啓志線について考察してみる。その1
10月になってしまった。最近、ブログのトピックスが、人から聞いた話や自分の体験、子供時代の話などに偏って来たので、今回は時間をかけて調べてきたことを題材にします。
本日は、メジャーなタイトル、あの謎の多い”啓志線”についての考察です。この路線については、ネット上で様々に語られており、実地に歩いて見聞記をUPしている方もおられるので、まずはそちらをご覧下さい。なんていつもの通り、不親切ですみません。せめてもの罪滅ぼしに割と詳しいHPを紹介しておきます。それは、
「東上沿線 今昔物語」http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/
「編集長敬白」http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2008/01/post_684.html
以上の二つです。両方とも、プロとして本の編集をされている方のサイトですので、クオリティは高いです。
さて、どこから書き始めようか・・と考えましたが、まず、見落としがちな基本的な問題から触れていきましょう。
何故、「啓志線」という名がついたのか。漢字からでは意味がわかりませんね。そう、それは、ケーシーと言う人の名前を日本語に当ててつけられたからです。ではこのケーシーさんは誰なんでしょう?世に出回っている情報では、”鉄道敷設責任者のケーシー中尉”であるとか、”グラントハイツ建設司令官のケーシー少将”など様々です。なんでこういろいろな説が出るのか混乱しますが、それは一重に、第一次資料(公文書)から情報を得ていないからです。例えば、連合軍占領局から”成増住宅建設資材運搬用途の側線建設監督責任者を命ずる”なんて指示書が見つかれば良いのですが、発見の報告をみたことはありません。では、何故ケーシーという名前が出て来たのか・・。
「啓志線」という存在を調べようと思ったとき、まず、どうしますか?「はい、ウイキやグーグルで検索します。」と、それじゃあネット上の情報なので、他人がどこかから引用して来た文であり、信ずるに値する情報なのか判断するのが難しいですね。基本的には、東武鉄道社史とか、練馬区史を調べるでしょう。ネットで調べるにしても、その情報が、何をソースにしているのかを調べなければ、検証は出来ません。私は、たまに啓志線について検索してみますが、たくさん出てくる記事の基本的ソースは、上記の社史や区史と、ネコ・パブリッシング社発行、レイルマガジン1990年12月号のトワイライトゾーン記事、ではないかと思っています。トワイライトゾーンの記事は秀逸で、名取編集長が実際に廃線跡を歩いて記事にしたものでした。雑誌の発売後、練馬区に住んでいる読者から情報提供があり、その方は高校生の頃、啓志線のレポートを所属していた鉄研の機関誌に発表するため、線路近くの旧宅を訪ね歩き、数枚の啓志線の写真を発掘しました(ピーコックが引く貨車を見て耳を塞いでいる少年の図、など)。しかし、どこを走っていたか、など外から見た情報は多いけれども、ケーシー線の成り立ちなど、疑問な点は全く解消されておらず、それらの情報は、社史や区史からの引用にとどまっています。
ところが、この社史や区史に書いてある情報が、必ずしも正しいとはかぎらないのです。現在、一番新しい本は、平成10年に発行された東武鉄道百年史ですが、啓志線に関する記述は、基本的には東武鉄道六十五年史からの引用で、新しく調査して得た情報は載っていません。そして、グラントハイツの前身が”板橋飛行場”のままになっています。なかにはそう呼んでいる人もいたでしょうが、正式には成増陸軍飛行場なので、訂正していただきたかった箇所ですね。昭和56年に発行された、練馬区史にもいろいろ問題点はあります。断っておきますが、きちんと関係者5名から対談形式で聞き取り調査を行い、成増飛行場のことなど相当詳しく記述され、私もここから引用させていただいております。ところが、聞き取り調査のみで構成してしまったようで、事実確認がおろそかになっている箇所が見受けられるのです。特に、成増飛行場の終戦後の記述に「降伏後、日ならず、8月24日数台のジープに分乗したアメリカ兵が成増飛行場にやって来た。そして戦いに傷ついた戦闘機にガソリンをまいて、それに火をつけた。もうもうたる黒煙が翌日まで、土支田・田柄・高松の空を焼いていたー(以下略」とあるけど、これはおかしい。終戦後、テンチ米陸軍大佐以下150名の占領軍が沖縄から飛行機で厚木基地に到着し、横浜に進駐したのが8月28日のこと。その後、30日、マッカーサー元帥が連合国軍最高指令官として厚木に到着。 31日、米軍8軍主力部隊が横浜港、千葉県館山港から上陸。 9月8日、米軍が東京に進駐開始。という流れになる。日付の間違いもそうだけど、進駐した米軍がただちにジープで成増飛行場にやって来るなんてことも考えられない。そんなに重要な拠点ではないんですよ、成増は(くやしいけど)。今の日本史の授業がどうなっているのか知らないが、近現代史はだいたいかけ足で終わるもので、特に大東亜戦争と終戦後については扱いが難しいせいか、教わることはない。そして、区史を作る先生方もあまり関心を持つことがないので、上記の記述もそのまま検証もされずに掲載されちゃうんですね。困ったことに、こういう社史や区史は、社会的信用度が高いので、これを基本として引用されることが多いのです。それがネットに載ると、どんどんコピペされて広まってゆく、ということになる。おっと、ケーシーの話からだいぶそれちゃいましたね。区史にはケーシーさんの話も出て来て、「( 啓志線は)工事責任者のケーシー中尉の名をとって付けられた」とあります。もう一冊、これは練馬区内の図書館に置いてあるけれど、光が丘出身で、母校の光丘高校の教師になった方が、光が丘学という講座を開き、その成果を論文集みたいな冊子に編集した本があります。なかなか熱心に情報を集め、きちんと整理しておられ、ケーシーなる人物の謎解きもしています。それが、米陸軍がネットで公開している退役軍人のサイトから得た情報で、これにはちょっと首をひねらざるを得ません。このケーシーさん(HUGH JOHN CASEY)の履歴を見ると、マッカーサーの副官として、フィリピン戦線で工兵隊の指揮官として戦い、戦後進駐軍の一員となりケーシー少将として赴任します。なるほど、工兵隊で少将ならばグラントハイツ建設の総責任者になってもおかしくないな、と思うのも無理はありません。でも、他に”ケーシーさんは若い中尉”と記述してある資料もあります。そこで、探しましたよ、その元ネタがどこから出ているのかを。それは、練馬郷土史研究会会報 第151号 昭和56年1月31日発行 成増飛行場からグラントハイツまで(二)の中で、練馬区史の座談会にも登場していた加藤佐平氏(旧土支田出身)が、ケーシー線について語った証言でした。「このケーシーというのは若い中尉で、ここを建設した指揮官だということから、その名を付けたのです。そうのうち石炭が重油(ボイラーの燃料として使用)に変わったので、この線の利用価値は失ったわけです。」加藤佐平さんは、成増飛行場建設時には土地を接収されずにすんだが、グラントハイツ建設時に土地を取られてしまったので、当時のことはよく記憶しているらしい。グラントハイツ建設の総責任者ならば少将もありうるかもしれませんが、側線の延長程度の工事監督ならば、中尉クラスで充分でしょう。ちなみに、工事は国鉄の新橋作業隊によって行われたそうで、これは国鉄の資料にもあるようです。中尉という階級は、戦時中の前線で将校の消耗が激しい場合を除き、基本的には士官学校を卒業した段階(21〜22歳くらい)で少尉に任官し、その後数年で中尉に昇進するので、”若い中尉”というのは本当のことではないかと思います。少将と書いてしまった先生は、見つけた時点で”これだ!”と思い込んでしまい、筆が走ってしまったんでしょうね。(私もよくあります‥自戒)。ちなみに、その米陸軍のHPでは、ケーシー少将がグラントハイツの司令官になったという記述は出てきません。
区史にしろ社史にしろ、一度印刷されて世の中に出てしまった本はもう訂正のしようがありません。影響も大きく、だからこそ、校正には気をつけなければいけませんね。また、資料を読む場合も、常に疑問をもって読むことが必要です。このブログの情報も、こっそり訂正している場合がありますのでたまにチェックして下さいネ。
さて、次回は私が把握しているケーシー中尉についての情報をお教えします!お楽しみに!
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