« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

「新幹線大爆破」における板橋区のイメージについて

Syun_126img600x4451205202497vrtb001 毎日暑い日が続きますね。。夏休みに入ってこの方、宿題の参考にするのでしょうか、ありがたいことにこの板晴ブログのアクセス数も増えているような気が致します。その割りに最近更新が少なくすみません・・こんなブログでも書くときは裏を取るためいちいち調べながら書いたり、関係資料の準備に手間がかかるもんでつい・・。やっぱりね、タイトルに反してハードルを高くしすぎなんだな。もっと気楽にコラム風に書くことにしよう。

 というわけで、今回は板橋区のイメージについての私的考察。さて、板橋区のイメージってどんなものなんだろう。まあ、当然人によりけりだけど、東京23区人気アンケートなんかでは住み良さでは上位に入っている。ただし、イメージでは下位の方だ。残念ながら人は優劣を外見で判断しがちであり、内実が良くても、イメージが悪いとなんとなく人気がない地域なんだな、と思ってしまう。それは不動産価格にも顕著に現れる。板橋区内には”成城石井”などの高級スーパーもないし、出店されることもないだろう。覚えている方もいると思うけど、昭和50年代半ば、今は無き週刊誌:週間宝石が火付け役となって、東上線はダサイ(板張りのカステラ電車への中傷など)というネガティブキャンペーンが執拗に繰り広げられた。それがあちこちに飛び火して数ヶ月間話題となり、ついでに板橋区のイメージもいちじるしく低下してしまった。板橋区は東上線の通る”ダサイ”地域だと。
 私は公言している通り、趣味が板橋区であり、日々板橋区のことについての情報を見聞きするようにしている。とりわけ、社会に影響を与える存在である、著名人による言動には興味があるので見つけ次第、収集している。そこから浮かび上がってくることといえば・・まず、目に付くのは、板橋区で不遇な時代を過ごしたことに対しマイナスイメージを持っている場合。寅さんで有名な渥美清がそうですね。親の事業が失敗して”都落ち”し、病気がちで貧乏でろくに学校も行かなかった、なんてパターン。俳優の江守 徹とかもそうですね。あと、若いときに上京してきて一番貧乏で苦労した時代を過ごしたことがイヤな思い出としてある、なんてパターン。ためしてガッテンの立川志の輔 とか女優の渡辺えり子とか(正確には下赤塚駅に近い田柄だけど)他もろもろ。イヤとまで書かないけど、苦労した時代を過ごした思い出を持つ人は、日本画家の平山郁夫とか漫画家の北見けんいちなんてそうですね。まあ、板橋区関係の著名人をあげていくとキリがないのでこのへんで。

 さて、ここでそんな板橋区のイメージにぴったりとはまる映画を紹介しよう。松本清張の「砂の器」も有名?(あれは志村坂上がちらっと出てくるだけですね)だけど、その映画とは、今から33年前に公開された東映制作「新幹線大爆破」だ。何と言っても出演者が豪華。ざっと上げるだけでも、高倉健 、宇津井健 、千葉真一、小林稔侍、志村喬、丹波哲郎、渡辺文雄、黒部進等々、すごいメンバーだ。公式のストーリーはこうだ。<東京発博多行の「ひかり109号」に爆弾が仕掛けられた。その爆弾は「時速が80キロ以下になると自動的に爆発する」という恐るべき物であった。やがてデモとして仕掛けられた貨物列車が爆発脱線し、爆弾の存在は疑いが無くなる。大捜査線を展開する警察、爆弾解除を試みる国鉄、事実を知らされ騒然となる109号の1200人の乗員乗客達。博多に到着する12時間の間に事件は解決するのか?そして、犯人達の狙いは一体何なのか? 東映がパニック映画ブームに果敢に挑戦して高い評価を受け、海外でも大ヒットを記録した一本。>後のキアヌ・リーブス主演映画「スピード」の原型となったといわれてますね。はて?これのどこに板橋区が?ということだけど、この映画は単に新幹線が中心のパニック映画、じゃないんですね。でなきゃあ犯人役の主人公が高倉健のはずがない。裏のストーリーはこうだ。<オイルショック(1973年)により高度成長が終わり、その余波がまだ残っていたとおぼしき時代。学生運動に挫折した古賀(山本圭)、沖縄から上京してきたものの、仕事がうまくいかず、血を売ってその日暮らしをしていた浩(織田あきら)、そんな彼を救い上げ面倒を見始めたが、自分が経営する町工場も倒産し、女房子供とも別れてしまった中年男、沖田哲男(高倉健)。人生の敗残者である3人には、いつしか友情めいた連帯感が生まれた。社会の負け犬たちが寄り集まり、起死回生を求めて彼らが狙ったのが、高度成長の象徴の一つ、新幹線なのだ。>社会に対する恨みが犯行の動機といえばそうなんですが、むしろ体制への反抗という、アメリカン・ニューシネマ(ラストで警官隊に撃たれるところなんか特に)の影響が色濃い作品とも言えますね。
そう、”社会の負け犬たちが寄り集まった場所”それが高倉健の経営する板橋区志村(映画の設定では)にある町工場なんですね。映画では工場は河の近くにあり、志村ではなく新河岸川のそばといった感じだ。犯人側の胸の苦しくなるような人生描写しかり、都営地下鉄6号線(現在の都営地下鉄三田線)の志村車両検修場構内で繰り広げられる、犯人グループの古賀と警察官の大追跡も見応えがある。(構内にはあのなつかしい6000型の車両がずらりと並んでいる。)結局古賀は追跡を振り切り、逃げ込んだ滞在先がなじみのホステスの安アパートで、映画の場面をたよりに住宅地図で探してみると、蓮根駅近くにそのアパートは実在していた。(もちろん今は無いと思いますが。)その他、随所に、もう見ることの出来ない、33年前の板橋の風景が出てきて楽しい。まあ、くやしいのだが、犯人達の背負う悲しみを引き立たせる舞台として、これほど似合う場所は板橋区の他にはないですな。今の勝ち組・負け組で分けてしまう社会風潮を思いつつ、夏の夜長を過ごすにはグー、な一本ですよ!!

*最新の学説によると、板橋という名は石神井川にかかる板の橋からきたのではなく、台地の端の意味からきているとのことらしい。端には、いろんな人生が吹き寄せられてくるのだろうなあ・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

成増飛行場の特攻隊

1152311115231 今日は63回目の終戦記念日ですね。正確にはポツダム宣言(無条件降伏)を受け入れることを、昭和天皇が国民に向けて表明した日。本当の戦争終了は戦艦ミズリー上にて行われた降伏文書調印式の日(1945年9月2日)ということになる。

 今回は終戦記念日にちなみ、特攻隊について書いてみる。成増飛行場にいた陸軍特攻隊は、47戦隊内から選ばれた空対空特攻「震天制空隊」が有名だけど、その他に、対艦特攻隊「振武隊」の編成や訓練が行われていたことはほとんど知られていない。図書館で練馬区発行の区史とか郷土史を探しても、彼らについて記述された本は皆無に等しい。まるで意図的にそうしているかのようで、情報に触れる機会がなければ、そのことについて気が付くことも調べることもできない。役所に問い合わせてみても、知りませんね~と返されるだけだろう。まあ、名誉のために書いておくけど、練馬区では終戦40周年のころに聞き取り調査などを行い、それを元に何冊か上梓した。だけど、それは調査したうちのほんのごく一部に止まってしまった。本の内容も戦争で被害にあったことや、学童疎開でさみしい思いをしたことなど、庶民の恨み辛みや苦労話しが中心である。残念ながら、それ以降は目立った調査活動はないようで、興味を持った場合には独自に調べていかなくてはならない。しかし、自分で調べようにも、区内の図書館にそのような資料が置いてあることは無いし、神田の専門書店で関連本を探すにしても高価な出費を強いられることになる。またどんな本があるのかの情報を得ることも大変な作業だ。それでも、その困難を乗り越えてこそ、真の探求者なのである。・・といった壮大な前フリの自慢話はここまでとして、本題に移ろう。

 調査において一番信用のおける資料は公文書だけど、戦時中の資料は処分されたケースが多く、当事者の証言が記された記録を調べるしかない。陸軍特攻隊については、昭和50年代に出た「陸軍航空の鎮魂 正・続・総集編」や朝雲新聞社からシリーズで出ている「戦史叢書」が基本で、あとは靖国神社で発行されている書物をいろいろ読みあさることから始めるといいだろう。もちろん、これまでに発行されたあまたの戦記本も。さてそんな中から情報を引っ張り出したところ今までにわかったのは、明野教育飛行師団編成担任/第二二・四八・四九・五一・五三振武隊、第三十飛行師団編成担任/下館編成第一七九・一八◯振武隊[以上、特攻作戦参加]、第三十飛行師団編成担任/第一八三・一八四・一八七・一八八・一九三・一九四・二三一振武隊[以上、四七戦隊編成担当・待機中終戦]である。
このうち計46名の若者の尊い命が、沖縄の海に散った。また、訓練中に事故死された方もおられる。各々の振武隊についての詳しい情報も判明しつつあるのだけれど、それは今後のお楽しみに。ええ、金と時間をかけて苦労して得た情報ですから、出し惜しみするのはあたりまえですっっ。
まあ、せっかく当ブログに来ていただいたので、どうしてもすぐに知りたい人向けに、参考資料の紹介をしておきましょう。実は、成増で訓練を行い特攻出撃した振武隊はけっこう有名で、知覧の特攻おばさん、富屋食堂の”鳥浜トメ”さんを描いた「ホタル帰る」にエピソードが出てくる。この本は大きな書店に行けば手に入るだろう。それと、東京都知事の石原慎太郎氏が同じくトメさんを取材して書いて映画化された「俺は、君のためにこそ死ににいく」。この映画は物語を作るため脚色されているので、史実とはちょっと違うけど、取り上げられたほとんどのエピソードは、出撃まで成増で訓練(一ヶ月~二ヶ月)を行っていた部隊の話だ。日本人として散る道を選んだ朝鮮人特攻兵・光山少尉も、成増で訓練を積み、死への覚悟を決めた一人だ。陸軍機は航続距離が短いため、最終的に前線の基地から特攻出撃をする。そのため、知覧や都城ばかりがクローズアップされてしまう。振武隊員達は、前線基地への移動命令により、死への決心をせざるを得なくなるが、後方基地で過ごす日々は、実際の突入訓練もさることながら、死への準備期間でもあった。その訓練の地であった成増飛行場では、多くの隊員が悩み苦しみながら過ごしていたのだろうと思うのですよ。

 成増編成の特攻隊に使われた飛行機は、主に中島キ四三(隼)中島キ八四(疾風)だったけど、他に、変わった飛行機を使用する隊がいた。それが写真の第二三一振武隊だ。この隊は自殺機として名を残すことになる中島キ一一五(剣)を使用する予定だった。キ一一五は爆撃機として昭和二十年一月に試作指示が出され、わずか二ヶ月後に試作機が完成した。資材不足の時期に作られたため、機体構造も簡略化され木材やブリキで製作されており、離陸時に主脚は投棄され、着陸は胴体着陸で行う仕様となっていた。機銃も爆撃用の照準機も搭載しておらず、また、機体も胴体着陸には耐えられない強度であったため、爆撃機といいながら、これはもう特攻専用機といわれても仕方の無い代物であった。昭和二十年五月十三日、第二三一振武隊長として成増に赴任した郷田克中尉は飛行場の南にピストを貰い、九九軍偵や九九高練で、自らの計画により特攻訓練を始める。写真は訓練中、成増飛行場近くに不時着した九九高練。尾翼が破損していてマークがよくわからないけど、四七戦隊で使用している機のように見えますね。訓練は八月初旬まで行われ、その後、館林に移動し終戦。この時までキ一一五は審査を通らず、実戦には使用されずに終わった。

もう戦争が終わって60年以上経つけど、8月15日くらいは戦争のことを考える日にしましょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

狙われた板橋区。

0151015201500159  お盆を過ぎて、いくぶん涼しい日が増えましたね。夜も虫の音が大きくなってきたし。季節は粛々と秋に向かっているようで・・そこで、がんぱって新規の記事をUPしましょう。

 ええと、お題は今回も引き続き戦争シリーズで。まだ8月ですしね。掲載の写真地図は、東京地区空襲の際に米軍爆撃クルーが所持していたものと思われるもの。ターゲットは成増飛行場を中心とした地域だろう。数年前に手に入れました。よくぞ私の手元にきたなあ・・しみじみ。と、感傷にふけっている場合ではないですね。
フイルム端の記号を読み解くと、13-DEC の文字が見えるから、1944年12月13日に撮影された物と推察される。B-29爆撃機による写真偵察が始まったのが11月1日、東京空襲が本格的に始まったのが11月24日から。初期の頃は武蔵野市にあった中島飛行機エンジン工場が空襲のターゲットで、1945年2月以降、あの鬼畜ルメイにより隅田川河口部や、東京湾岸地域、荒川周辺の工業地帯への低空焼夷弾空襲が行われるのだ。
よく、都市部への無差別爆撃、なんていわれるけど、これはまあ間違ってはないが、米軍は一応ちゃんと爆撃目標は定めていた。その第一が中島工場で第二が隅田川河口部だ。空襲初期の頃は、高々度から精密爆撃を行うということだったが、B-29の本格運用も始まったばかりで技術が追いつかず、また、東京上空の冬場の気象条件の悪さから目標を外すことの方が多かった。天候が悪く、目標地域が目視出来ない場合はレーダーにより爆撃を行ったが、これも正確ではなかった。そして、帰途の燃料を確保するために、積んだ爆弾はすべて投下しなくてはいけない。もちろん海に投棄するなんてことはせず、東京上空で適当にバラ蒔いたというわけですな。実は、東京都内の被害は、こうした爆弾によるものが多かったりするんですね。だから、精密にやろうとしたけど無差別になっちゃった空襲と言ったほうがいいのかな。後半は計画的な無差別空襲ですね。どっちにしろ、犠牲になった人々は悲惨ですが。
 
 板橋区が被害を受けた空襲は20回(板橋区平和記念マップ参照)ありますが、明確に空襲の目標となったのは、2月16・17日、4月13~14日、8月10日の3回。あとは他地区のとばっちりを受けてしまった空襲です。もっとも、作戦命令書を精査したわけではないので、今後新たなことがわかってくるかもしれませんが。掲載した写真地図は、よく見るといろいろ書き込みがなされている。成増飛行場は、滑走路部分に”TAKAMATSUCHO AIRFIELD”と記載されてますね。この時点ではまだ米軍は正式名称を把握していないことがわかります。作戦命令書にNARIMASUが登場するのは、2月16・17日の米機動部隊艦載機群による攻撃から。これは、硫黄島上陸作戦支援のために関東地方の陸海軍飛行場をたたくことを目的とされた計画で、1945年の早い時期には、つかまえた捕虜などからNARIMASUという情報を得たのだろう。地図上にはSPARSELY SETTLED AREAS、訳すと”人家の少ない場所”、なんて記載がある。推測だけど、緊急時に落下傘で飛び降りる場合の目標なのかもしれませんね。
この日は艦載機の来襲で、周辺民家もずいぶん機銃掃射の被害を受けたようだ。4月13~14日、8月10日の空襲は、いずれも陸軍造兵廠を狙ったもの。でも皮肉なことに造兵廠自体はあまり被害を受けなかった。特に板橋側は火薬生産が主だったので、工場の回りには爆発事故の被害を防ぐために加賀屋敷時代からの林が残されており、それがカモフラージュとなったのかもしれない。夜間空襲だったしね。その代わり板橋町とか大山あたりが大損害を被りました。一番右の写真は、今週月曜日まで、板橋区役所一階ロビーに展示されていた、8月10日の空襲で被害を受けた工場の写真だ。キャプションによると、現在の三田線・志村三丁目駅近くなので、前に書いた不発弾の発見された場所の近くかもしれない。田圃の土深く突っ込んだため最近まで発見されなかったと聞いていたけど、写真を見る限り、人家はまばらだけど工場地帯だったような感じをうけますね。

 この写真地図でもわかるように、米軍は危険を顧みず、執拗に偵察撮影を繰り返し、情報の収集に勤めていた。いやはや米国恐るべし。それは案外この平和な現在でも変わらないんじゃあないのかな。グーグルマップやストリートビューなんてのも意外と・・ねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東上線高架化の噂話。

Photo 連日ぐずついた天気が続き、夏はどこへ?といった案配ですね。まっ、寒いので熱いコーヒーでも飲みながら、ヨタ話しでもひとつ。

 最近ある土地の有力者と話す機会があり、東上線高架化の話しがチラリと出た。だいたい東上線の高架化なんてことはもう何十年も前から話題になっていたことで、今更ねえ〜。結局、具体化なんてこともなかったし、ただの夢物語と思ってましたよ。ええ。でも今回は、ん?と思った。

 有力者の話しを要約するとこうだ。「東上線は、大山〜ときわ台間が高架化の予定だ。平成25年(2025年だったかな?)に最終結論が出される。」
ふむふむ、なるほどね。6月3日のブログで話題にしたけど、いま、下板橋操車場上に人工地盤を造り、そこに日大病院を誘致する、といった計画が進行しているらしい。高架線は、旧金井窪駅上に山手通りと首都高が通っているため、それよりも大山駅寄りの部分から着手しなくてはならないだろう。この噂ばなしを聞いて思い出したのは、3月26日に取り上げた、大山ハッピーロード消滅危機のことだ。詳しくは該当部分のブログを見ていただきたいが、いま、現在進行形で東京都道420号鮫洲大山線(都市計画路線補助26号線)の建設計画が進んでいる。この道路を養育院側に繋ぐために、一番ネックとなるのが、東上線との交差部分だ。方法は3つ。”東上線の上を通す”、”下を通す”、”高架にする”だ。よく、大きな工場などが撤退したあと、その跡地がどうなるか話題になるが、そんな場合は区役所に問い合わせるのが手っ取り早い。なぜなら、建設や開発には必ず種々の申請が必要になり、その情報は公開されるからだ。東京都道420号については、板橋区役所HP・都市整備部 再開発課 ttp://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/006/006052.html を見てみると、地域全体を視野に入れての開発が進められるようだ。(これだと完成まであと何十年もかかりそう・・)東上線の部分については”鉄道の連続立体化”と記されている。なんだこの連続立体化って?さすが役所用語だ。立体が連続する=高架化のことか?よくわからんなあ。庶民にわかる言葉で表現して欲しい。
たぶん、今まで何十年も噂、あるいは願望でしかなかった高架化の話しが現実味を帯びて感じるのも、この部分をどうするかを切っ掛けとして、具体的に動きだすような気がするからだ。ではなぜ、ときわ台駅間までなのか、それは、上板橋〜成増間には、練馬区側に抜ける道がすでにいくつかあるからだろう(環八とか新大宮バイパスとか)。当然(お金かかるから)、東武鉄道側は高架線にしたくはない(踏切事故がなくなる利点はあるが)はずで、なるべく短距離で済ませたいでしょう。せいぜい、前野町通りを越えたあたりまでと予想する。

しかし、工事は大変だろうなあ。沿線には住宅が迫っているし、大山駅付近なんてどうやって工事するんだろう。ときわ台駅を高架駅にする、なんてことになったら大反対運動が起こるだろうね。特に北口側はインテリな住人が多く、声の上げ方を心得た方々もおられるし。あの駅は、現在、東上線の中で駅創業当時の姿が唯一残っている駅でもあるからなあ。でも先輩の田園調布駅の例もあるし、将来は小金井の建物園にある常盤台写真館とともに移設展示されたりして。

以上、うわさ話でした〜

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NARAへの道。 エピローグ

G55 表題”NARAへの道。”シリーズは、ちょっと板橋区を離れた話題でお送りする。NARAとは6月に訪問した、アメリカ・メリーランド州カレッジパークにある、米国国立公文書館/United States National Archives and Records Administration、(通称NARA)の新館、アーカーイブ2(ツー)の略称のこと。ここには、米国が収集した第二次世界大戦中から占領期にかけての日本に関する膨大な資料が収蔵されており、研究者の”聖地”とされている。

 私はこのブログの趣旨にあるように、板橋区を趣味とする人間であり、自分の気の向くままに資料の収集をしたり、研究をしたりしている。あくまで自主的に、そして自分の関心のある分野を重点的に。そこが、公的研究機関と違うところだ。専門的な勉強をしたこともなく、古文書も読めず、現代の漢字の読み書きすらあやしい。ただし、仕事ではないぶん身が軽い。人事(ひとごと)に惑わされることもないし、時間もお金も使うのは自分自身で決める。だから責任も個人で負う。ま、こんな当たり前の宣言は暑苦しいだけなのですが。
 
 最近「成増飛行場」に関する話題を多く取り上げているけど、それはこんな理由からだ。まず、子供の頃、プラモデル好きだったこと。ウルトラマン世代だったので、自然と軍事関係(怪獣方面には進まなかった。)に関心が向いてゆき、その関係で、秋田書店シリーズなどの本を読みあさった。B公(B29のことね)許すまじ。それが小学生時代。ここで基礎が出来、大人になってもその関心は続いていた。ある時期、ふと自分の家系に興味を持ち、ルーツを調べるため父親に質問をした。その中で、中学(現代の高校生)の時、クソ暑い中、勤労奉仕で成増飛行場の整地作業にかり出された話を聞いた。ああ、そう言えば今の練馬区光が丘は戦時中飛行場だったな、と思い出した。グラントハイツが廃墟になった頃、何度か破れた金網の隙間から敷地に侵入して探検したことがあったが、米軍の基地なんて関心もなかったので、すっかり忘れていた。それから数年後、練馬区の広報誌に、終戦50周年を記念して光が丘体育館脇に”平和の碑”が建てられることが決まり、終戦記念日に除幕式を行う旨の告知が出ていた。そして除幕式の日・・炎天下の中、ふらふらと出かけていき、そこで、当時を生きた人間達に出会ったことが、今日の運命を決めたのであった・・。と後半は省略して書きますが、まあ、そんなワケなんですよ。
その日、全国から集まった47戦隊の戦友会「成増会」の方々は30名くらいだったかな。「成増会」では、当時、ようやく戦隊史を作ろうとしていた段階で、まだ資料も纏まっていなかった。(編集専門で動く人がいなかったことと、中堅達が70代半ばを過ぎており次々と病に倒れ、結局、47戦隊史は未刊に終わってしまった。)その頃、私ごとき無関係な若造が「成増会」に近づくことなんて、恐れ多くてとても出来ることではなかった。しかし、今では何故もっとずうずうしく行動しなかったのだろうかと、反省をしている。その後、わずか数年の間に、中隊長クラスなど中堅の隊員だった方が亡くなってしまったのだ。

 そんなこんなで、取りあえず自分で調べ始めたのはいいんだけど、図書館の郷土史のコーナー行ってもめぼしい資料はないし、自治体は「核廃絶・平和宣言」「憲法九条遵守」などのスローガン一色で、庶民が被害にあった悲惨な戦争が中心として語られるばかり。事実として存在していた軍隊のことなんてまるで”無かったかのよう”な扱いだった。人間は権威に弱いもので、自治体が認めた書物や調査したことしか信じない。専門の研究者によってお墨付きが与えられた歴史、ってやつかな。よっぽど興味を持つ人以外は、そこからこぼれた歴史についてはまったく気がつかないし、自治体が目を背ける物は”なかったこと”とされがちだ。自治体の発行する歴史の集大成である「区史」。あれだけの分量があるのに、そこで取り上げられている歴史はごく一部に過ぎないと思った方がいい。知られざる歴史はまだまだたくさんあるはずだ。
 話しが脱線してきたが、私は、「成増会」の方々からあきらめの気持ちを聞いたことがある。彼らは言う。「戦時中、確かに自分たちは”職業軍人”として戦った。それはもちろん、お国のためにだ。しかし、負け戦となったとたん”無視された存在”になるのはくやしい。それでは戦死した戦友達が浮かばれない。」と。練馬区の名誉のために(この間も同じこと書いたかな?)いっておくが、平和の碑には成増飛行場のことも記載(成増飛行場が存在し、多くの若者の血が流された‥)してあるし、練馬区では調査もしている。(日の目を見た資料は少ない)。まっ、これ以上イデオロギーの問題には踏み込まないことにしますが、ようするに、成増飛行場に関する資料は自分の足で探さなきゃならなかった、というわけなんですね。
 そこでようやく本題”NARAへの道”に続くわけで、私は、成増飛行場もそうだけど、板橋区(東京北西部地域)がどんなふうに空襲されたのか、そして終戦後をどのように迎えたのかなど、もっと詳しく知りたかった。それに関するいくつかの写真が残っていることもわかった。それが、どこにありそうなのかも(米国国立公文書館ね)。あとはいつ実行するか、だけである。(私の場合、昨今の燃油サーチャージの急騰に後押しされたわけですな)
米国のすごい所は、研究者や専門家ではなくても、市民や外国人に、一定期間の過ぎた公文書を公開していることだ。(すべてではないけど) もちろん、日本でも東京都公文書館や国立公文書館での調査は一般人にも門戸を開いているが、米国の気前の良さにはまだまだかなわないだろう。しかし、外国であるNARAで初めて調査するには、事前準備が必要だ。それこそホテルだの食事だの交通手段など、調査に必要なもろもろのこと・・。今ではネット検索という、少し前までは考えられなかった素晴らしい方法があるのでホントに重宝するが、それでも、NARAでの調査に関して解説しているサイトは少ない。ただし、少ないながらもその情報が、非常に心強く役にたった。そこで、そのお礼も込めて、今回、私が現地に行ってどんな目に遭い、どんな所に注意をすべきかを、NARAへの道トピックスの中で紹介してみることにする。

・・もう、ここまで書くので今日は消耗したので、具体的な話はまた次回からということで。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NARAへの道。Vol-1

 さて、本編を始めましょう。おっとその前に一つ注意を。NARAへ行って調査する人には、いろいろなスタイルを持った人がいるだろうけど、本編はあくまで私個人のケースということでご了承願いたい。また、交通機関や現地の様子は絶えず変化するので、2008年6月9日〜20日時点の情報ということで読み進んでほしい。

 NARAへの道、その入り口はアメリカの首都、ワシントンD.C.の空港から始まる。ワシントンには、市内に近いレーガン空港と市内まで1時間くらいのダレス空港、そしてもう少し遠いボルティモア空港がある。どれがいいかというと、それはレーガン空港だろう。しかし、国際便の発着が多いのはダレスで、特に格安航空券の場合、ダレスに夜着というケースが多い。NARAのあるMaryland州のCollege Parkは、以外とボルティモア空港からの方がアクセスがいいのだが(空港から最寄り駅のグリーンライン線:Greenbelt駅まで直通バスが出ている)、駅から宿泊先までの交通手段がネックとなるので、それがクリア出来なければおすすめできない。(詳しくはまた後に。)私の場合、往復105000円(燃油サーチャージ28000円含)のチケットで、N.W.機・デトロイト経由ダレス着PM7時だった。現地はサマータイムなので、夜8時半頃まで外は明るい。入国審査はデトロイト空港で済ませるので、バゲージをピックアップすればすぐに市内へ向かえる。

341 空港の建物を出ると、長大な建物に沿ってシャトルバスや車の乗降車場が二車線となって続いている。私は、一番安く市内へ行ける市バスを利用した。乗り場は道路を渡り、建物を背にして右の端の方にある2Eのエリアだ。バス停には大きな旅行カバンを引きずった人達が並んでいるので、すぐにわかるだろう。バスの番号は5A、L'Entrant Plaza行き。終点は地下鉄4ラインが交差する便利の良い場所だ。料金は3ドル10セント、おつりはくれないので小銭の用意を。

338 バスは平日なら1時間に2本ペースくらい。約50分で終点に着く。途中、地下鉄オレンジ&ブルーラインのRosslyn駅にも止まるのでそこで降りてもいい。
さて、市内に出るのはいいけど、そこからどうするか、である。ようするにどこに滞在するかですね。私の場合、なるべくNARAに近いエリアにした。ネットでCollege Park近辺を検索するとホテル等の情報がいくつか出てくる。しかし、一番近いと思われるメリーランド大学周辺のホテルは総じて料金が高い。安い地域はもう少し離れた、地下鉄グリーンライン線の終点、Greenbelt駅の方にある。(位置などを文章で説明するのは難しいので、できればグーグルアースなどの地図情報と照らし合わせながら読み進めてね。ttp://maps.google.co.jp/maps?utm_source=ja-wh)手頃なモーテルは、D.C.から延びる幹線のBaltimore Ave沿いに集中している。今回選んだのは全米フランチャイズチェーンのモーテル、Day's INNだ。

383 写真の看板に韓国語が表示されている通り、オーナーは韓国人のようであるが、スタッフに東洋人の姿はあまり見かけなかった。宿はネット検索で予約した。ネット上には、無数の旅行会社が予約サイトを開設していて、その中から選ぶ。注意しなくてはいけないのは、サイトによって1泊の料金がまちまちなことだ。へたをすると20ドルも料金が違ったりする。おそらく、その差額が業者の儲けになるのだろう。いろいろ調べ、一番安かったので選んだのがTravelHero.com.だった。1泊朝食付き74ドル。無料で無線LANも使える。10泊で税込み総額837.15ドルだった。注意して欲しいのは、料金を先払い(カード決済)しなければ予約が出来ないことだ。これは非常に不安である。10万円近いお金を、よくわからない外国の代理店に振り込まなくてはならない。ホントに大丈夫なのか?まっ、結果的には、「このメールをプリントアウトしてモーテルに持参するように」とのメールが出発前日に来て、滞在も問題なく終わった。しかし、トラブルが起こる事もじゅうぶん想定しておかなくてはならないだろう。ワシントン市内に宿泊所をとれば、もっと安い所もあるのだが、NARAは郊外にあり(ワシントンの隣のメリーランド州にある。)通うのに時間も電車賃もかかるので、多少高くついても近い方がいいように思う。ただし、近いと言ってもDay's INNからNARAまで歩くと約1時間、歩きとバスで25分くらいかかる。ちなみに、メリーランド大学近くのホテルに泊まるとバスでのアクセスが悪くなり、歩いても30分くらいかかる。NARAは、メリーランド大学に隣接していると思いがちだが、メリーランド大学自体が広大な敷地を持ち、さらに隣のゴルフコースの横に建物があるので、歩くのはきつい。基本的にアメリカは車社会なので、公共交通機関を使うのは非常に不便なのだ。
NARAへ行くバスはGreenbelt駅〜Fort Totten駅を結ぶR3ラインだが、Greenbelt駅前には何も無い。キオスクすら無く、広大な駐車場が広がるばかりだ。今回は現地の事情がわからず調べなかったが、R3バスは、他にグリーンラインの2つの駅( Prince George's Plaza, Fort Totten)を経由するので、駅の近くにモーテルを探せるかもしれない。

Vol-2に続く・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NARAへの道。Vol-2

 怒濤の更新、NARAへの道 Vol-2をお送りする。話はバスでワシントン市内に着いたところから始める。

私が空港から乗ったバスは、約50分で終点であるはずのL'Entrant Plaza付近についた。しかし、なんだか閑散とした裏通り風なところで、(後日、自分がどこで降ろされたのかなどは判明するが、話はこのまま進める。)どうやら終点ではないらしい。が、運転手は、このバスはここまでしか運転しないからここで降りろという。残った乗客も文句をいいながらも下車し、そそくさといなくなってしまった。時間は夜9時近く、外はすでに暗い。ワシントンの街は初めてで、自分がどこにいるのかもわからない。こんな人気のないところで放り出されてもどうすりゃいいのか不安だ。ワシントンD.C.から宿泊予約してあるCollege ParkのDay's INNまでは、夜遅く着くこともあり、最初から市内よりタクシーで向かう予定をしていた。ところが、車すらほとんど通っておらず、ここが安全な場所なのかどうかもわからない。結局、自分と同じように途方に暮れていた若い白人青年旅行者に声をかけ、一緒に車の通りそうな場所へ荷物を引きずりながら移動した。大きい通りへ出ても一向にタクシーの通る気配もないので、青年は携帯電話でタクシーを呼ぶことにし、親切に私の分まで呼んでくれようとした。その時、一台のタクシーが通りかり、青年は先に譲ってくれ、ようやく乗ることが出来た。
事前の調べでは、ワシントンD.C.のタクシーはゾーン制(銀座エリアまでいくら、池袋エリアまでいくらというように”面”で料金が加算される)を採用しており、メーターがついておらず、ボラれることも多いと聞いていたので、日本でプリントアウトした地図とDay's INNの住所を見せ、ここまで幾らだ?と聞いた。すると運転手は「そんなことはわからないよ、メーターに聞いてくれ」と指を差した。そこには日本と同じようにメーターが付いているじゃないか。運ちゃんが、「わかんないけど20ドルオーバーくらいじゃないの?」というので乗り込んだ。タクシーは約30分くらいで無事Day's INNに到着。料金は22ドルくらいだったかな。チップ込みで25ドル支払った。
しばらく滞在した後にわかったが、空港からのバスが着いて降ろされたところは、L'Entrant Plaza駅のひとつ手前あたりのバス停で、官庁街でもあり、夜は人気の無い場所だったのだ。昼は人も車もバンバン通るところなんだけど、アメリカ人は日本人と違い、夜遅くまで仕事をしたり、退社後、飲みに出かけてフラフラすることもあまりないので、夜は閑散としてしまうのだった。その後、何度かタクシーを利用したが、みなメーターが付いており、ゾーン制がなんなのかよくわからなかった。タクシー料金は、メリーランド大学あたりまでが18ドルくらい、モーテル街で20ドルちょっと、という感じだ。D.C.市内から地下鉄で最寄り駅まで来ても、日本のように駅前にタクシー乗り場があるわけでもないので、荷物もあるしこのくらいの料金なら、D.C.からタクシー利用の方がいいと思う。ボルティモア空港からだったら30~40ドルくらいだろう。

ようやくDay's INNに着きチェックイン。コピーしたメールを提示すると、カチャカチャパソコンをいじり、パスポートを見せて本人確認し、カードキー二枚を渡された。部屋は二階建ての棟が続く典型的なモーテルだ。部屋の構造からするといくらでも料金を払わずにチェックアウト出来るので、料金は全額先払いなんだろう。予約した部屋は1ベッド・ノースモーキング。部屋は20畳くらいあり、ベッドはクイーンサイズくらいかな。ズボンプレッサーもあり、金庫もあった。バスルームでお湯が出るか試したが、ちゃんと出た。サイトの口コミ評価が低いモーテルだったので心配したが、杞憂のようだった。でも、お湯の温度が低く、冬だったらお湯が出ないと騒いだかもしれない。

210 チェックインを終えると、もう夜10時半を回っていた。夕食をとるどころではなかったので、取りあえず腹ごしらえをしようと思ったが、Day's INN付属の韓国レストランは閉鎖されている様子で営業しておらず、表に出ると道路の対面にコンテナを利用したリカーショップがあったので(左写真)そこでポテトチップと缶ビールを買った。部屋に戻ると、ありゃりゃ、冷蔵庫が無かった。
翌日になって、モーテル回りを散策すると、INTERNATIONAL MARKETと言う小さなコンビニみたいな店や、アメリカンレストラン?(ステーキとかスパゲッティとかある店)や、中華料理のブッフェ店(10ドルオンリー)があることがわかった。

214 489 179
 さて、シャワーを浴びビールを飲み、落ち着いたところで確かめなくてはならないことがあった。それは無線LANが使えるかどうかだ。持っていったノートパソコンはブルートゥース機能付きmacbook。早速開いてみると、二カ所感知している。Day's INN表示のサイトにアクセスすると、ちょっとコツがいるようだったが、おお、繋がった。メールの他に普段利用しているサイトも問題なく繋がる。動画もストレスがない。う~ん、まるで自分の部屋でパソコンを開いているようだ。こればかりは数年前では出来なかったことだ。このことは、後にわからない事を検索や、協力していただいている方へ質問したり、その回答をやりとりする上で大いに役に立った。二カ所受信したうちのもう一つは、隣の”RAMADA”ホテルから出ている野良電波を拾っていたようで、若干スピードは落ちるが、こちらの無線LAN回線も使える。たまにDay's INNの回線速度が低下した時には役に立った。

次回Vol-3、いよいよNARAへ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区の工業

0026 今日で8月も終わりですね。久しぶりに晴れ間も見えましたが、もうすっかり秋の気配。最近このブログの存在があちこちのサイトに晒されているようで、急にアクセスが増えてきました。見捨てられないように更新を頑張ろう!!(希望ですが・・) しばらくNARA話しが続いたので、板橋区の話題を。

”趣味は板橋区”と宣言をして10年以上活動を続けていると、たまに頼まれ事を持ち込まれることがある。収集品を貸してくれとか、審査に加わってくれとか、執筆してくれとかetc。ミニコミ誌などに連載を依頼されることもあるけど、申し訳ないが、極力お断りしている。それは、〆切があるからだ。私はプロの物書きではないので、その責任を負うことが重荷なのだ。こんなささやかなブログでさえ、執筆に四苦八苦することがある。趣味である以上、自分のペースでありたいのですよ。それでも、恥ずかしながら依頼を受けて書くこともある。依頼を受けるには理由がある。それは”趣味”というのは限界があるからだ。たとえば何かを知りたくて、企業などに取材を申し込む場合、普通は身分や趣旨を聞かれる。それは当たり前のことだ。で、「いやあ、”趣味”なんすよ」と言えば、まず門前払いをくらう。個人経営の商店に尋ねることと同じようにはいかないのだ。公的機関にしてもそうで、マスコミ取材である場合は、応対のされ方からして変ることがある。そうした取材を経て入手した情報は、後に役に立つことが多い。もちろん、ブログのネタを書く時にも。

 今回は、ある月刊誌に頼まれ、板橋区の工業について取材をしている。こちら方面の知識は疎いので、勉強をしなおす良い機会にもなる。板橋区の産業振興課によれば、板橋区の工業事業所数は23区中9位だけれど、従業者数・製造品出荷額等・付加価値額は大田区についで2位となっていて、それらの減少率は一番低いのだそうである。(平成15年速報) 製造品出荷額が23区中一番なのは、印刷関連業・3359億円、精密機械器具・762億円、鉄鋼業・435億円だ。化学工業も第4位・383億円とがんばっている。10年くらい前、板橋区は借金が100億円以上あり非常事態を宣言していたが、現在ではずいぶん少なくなっていると聞く。人口も23区中7位だし、企業からの税収もきっと多いので、他の不況にあえぐ地方の自治体よりも潤っているのだろう。
板橋の工業の発展は、明治初めに加賀藩下屋敷跡に設置された火薬工場がその始まりだ。敷地内を流れる石神井川の水流を水車の動力に変えて火薬の製造を行った。現在の石神井川は、開削工事によって基本的にはまったりとした流れになっているが、当時、水車のあった場所は狭く急カーブを作っていて相当な急流だったらしい。この火薬工場を起点とし、関東大震災後の政策で、荒川流域に近く、人口も少ない志村方面を工場集積地にしたこと、北区側に一大兵器製造工場を建設したことが発展の理由だ。大東亜戦争に突入してからは軍需工場へ、戦後は工場関係者が平和産業に分散し、中小企業群を形成していった・・まっ、ざっとこんな感じです。

今日は、工業地域を俯瞰(面)で把握しようと、荒川流域を笹目橋付近からずっと回ってみた。久しぶりに広い河川敷の堤に立ち、一番北西の端から板橋区を眺めてみた。まずは広大なトラックセンターがひろがる。と、ここでちょっと寄り道。ブログをやっている方はおわかりかと思うが、ブログ管理者は、訪れる人がどんな検索法で、どこからアクセスしているのか等の情報がわかるようになっている。その機能で、どのページがよく閲覧されるのかを見ると、2月29日にUPした「仏様と牛/荒川にて」のアクセスが多い。そこに、私が30年近く前に撮影した、早瀬の渡し近くに建てられていたお地蔵様の写真を載せたが、今もまだあるのだろうかと気になっていたので、土手を下りて、そのお地蔵様の建っていたと思われる場所を確認してみた。が、辺りはすっかり野球場として整地されていてわからない。先程、その写真を確認したが、もっと戸田橋に近い場所だったのかもしれない気がしてきた。今度また確認し直してみマス。
トラックセンターの隣は都の浄水センター、清掃工場、などなど大きな敷地の施設が続く。JR線をくぐり、舟渡まで行ってみた。まっ、確かに工業地帯なのだが、昔に比べ、ずいぶん高層集合住宅が増えているような気がする。内陸部だけれど、前野町のイズミヤ辺りなんて、特に近年、巨大な工場がずいぶん撤退しているように思う。加賀地区もそんな感じだ。いろいろ資料を見ると、研究開発機能を板橋区内に残し、広大な敷地の工場が撤退するパターンが多いようですね。取材では、そんな企業を回る予定をしている。調査結果は、雑誌が発売されてからゆっくりとブログに載せますね〜。(なので更新がまた減ります。スミマセン。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »