誤報かも。。成増飛行場
今回はお詫びと訂正です。滞米中から何回か話題にした、B29から撮影された成増飛行場の空中写真ですが、戦時中に撮影されたものではないかも知れず、訂正を致します。
まず、経過ですが、この空中写真は米国の公文書館・NARA2にてネガの複写を行いました。詳しい検索の方法は後日、このブログのネタにする予定なので省略し、簡単に述べます。まず最初に、当該地区の緯度・経度をたよりに空中写真のコースを記したマイクロフィルムの検索をします。そこには、例えば1945/APR/07などの日付が入っており、NARAに原盤フィルム(複製品)が所蔵されていれば請求し、中一日で閲覧が可能となります。私のささやかな名誉ですが、本フィルムには1945/APR/30との日付けが付けられておりました。この写真は確かに成増飛行場を捉えたものであり、周辺部を見ても占領後の変化も見られず、中隊ピストの近くに機影らしきものがあるのも確認出来るので、戦時中に撮影されたものと思っておりました。しかし、ただ一点、腑に落ちない所もありました。それが、中央部、南北に走るコンクリート製の主滑走路でした。写真では、何か工事をしているようにも見えます。戦争末期、成増飛行場では敵の目をごまかすため、滑走路にベニヤ板とドラム缶で作った偽物の飛行機を並べたり、偽装工作をしていたと聞いていたので、主滑走路にもそんな工作をしていたのかな、と思っておりました。まあ、いくら考えたところで所詮は想像に過ぎず、そこで、当時の成増飛行場を知っている方に写真を添えて問い合わせの手紙をお送りしたところ、つい先程、その方から電話をいただき、見解をお聞かせいただくことができたという次第です。
連絡をしてこられたのは、元47戦隊富士隊所属の空中勤務者(パイロット)だったB少尉で、一時、空対空特攻隊の震天制空隊員を勤めていた方です。B氏は当時日記を付けており、それによると、47戦隊は昭和20年4月30日は成増飛行場におり、翌日5月1日の二日間、”宇都宮航法”の訓練(羅針盤を使って行う飛行法)をしていたそうで、この日はB29も来なかったはず、とのことでした。ここでもう一つ間違いがありましたね。私、先日の記事にこの頃47戦隊は大阪の佐野飛行場に駐屯していた、と記載してましたが、戦隊は4月18日に成増飛行場に戻っておりました。うろ憶えのまま自信を持って書いてしまいました。スミマセン。。
主滑走路についてのB氏の見解ですが、「これをもってして戦後に撮影された写真と判断出来る」とのことでした。30日はもちろん、終戦の日もB氏は四式戦新造機の受領のため成増飛行場におり、その時分、滑走路は舗装されたままであり、写真のような状態はありえない、と断言しておられました。するとこの写真はいつ撮られたものなのか・・それを考察するヒントはいくつかある。それは、終戦直後の一時期、飛行場は元の地主と飛行場関係者の陳情により、一部食料増産のために開墾が許されていたということ。そして、もうひとつはグラントハイツ建設が始められるごく初期の頃、資材運搬の為に上板橋駅から第一造兵廠練馬倉庫(現・自衛隊練馬駐屯地)まで伸びていた側線が、突貫工事で延長された(練馬倉庫以北は田柄川沿いに敷設された)ことである。側線(啓志線)の使用開始は昭和21年3月25日とされており、開墾もこの時期のことで、川越街道沿いに設けられた東西副滑走路の部分が開墾されたらしい。この写真からは、そのいずれの痕跡も伺えないようだ。前にUPした昭和20年10月に撮影されたような、破棄された戦闘機の残骸も見えないので・・(先程記したけど、駐機している飛行機らしきものは見える)う〜ん、いつ頃なんだろうなあ。。今日は自信がないので判断はまたの機会にでも。
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