思われていたようで、ある人から聞きましたが、人物の頭からつま先までじろりとにらみ、その人間を見定めていたのだとか。商売柄、そうならざるを得なかったのでしょうが、写真展を通して知り合った私には、そんな厳しい方という印象には見えませんでした。ある時、今回UPしたような、東武練馬一帯で撮影した昔の写真を送ると、懐かしいね、と大変に喜ばれ、「自分は、さすがに地元ではカメラを構えることは出来ないのでね」とおっしゃってました。昔の写真を見た大木さんは、何か思うところがあったのでしょうか、自分の子供時代のことを手紙にしたため、送って来られました。そこには、小学一年生の時に経験した学童疎開の想い出が綴られていました。板橋区の学童疎開は、昭和19年8月から順次始まり、主に群馬県方面へ向かいました。大木さんは、学童疎開の対象学年ではありませんでしたが、母親が、知り合いのいる学校だから、と特別に入れてもらい、疎開に一緒に連れて行ってもらいました。ところが、それが仇となってしまったのです。戦争末期、大木さんは疎開先で栄養失調から大病に罹り、母親はあわてて東京に連れ帰りました。北町は昭和20年4月13日の空襲で相当の被害を受けており、帰郷は危険なことでした。大木さんは、その時の大病が元で、足を悪くされたのでした。後年、母親は疎開にやったことを悔やみ続け、何度もそのことを語っていたそうです。学童疎開に関することは近年調査が進み、様々な方が経験した、ひもじくつらい思い出や、さびしかったことなどの話を読むことができます。しかし、大木さんの経験は、もし聞き取り調査をしても、公開出来ない話として扱われたことでしょう。実は、先程書いた文章は、これでもぼかして書いたもので、大木さんからいただいた手紙には、母親から聞かされた生々しい話が綴られておりました。このように、公にされる記録には、残る話と残らない話があります。例えば、成増飛行場用地買収に関わることや、三田線が開業する時の駅前の土地を巡ることなど、公にするにはまだまだ時間が必要な事柄は、上げればいくらでも出てくることでしょう。何度か書きましたが、あんなに分厚い「板橋区史」でも、そこに描かれた歴史はほんの一部に過ぎません。記録されずに終わる歴史も多いのだということなんですね。

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板橋農業まつり2008<宣伝>

Dsc_0109Dsc_0168Dsc_0191Dsc_0155 またまた宣伝させていただく。今年も板橋区三大祭り(独断で高島平まつりを加えた。)のフィーナーレを飾る”第31回 板橋農業まつり”が、11月8日〜9日の二日間にわたり、赤塚体育館一帯にて行われる。

 以下、昨年の記事を広報課のHPより引用させていただく。基本的には今年も同じ内容とスケジュールで行われるのでご参考に。なお、日付は昨年のものなので、くれぐれもお間違いなきよう。

「収穫の秋を楽しもうと11月10日、赤塚体育館通り(赤塚五丁目)や板橋区立赤塚小学校(赤塚三丁目)など4会場で、板橋の秋の風物詩「板橋農業まつり」が始まった。11月11日まで。
 板橋区は、農家戸数199戸、農地面積約32ヘクタール(いずれも平成18年8月1日現在)と、農業がなお息づいている。「板橋農業まつり」は、こうした板橋に残る農業の姿を知ってもらい、1年の収穫を盛大に祝おうと開催されているもの。30回目の節目を迎える今回は、記念イベントとして区内で収穫された新鮮な野菜や果物を格安で提供する「板橋農産物セリ市」などが盛大に開催された。
 午後1時から始まった板橋農業まつりのオープニングパレードを飾ったのは、大根・白菜・キャベツ・ブロッコリー・ジャガイモ・長ネギなど約20種類、総重量約1.5トンの野菜を満載した「宝船」。区内農業者の人々がこの野菜の宝船を引いて第1会場の赤塚体育館通りをパレードした。またこのパレードに合わせ、地元の小学生32人が手作りの鎧兜を身に纏い、戦国時代のワンシーンを再現する赤塚城戦国絵巻武者行列や、1841年に西洋砲術家の高島秋帆が徳丸ヶ原(現在の高島平)で行った砲術調練の一部を、区民有志らで結成された保存会のメンバーが再現する「西洋流火術鉄砲隊保存会演武」が披露された(宝船は明日まで赤塚体育館の駐車場に展示、宝船の野菜は明日11日の午後2時30からお宝分けとして先着200名に無料配布される予定)。
 明日(11月11日)の板橋農業まつりは、区民農園で収穫された農産物の品評会や区内産の野菜が入ったけんちん汁(3,000食)の試食会などを行う「区民農園収穫祭」をはじめ、獅子舞い、里神楽、四ツ竹踊りなど農作業や豊作祈願に端を発する板橋区の郷土芸能が披露されるなど、“収穫の秋”を満喫できる多彩なイベントが予定されている。※明日は午前10時から午後3時30分まで。」以上引用終わり。

 昨年はあいにくの雨模様だったが、オープニングパレードの間だけ奇跡的に雨が上がった。パレードに参加出来なければ、時間をかけて準備して来た戦国絵巻武者行列や砲術の演武もすべて無駄に終わってしまうところであった。板橋の神も祝福してくれたのだろう。11月8日のパレードは午後1時にスタートし、坂本板橋区長の立つ本部席前で立ち止まり、区長の挨拶の後、鉄砲隊による空砲発射が行われる。発砲は一発のみの披露です。空砲の発砲がどんな感じなのか、今年2月17日に日野市中央公園で披露された演武の映像をYou TubeにUPしましたので、参考にしていただければと思います。

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