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2008年9月

NARAへの道。Vol-3

いや~ちょっと目を離した隙に、9月も10日が過ぎてしまいました。雑誌の取材と原稿の方はなんとか納まりました。その成果はまた後ほど公開します。さて、とりあえずは、ほったらかしになっているNARAへの道。の続きを・・

 あまり、ドキュメントとして自分の行動を書いていると、ごちゃごちゃ(最初の頃は環境になれず、試行錯誤する)してくるので、整理して書くことにする。だから時系列的に真実でない部分が出てきますがご容赦を。(嘘は書きませんので。)まず、調査初日。モーテルからNARA(米国国立公文書館新館)までは、地図で確認すると約3キロくらいなので、歩けなくもない。初日だし、バス停もわからないので、道順を把握するために歩こうと思って出発したが、途中道を間違え(方向を間違えた)てしまい、結局タクシーを使った。タクシーは、へとへとになってバス停でボーっとしていたら、声をかけてきたのでそれに乗った。メーターはちゃんと付いていた。乗った場所がどこだかわからないが、モーテル付近から乗ればNARAまで10ドルくらいだろう。(所用15分くらいか?)

582 では一番負担にならない、バスで行く方法について説明しよう。東西南北の方向が今一把握できない(google地図では表示がない)ので、別窓で地図を表示し、それを見ながら読んでほしい。まず、モーテルを出て、Baltimore AveをUniversity Blvdの方角にむかうが、University Blvdは車専用道路であり、交差した所にはバス停はない。だから、R3のバス停へ行くには、Baltimore Aveの左手の住宅街を抜けた所にある、Rhode Island Aveに出て、University Blvdの方角へ歩く。15分くらい歩くと、University Blvdにぶつかるところの左手にバス停がある。

584 バス停には名前が表示されておらず、小さくR3と書いた看板があるのみだ。(横の写真)バスの時刻も表示されていないが、出発点のGreenbelt St.から7~10分でこの停留所を通過する。時間は割と正確なので、後に時刻表を手に入れれば(時刻表には代表的な停留所の名前と通過時間しか記載されていない。)予測することが出来る。上の写真はバス停に立ち、右を向いて撮った写真、歩いてきたRhode Island Aveの表示が見える。表示下の道路は、交差するUniversity Blvd。

579 左の写真は、バス停の正面を向いて撮った写真。セブン・イレブンが見える。バスは、日本と同じで、乗ると料金箱があるので、現金で払う(1$25C)かSmart Card(パスネットと同じ。駅などで購入する。1枚10$で、8回乗れる)を機械にかざす。アメリカのバス停の名前は、道路の名前を冠することが多く、このバス停の名は、Rhode Island Ave and University Blvdだ。降りるときは、バスの運転席の後ろの電光掲示板に表示される。が、省略して表示されるので最初はとまどうかもしれない。案内テープで放送もされる。

406 バスは停留所を出てすぐに車専用レーンに入るので、しばらくはバス停はない。R3バスは、1時間に2本間隔で運行され、8時45分くらいに来るバスがNARA開館時間に都合が良い。ただし、カフェテラスがもっと前から開いているので、早く行って朝食をそこでとるのもいいかもしれない。ただし、アメリカの物価は高いので、毎朝カフェテラスでとるのはコストパフォーマンスが悪い。日本みたいに3~400円台で済むなどありえないですね。バスは自動車専用レーンを降りると、緑に囲まれた住宅街に入る。野リスや野ウサギが出てくる。

413 やがて、NARAの看板が見えてくる。バス停の名もArchivesだったかな。アナウンスがあるので、ひもを引っ張って停車を知らせる。所要時間は10分ちょっとかな。広い道をガンガン飛ばすので思ったよりも早く着く。バスはそのままNARAの敷地に入り、検問所を越えて建物の玄関前で停車する。が、これは運転手の好意で停車するので注意が必要だ。本来のバス停は、玄関前の車寄せを通過し、検問所の方へ少し戻った所にあるのだ。日本のようにきっちりしてはおらず、アバウトなところがアメリカらしい。

377 左の写真が、Archivesのバス停からNARAの建物を撮ったものだ。りっぱな建物で、よし、調査を始めるぞ!と思わず身が引き締まる。NARAへはワシントン市内にある本館からのシャトルバスでも結ばれている。それについては他の方が解説しているページがあるので、そちらを参考にしてほしい。

R3バス車内から撮影したNARAへ到着するまでの動画(約8分)をYouTubeにUPしましたので、ご覧下さい。

さあ、次はいよいよ調査開始だ!! 以下No-4へ。(まだ引っ張るのかよ)

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NARAへの道。Vol-4

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いよいよNARAでの調査編へ。文章の段落が変ですみません。写真をうまく配置したいのですが、レイアウトのやりかたがいまいちわからないのです。
 
 まず、正面玄関のガラス扉を入ると、空港のようなシステムでセキュリティチェックをうけます。荷物はX線検査台へ、人間は探知機を通ります。NARAへ調査に来る人たちは、大きな旅行ケースを引いてくる方がいるのですが、そのケースの中にはスキャナーなどの機材がぎっちり入ってます。玄関の横に車を横付けし、A3の用紙をスキャンできる大きなスキャナーを何台も降ろしている数人のグループがいましたが、公文書の複写を委託された業者と見受けられます。ゲートを通るとき、持ち込むカメラなど、機材の登録書の提示を求められます。(このことは後にふれます。)初めて訪れた時には、入館カードを作らなくてはならないので、初めてきた旨を伝え、検査コーナーを出た右手のインフォメーションセンターで、登録手続きを行います。まず、受付でResearch Cardの登録をしたいと申し出ます。すぐに、近くに並んだパソコンへ行くように指示され、パソコンで、NARAの利用システムについての理解をします。(わからない場合はどんどんページを飛ばせばよい。)最後に、名前や住所、研究目的などの必要情報を打ち込み、終了ボタンをクリックしたら、カウンターへ行き終わったことを告げます。そうすると、カウンターに設置してあるデジカメで顔写真を撮られ、約5分後にカードを受け取ることが出来ます。(一番左の写真・モデルは板橋区観光キャラのリンリンちゃん。)カードは一年間有効で、ワシントンの本館でも使用できます。登録料は無料。日本の公文書館は診察券みたいなペラペラの紙ですが、さすがアメリカ、プラスティック製の堂々としたカードです。
 
 次は、機材の登録を行います。それは、インフォメーションを出た所にある、また別の、中にガードマンのいるカウンターへ行きます。本当は写真で説明できれば見せやすいのですが、撮影しようとすると、館の外観であっても注意を受けるので、なかなか写真が撮れないのです。全面的に撮影禁止という警告は示されていませんが、やたらに撮影はできないようです。ただし、事前に了承を得た場合は撮れるようですが。(部屋の中の写真は許可を得てます。)カウンターで、持ち込む機材の名称やシリアルナンバーを、EQUIPMENT RECEPT と言うフォームに記入して貰います。入館の際には入館カードと共にこの紙をガードマンに見せます。私の場合は、複写用一眼デジ、メモ撮影用コンデジ、電子辞書、ノートパソコンでした。ここで先程の話に戻りますが、NARAでの調査は、基本的に文章資料の調査がメインとなります。公文書は、基本的に複写が許可されており、各フロアのコピー機で自分で行います。コピー料は一枚5セントだったか非常に安い金額です。大量にコピーする場合は、レンタル料を払えば(一日15ドルくらい?)コピー機をまるごと借りられます。移動式なので、自分の席の側に置けます。それと、自分でスキャナーを持ち込むケースが多いですね。時間はかかりますが、写真も文章も無料で取り込めるので、これが一番おおいのでしょう。コンセントも一ブースに四つついています。電圧は日本より若干高めですが、日本の電化製品は国際(アメリカ)規格で作られているものがほとんどなので、そのまま使えます。それと、参考資料などを持ち込むときは、その印刷物にハンコを押して貰います。これは、資料の持ち出しを防ぐための処置で、バラバラの紙は一枚一枚押すのが大変なので、まとめてホチキスで止められてしまいます。メモ用紙も部屋に用意された紙を使います。ここまで終わったら地下一階のロッカールームへ行き、不必要な荷物を預けます。持ち込めるのは登録した機材と貴重品のみで、筆記具などは持ち込めません。

 さて、いよいよ公文書館の調査ルームに向かいます。入り口は一階のフロアにあります。ここにもセキュリティーがいるので、Research Card を渡します。カードをパソコンでチェックし、持ち込む機材の確認を受けます。(EQUIPMENT RECEPT フォームと照らし合わせる)様々な人に広く開放しているので、逆にチェックは非常に厳しいのです。撮影が厳しいのも、どんな人間が入り込むかわからないからでしょう。そこを抜けると、やっと各フロアへ行くエレベーターがあります。横には売店があり、TシャツなどのNARAグッズが購入できます。建物の構成はだいたいこうなっています。五階ー写真類、四階ー動画フイルム・音源、三階ー空中写真など、二階ー公文書類。
今回の目的は写真の発見ですので、最初は五階へ向かいます。エレベーターを降り、ガラスで仕切られたルームに入ります。(写真・左から三番目)机は四人がけですが広々としています。机の中央にあるのがコンセントです。部屋には複写台も設置してありましす。(四番目)ただし、電球の光のオレンジ色がきついので、ポジ撮影には向いていません。モノクロか、デジカメで複写する方がいいです。それと、日本では見たこともありませんでしたが、コピー機ならぬ、スキャナーも設置してありました。(五番目)でも、料金は一回8ドルもします。臨時で使うにはいいですが、ちょっと高すぎですね。なるほど皆、旅行ケースで持ち込むわけです。スキャンデータはプリントでも、各種カードにデータ保存でもできます。

 さあ、いよいよ調査の開始です。どんな写真が発見できるか、ワクワクしますね。調査方法は、ルームにいるアーキュビストにアドバイスを求めます。別に英語が出来なくても、目的意識がハッキリしていれば大丈夫です。こうこうこういう写真を探していると身振り手振りで必死に伝えましょう。向こうもプロですし、似たような目的で訪れる日本の研究者も少なからずいるので、事情は察してくれます。一番良いのは、サンプルの写真を持っていき、こんな写真を探していると伝えることです。
まっ、しゃべらなくても、探す方法はあります。写真は、国会図書館などでおなじみの、図書カード方式でも分類されており、それらは様々なカテゴリーにわかれ、A~Zの頭文字で検索できるようになっています。(下一番左の写真)なあんだ簡単じゃん。と、思ったあなた。そりゃとんでもない話ですよ。びっちり英語で書かれた数十万枚のカードを確認して目的の写真を探し出す、それは正に砂漠に落としたコンタクトレンズを探すような作業・・ただでさえ、時差ボケで(日本とワシントンは13時間・完全に昼夜逆転)意識が朦朧となるのに・・この地獄の作業を地道に行った者だけが、成果という甘い果実を手に入れられるという訳なのです。

381_2352G01_2566_3567_3 さて、目的の写真の目星がついたら、REFERENCE SERVICE SLIP と言うフォームに必要事項を記入して、アーキュビストに渡します。写真は一枚ではなく、その写真が混じっている一連の何十枚、何百枚と入ったBOX単位で出てくる。貸し出し可能なBOX数は、個数ではなく、写真のワゴンに乗せられる量です。だから、BOXの大きさによってまちまちなんですよ。最初のうちは状況がわからないので、アーキュビストに相談するしかないですね。フォームの書き方がわからない場合は、最初はアーキュビストさんにサンプルを書いてもらおう。それを見ればどう記入するかは理解できる。
ここで注意を一つ。貸し出し請求が出来るのは、10時、11時、1時30分、2時30分だ。請求してからBOXが出てくるまで10~20分かかる。出てきたワゴンのBOX群から目的の写真を探し、複写し、キャプションを取り、返却し、また次に借り出すBOXを探す。この作業を効率よくこなすのはなかなか大変だ。2時30分の回のBOXに目的の写真が入っていなく、すぐに検索を終わってしまうと、そこでその日の調査は終了となってしまうのだ。(水曜日~金曜日は3時30分にも請求できる。)三番目の写真は、GHQが撮影した東京だけを纏めたアルバム。ページをめくるとこんな風になっている。(四番目の写真)どこかで見たような写真がたくさん入っていますね。この中に、占領された成増飛行場を飛び立つ米軍機の写真が入っていました。

ちょっと長くなったので、続きはNo-5にて。

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衝撃☆ときわ台駅と中板橋駅が廃止される。(かもね)

Pic20 最近、飛躍的に当ブログへの訪問数が増えていたが、ようやく落ち着いてきたようだ。そこで、あきられないようにわざとセンセーショナルなタイトルをつけた・・わけでもない。原稿も納まったし、秋っぽい陽気になったので、日頃愛用している前野町の癒し処・さや湯へ行ってきた。風呂上がり、コーヒーを注文し、日本庭園を眺めながら、先月話題に上げた東上線の高架化について、うつらうつらと思い返してみた。

 実は、前回土地の有力者から聞いた話しの中で、そんな莫迦なことはないと思い書かなかったことがあった。まっ、酔っぱらっていたので、聞き流していたこともあるけど。それは東武鉄道側の立場についてのことで、あの回では、東武鉄道は金のかかる高架化に賛成するワケがない、とだけ書いた。しかしながら、実際に書類で確認をしたことはないが、大山駅付近と、ときわ台駅付近は、東京都の中で、交通混雑解消の為の対策を、早急に必要とされる地域に指定されているという。加えて東武鉄道は踏切事故が多く、当局から目をつけられてもいる。だから、金がかかるという理由だけで突っ張る訳にはいかないし、鉄道事業免許の権限を持っている国土交通省も黙っちゃあいないだろう。で、東武鉄道は何を考えるか・・もし高架化に着手するなら・・それは当然、効率を良くしコストを下げる事ですね。そう、そこで出てくるのが、駅の統合だ。地図を見ながら考えてみよう。ときわ台駅と中板橋駅間は、地図で目測しただけだが、400メートル弱である。これは、駅間としてはとても短い。直線でもあり、お互いの駅は目視でもよく見える。さて、どこに新駅を置くか。中間をとって、環七の直上だろうか。イメージとして、新河岸川上にある埼京線の北赤羽駅に近いかもしれない。東武鉄道にとって、駅が一つ減れば運営コストも減るし、ダイヤにも余裕ができる、という訳だ。準急が止まるなんてこともあるかも知れない。
 さて、駅の長さを200メートル弱とすると、ときわ台駅の東側の踏切へも中板橋駅の方へもそれぞれ100メートルくらい足りない。じゃあどうするのか・・そこで、駅構内商店街で繋げる、というプランが登場するんですよ。高架ホームの東西両端部分の下を商店街化する・・まさにウルトラ夢想プランだ。当然だが、特に中板橋駅付近の既存商店街は反対するだろうが、商店街と競合しない店舗はいくらでもある。駅が今までよりも遠くなってしまう住民も多いけど、逆に便利になる住民もいるので、そこらへんはどう決着がつくかですね。しかし、今までの駅の場所を考えれば、反対の声の方が大きいだろうなあ。駅名でも揉めそうだし。(石神井川駅にしちゃうとか。)
それともう一つ、大山駅も移動するらしい。大山駅ホームは、急カーブの線路に沿っているため見通しが悪く、車両数が少なかった時代にはあまり問題はなかったが、現在では、欠陥構造の駅となっている。そこで、高架化のあかつきには、カーブの終わる、例の拡幅予定の旧川越街道上の位置に動くと予想されるのだ。

以上は、私の妄想ではなく、あくまでもうわさ話だ。でも、庶民の知らぬどこか雲の上で交わされていることかもしれず、いずれは下々の元に降りてくるかもしれない。

You TubeにSuzugenさんがupした中板橋駅〜常盤台駅間の動画がありましたので、貼らせていただきます。Suzugenさんに感謝。

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NARAへの道。Vol-5

178_2G615_2199_2 ちょっと目を離した隙に、秋分の日になってしまいました。今日はNARAへの道を完結させます。

写真の検索については、Vol-4で触れましたね。保管してある写真は経年劣化が進み、印画紙がカールした状態の物も多く、複写は困難です。ガラスの加圧板を日本から持参しましたが、使用は認められませんでした。スキャナーが許可されるなら別にいいではないか?同じ事ではないか?と思いますが、ダメな物はダメなようですね。複写のライト光はオレンジ色が強いので、デジカメを使う方が良いでしょう。進駐軍のアルバムの様に、厚みがあってスキャン出来ない場合もあり、その時はカメラを使うしかありません。
 次は4階の動画・音源ルームですが、ここも基本的には写真と同じで、膨大なカードの中から目的の動画を探し出します。基本は35ミリのフィルムで、Motion pictureと呼び、ビデオ化された物もあります。機械には自分で装填しますが、不安な場合は係の方が教えてくれますのでご安心を。驚くことにダビングは自由(もちろん個人使用に限りますが)で、小型ビデオカメラを持参してビデオデッキに繋げればOKです。フイルムも、画面をビデオカメラやコンパクトデジカメの動画機能を使って撮影している人もいました。試しに終戦直後に東京で撮影されたフイルムを何本か借出して観ましたが、撮影場所が特定出来ないものがほとんどでしたね。(私の知識が足りないこともありますが)
 3階では空中写真の閲覧が出来ます。写真は、六つ切りくらいの大きさのネガのコマが連なったロール状になっており、専門の機械で閲覧します(一番右の写真)。空中写真を検索するには、まず、経度緯度別になっている、空中写真撮影経路図が写し込まれているリールフィルムで確認します。(真ん中の写真/経度・緯度別のリールが棚に納められている)これがなかなか難物で、マイクロ閲覧機に入れて目的場所がどこら辺なのかの検討をつけ、日付別になっている該当の写真が入っているであろう本リールの番号を探し出し、請求してから中一日後に閲覧が可能になる仕組みになっています。これは、ネガの保管場所が他にあるからで、係の人間が、朝10時に請求されたフィルムを持ってきた時に、次のフィルムの申請書を持ち帰るからです。パソコンかFAXでやり取りすれば早いんじゃないの?と思うのですが‥‥。空中写真ネガの閲覧機への装填は単純です。カメラにフィルムを入れる感じかな。複写のやり方だけど、デジカメでできます。あとで写真ソフトで画像を反転させればポジ画像になります。ただし、だいぶ手間をかけなければちゃんとした写真にはなりません。そこらへんのテクニックは自分で努力するしかないですね。注意する点は、複写するフィルムに天井の蛍光灯が映り込んでしまうことで、閲覧コーナーの部屋の電気は消す事はできません。昔の写真屋のように布で覆えばいいのですが、中で何をしているかが見張りのアーキュビストには見えなくなるので、許可されません。閲覧機は可動式なので、蛍光灯の影響の受けない位置を探しましょう。それと、ネガはカールしているので複写は大変です。本当に欲しい部分は、請求して業者に紙焼きしてもらったほうがいいかもしれませんね。値段や期間については、調べてません。近年、国土地理院では、戦時中に撮られたNARA所蔵の空中写真をすべて複写し終え、順次、公開&販売するそうですが、整理されるのはまだ先のようです。

222225234 さて、いよいよ2階・文書資料コーナーです。ここが、いわばお宝の眠る場所で、ほとんどの研究家がこの部屋で調査を行います。写真類なども、先にあげたフロアのものは、手垢のついた(誰かがすでに調べ、発表している)ものが多く、いわゆる歴史に埋もれた真実を探すのは、この部屋にかぎります。例えば、上の真ん中の写真ですが、沖縄作戦に参加した艦船の戦闘報告書の中に、肉薄する特攻機の写真などが納められています。日本で出版される関連本は、これらの資料を参考に編集されたものですが、事実は一つでも、その解釈は筆者の意図の数だけ存在します。しかし、どんな解釈も、当時に書かれた報告書の生々しい迫力には及びません。また、公式に発表されたこととは違う、真実そのままの姿を資料から読み取ることが出来るでしょう。興味のある人間にとっては、不謹慎な言い方ですが、至福の時間を得られるのではないでしょうか。

 今回は、成増飛行場の接収やグラントハイツの建設、歴代の司令官、啓志線の建設経過など、日本では未調査のことを突き止めたかったのですが、文章資料に割ける時間が一日しかなく、さしたる成果はあげられませんでした。また、いつか訪問する機会ができればいいのですが‥。これらの資料を閲覧するには、大学の研究員であるとか紹介者が必要だとか、特別な資格や肩書きなんか必要はありません。この場所に来れば良いのです。もしも、時間と余裕のある方がおられれば、というより、時間や余裕を作って調査をしてみたい、と思う方がおられれば、是非、このNARAシリーズを参考にして米国国立公文書館新館へ出向いてみて下さい。必ず、知的好奇心を満たすことが出来るでしょう。そして、調査をしたら、その成果をどこかで発表してくださいね。あなたの報告を待っている方はたくさんいますから。

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伝説の人

33 祝!8000ヒット。これもひとえに皆様方のおかげでございます。これからも精進してゆきますのでご支援の程よろしく。
 まったり進行だったこのブログが、いろいろな掲示板で紹介されて飛躍的にアクセス数が増えたことは、以前に触れました。この間、そんな掲示板の一つを見ていると、わが故郷、徳丸一帯で伝説となっていた人物、あの通称”嘗めじいさん”の話題が上がっていた。もう、30年以上も昔のことなのに、いまだに話題にのぼるのは、そのインパクトがあまりに強烈だったからだろう。
カミングアウトするが、実は、私も嘗めじいさんになめられた経験を持つ子供の一人だった。当時、こんなことが知られたら、バイキンとかエンガチョとか呼ばれ、いじめにあっていたに違いないので、嘗めじいさんになめられたときは、本当にショックだった。じいさんは、農作業に出かけるとき、子供の背後からいきなり抱きついてほっぺたをベロリとなめる。良い解釈をすれば、子供が好きでたまらず、今で言うならほっぺたフェチだったのだろう。もちろん、現在なら即、逮捕されるに違いない。大人になった今では、あの嘗めじいさんがどこに住んでいて、何という名前だったのかは知っている。じいさんは先祖代々農家を営む徳丸の旧家の人で、息子さんが今90歳半ばだから、明治20年代くらいに生まれた人だろうか。じいさんが警察に捕まらなかったのは、当時の交番は住居も兼ねていて地域との交わりが濃く、さらに旧家の人間でもあり、人物像も地元の間で広く知られていたからだろう。”ちぇっ、あそこのじいさんは仕方ないな、耄碌したかな”くらいにしか思っていなかったんだろうなあ。それでも、住宅がどんどん建ち始め、新住民も増えていた時期だったので、苦情はかなりあったのではと推測される。当時、週刊少年ジャンプ誌上では、永井豪が自分の出身母校である板橋高校をモデルにした「ハレンチ学園」を連載し、全国のPTAを敵にまわしていた。ちょうど、PTAという学校の父兄会組織が社会的に有名になってきた頃であったのだ。‥そして、じいさんの姿は、いつのまにか見かけなくなっていた。

子供達は、荷車を引いたじいさんの姿を見つけると”嘗めじじいだあ~”と囃したて、逃げたり、追っかけたりしていた。そんな日本昔話みたいな風景があった。私は、なめられてあまりにショックを受けたせいなのか、今でも、野良着で腰に手ぬぐいをぶら下げた嘗めじいさんの姿を、まざまざと思い浮かべることが出来る。いやな思い出だったが、じいさんのおかげで、今は滅んでしまった根っからの徳丸の農民の姿を、脳裏に刻むことができたのかもしれない。

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