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伝説の人

33 祝!8000ヒット。これもひとえに皆様方のおかげでございます。これからも精進してゆきますのでご支援の程よろしく。
 まったり進行だったこのブログが、いろいろな掲示板で紹介されて飛躍的にアクセス数が増えたことは、以前に触れました。この間、そんな掲示板の一つを見ていると、わが故郷、徳丸一帯で伝説となっていた人物、あの通称”嘗めじいさん”の話題が上がっていた。もう、30年以上も昔のことなのに、いまだに話題にのぼるのは、そのインパクトがあまりに強烈だったからだろう。
カミングアウトするが、実は、私も嘗めじいさんになめられた経験を持つ子供の一人だった。当時、こんなことが知られたら、バイキンとかエンガチョとか呼ばれ、いじめにあっていたに違いないので、嘗めじいさんになめられたときは、本当にショックだった。じいさんは、農作業に出かけるとき、子供の背後からいきなり抱きついてほっぺたをベロリとなめる。良い解釈をすれば、子供が好きでたまらず、今で言うならほっぺたフェチだったのだろう。もちろん、現在なら即、逮捕されるに違いない。大人になった今では、あの嘗めじいさんがどこに住んでいて、何という名前だったのかは知っている。じいさんは先祖代々農家を営む徳丸の旧家の人で、息子さんが今90歳半ばだから、明治20年代くらいに生まれた人だろうか。じいさんが警察に捕まらなかったのは、当時の交番は住居も兼ねていて地域との交わりが濃く、さらに旧家の人間でもあり、人物像も地元の間で広く知られていたからだろう。”ちぇっ、あそこのじいさんは仕方ないな、耄碌したかな”くらいにしか思っていなかったんだろうなあ。それでも、住宅がどんどん建ち始め、新住民も増えていた時期だったので、苦情はかなりあったのではと推測される。当時、週刊少年ジャンプ誌上では、永井豪が自分の出身母校である板橋高校をモデルにした「ハレンチ学園」を連載し、全国のPTAを敵にまわしていた。ちょうど、PTAという学校の父兄会組織が社会的に有名になってきた頃であったのだ。‥そして、じいさんの姿は、いつのまにか見かけなくなっていた。

子供達は、荷車を引いたじいさんの姿を見つけると”嘗めじじいだあ~”と囃したて、逃げたり、追っかけたりしていた。そんな日本昔話みたいな風景があった。私は、なめられてあまりにショックを受けたせいなのか、今でも、野良着で腰に手ぬぐいをぶら下げた嘗めじいさんの姿を、まざまざと思い浮かべることが出来る。いやな思い出だったが、じいさんのおかげで、今は滅んでしまった根っからの徳丸の農民の姿を、脳裏に刻むことができたのかもしれない。

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コメント

久しぶりにお便りします。
甞めじいさん・・・私も小学生時代に、このような人がいるのが噂になっていたことを思い出しました。友人から、見たことがあるとか、追いかけられたという話は聞きましたが、実在の人物なのか、私自身は良く知りませんでした。実在の方だったのですね。そしてオークさんが被害者のお一人だったとは!!
甞めじいさん・・・すっかり忘れていた名前ですが、この記事を見て小学生の頃の思い出がよみがえって懐かしくなりました。

投稿: tomikun | 2008年10月 7日 (火) 19時48分

>tomikunさま

コメントをありがとうございます。
”嘗めじいさん”は、ホントに実在したんですよ。なめられた瞬間の、あのヌルリとした感触はいまだに残ってます。そりゃもうPTSDものでしたね。被害を受けたこともさることながら、なめられた時に感じた負け犬感も大きかった‥

投稿: オーク | 2008年10月 7日 (火) 21時02分

自分の子供に嘗めじいさんのことを聞いてみましたが
さすがに現在までは伝わってないようです。
私の兄弟(現在37歳)は知っていました。

ところで他の掲示板に徳丸観音堂のことが書かれていましたが自分が来た32年前はすでにありませんでした。

場所の確認なんですが、松月院通りを西台方面から来て徳丸7丁目の信号を過ぎて駐在所の手前を左に曲がり1つ目の十字路の左前角にある墓地のところでしょうか?

写真なんかがあったら見てみたいです。

投稿: たろう | 2008年10月10日 (金) 14時57分

>たろうさま

コメントをありがとうございます。
嘗めじいさんが活躍したのは、ほんの数年のことと思います。徳丸観音堂は東京オリンピックの頃に壊されたので、さすがに記憶はありませんが、一帯に茅葺き屋根の家が点在していた風景は憶えています。昭和40年代の土地区画整理事業で前谷津川暗渠化とともに、ほとんど無くなりました。最後まで残っていたのは、松月院通りにある中道屋(現在はリカーショップ?)だったような‥(粕谷家除く)。観音堂の場所は、おっしゃるとおりと思います。徳丸6-52です。写真は、板橋区教育委員会発行の「写真は語る 総集編」P175に解説とともに出ていますね。図書館の郷土史コーナーに置いてあるのでは。 

投稿: オーク | 2008年10月10日 (金) 18時12分

お返事ありがとうございます。徳丸観音堂の写真は今度、郷土資料館にいって調べてみます。

投稿: たろう | 2008年10月10日 (金) 21時18分

こんにちは。結構前の記事になってしまいますが衝撃を受けたのでコメントさせていただきました。
まさかなめじいさんの話をネットで見る日がこようとは…

私は今高校生なのですが私の祖母もなめじいさんに舐められたことがあるそうでちょっとした都市伝説程度に聞いていました。が、やはり他にも被害?にあった方はいらしたんですね。恐るべし!
なめじいさんの孫?ひ孫?さんとは顔見知りなので世代を超えて何かの縁を感じなくもありません笑

投稿: ゆき | 2012年8月26日 (日) 09時18分

祖母じゃない!!叔母でした。

投稿: ゆき | 2012年8月26日 (日) 09時34分

>ゆきさま

コメントをありがとうございます。

そうですか、伯母さんも被害者でしたか。今の時代ならアレですが、当時は”困ったじいさんだ”くらいの扱いだったと思います。まだ、徳丸村と言う意識を持った方がいた時代のことで、嘗めじいさん家の様子も知られており、じいさんの個性であることが了解されていたのでしょう。

投稿: オーク | 2012年8月26日 (日) 09時48分

2008年の記事なのに今更コメント書いてごめんなさい
私は親の都合で徳丸に1980年ぐらいの頃に住んでいて
なめじいさんになめられたらしいのですが自分がなめられたことは覚えていません。

2歳の妹がなめられたことは強烈におぼえていて、妹は泣き叫んでいました。
なめじいさんだにげろーと必死に逃げ惑っていたのも覚えています。

親いわく、妹を舐める時に
「女子大生になったらピアノでもなんでもこうたる」 とささやいていたと
男児はそういったことはいわれなかったのかだけ気になります。

なめ爺さんがさほど問題になってなかったのは
たぶん男女の性差なくなめまくっていたからかなあとも思います。

投稿: かんくん | 2014年9月28日 (日) 01時40分

>かんくん さま
コメントをありがとうございます。
なめじいさんは、強烈なインパクトがありましたから、あの当時徳丸にいた人々の記憶に今でも残っているのでしょう。
私がなめられたのが1970年頃でしたから、80年代まで活躍?していたんですかね。
こんな奇行は当時でも問題になっていたと思いますが、じいさんはいわゆる”よそ者”ではなく、
北野神社の田遊びではもがり上にいてもおかしくない人だったので、”子供の頭をなでる”ことの
度が過ぎた延長線上の行為、と地元の有力者組織間では考えられていたんじゃないかな、と思います。
”徳丸本村”に最初の移民者(他所の人間が土地を購入して住み着く)である、人類学者の石田収蔵が
越してきてから60年も経っておらず、まだムラの空気が充満していた時代でもあったのですかね。

投稿: オーク | 2014年9月28日 (日) 09時32分

レスありがとうございます
いつごろからいつごろまで奇行にはしっていたのかきになります
うちは1981年に引っ越したのでそれ以降はわからないです。

母親も
なめじいさんは大きいお屋敷に住んでいた
といっていました

農作業ついでに子どもをなめていたことはしらなかったので勉強になりました。
私がなめじいさん以外で子どもの頃(就学前) 
徳丸で強烈におぼえていることは、人参畑と公園にきいろい木苺がなっていたことと
小山に雑誌がうん千冊ぐらい落ちててそこでエロ漫画をよんだことです(笑)

投稿: かんくん | 2014年9月29日 (月) 09時40分

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