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グラントハイツのことども 1

045gh047gh10012 先だってのお詫び記事で掲載が延びてしまいましたが、米国国立公文書館新館(NARA2)で複写して来たお宝写真を少しづつ取り上げていこう。今回はお固い話しはヌキでいきます。

 この写真は川越街道からグラントハイツの入り口へ向かう交差点である。現在、「おふろの王様」とか「つた屋」が並ぶ通りですね。真っすぐ進むと光が丘公園の入り口があります。モノクロ写真は、1956年8月27日に撮影されたもの。何を撮影したのかというと、MEIN GATE前で、グラントハイツで働く使用人達が、待遇改善を求めて24時間のストライキを起こしているところだそうな。練馬区の発行している本にはMPが検問を行う建物が道の真ん中にあった(うろ覚えです)と思うけど、この頃にはもう縮小していたようですね。

さてこのデモは・・おっと、今日はお固い話しはヌキ、ということで話をそらして・・左写真の左隅に写っている大きな日本家屋、これ、誰の家かわかりますか?私の愛用書・昭和44年発行の住宅地図によれば、鈴木さんのお宅だ。鈴木さん・・地元の事情通の方ならおわかりかもしれないが、そう、平成12年12月に68才で亡くなった、ダイエット&美白の女王・鈴木その子さんの旦那さんの実家だ。ご結婚は昭和29年なので、この写真の当時はすでに新婚さんとしてこの家にも出入りをされていたことだろう。その後、大きなマンションが建ち、一階部分には鈴木その子さんが経営していた株式会社トキノ(現SONOKO)の倉庫があった。道路に面したところにその子さんの大きな写真が貼られていたのを憶えている方もいるかも知れない。現在はそのマンションも取り壊され、また新たにビルが建てられつつある。撮影ついでに工事看板を見ると、注文者は”鈴木まゆみ”とある。まゆみさんはその子さんの長女で、亡くなられてからはSONOKOの名誉会長になっておられるようだ。
そして、このマンションから池袋方向に一軒置いた並びに、一階にバイクショップの入った”幸田セントラルマンション”と、それに併設して”シャーミンズギャラリー”がある。そう、あの幸田シャーミンさんの所有する建物だ。例の住宅地図を見ると、そこには”中華新北京”とHONG KONG TAILOR、そして 外人の住む家が並んでいる。むかし板橋区で小学校の先生をされていた70代の方に聞いた話だけれど、幸田シャーミンさんは中華料理屋の娘さんで、父上はグラントハイツにお勤めの方だったそうだ。成増小学校時代は成績が飛び抜けて良く、神童と呼ばれていたとか。ちなみに、とんねるずの石橋貴明も成増小の出身ですね。この中華新北京がそうだったのかはわからないけど、中華料理屋は両親が経営していたとは考えにくいので、祖父母が経営していたのかもしれない。もっと想像をたくましくすると、祖父母は大陸からの引揚者・・だったのかも知れないですね。おっと、さんざん誤報を垂れ流しておいて、また恥の上塗りをするかもしれないのでやめておきましょう。いつか幸田シャーミンさんにお会い出来る機会があるときにでも聞いてみることにしよう。

写真の話しに戻りますが、現在の日産ディーラーの場所には、何やら自動車工場らしき物が見えますね。看板を拡大して読んでみると”DAIWA GARAGE”とあるので、やはり自動車工場のようです。例の住宅地図を見ると、周辺には多くの自動車工場が存在している。現在もこの近辺の川越街道沿いには自動車ディーラーや工場がたくさん目につくけど、もともとはグラントハイツのガイジンさん相手の商売がルーツだったんでしょうね。今も旭町の何でもないような住宅街に、小さなスナックが点在しているような場所があるけれど、あれも当時のガイジン相手の飲み屋街の名残りなのだそうだ。グラントハイツが返還されて40年近くが経つが、まだまだ名残りがあるんだなあ・・。歴史は綿々と続いている、というワケですね。
そうそう、左の写真の奥にコンクリート製の”掩体壕”が見えますね。これは成増飛行場の戦闘機を爆撃から守るための避難用駐機場だったもの。かつては飛行場の周りにいくつも点在しており、あまりに頑丈に造ってあったので容易に破壊できず、わりと近年まで残っていた。(この写真を見てニヤリとした方がいたら、それは相当なマニアと認めますョ。)

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コメント

グラントハイツ…地元では専らグランドハイツでしたね(笑)
この画像の交差点の向側(ホンダディーラー)には「サクラトイス」という2階建ての玩具店がありました。その隣りでは「Fuji」が米兵相手に美術商を営んでいました。返還と同時期に閉店してしまいましたが、今でも当時の面影を唯一残しています。ゲートは桜並木の真ん中にありましたよ。

投稿: jimoty | 2008年7月10日 (木) 21時13分

>jimotyさま
コメントをありがとうございます。Fujiとお隣の店については他の方が突撃取材して、現役時代の写真などをUPしていますね。ブログだったかHPなのかは忘れましたが・・。まだ写真はいろいろとありますので、今後も楽しみにして下さい。

投稿: | 2008年7月10日 (木) 22時36分

意外と知られていないのですが、成増は進駐軍(米軍)の大拠点だったんですよネ。
原宿(神宮公園)が明け渡された後にも残り、当時のMPの事実上の本拠地だったという
重大な事実に触れた書籍や資料が乏しいのは何故か?
色々と調べているうちに親戚の住む稲付兵器廠跡にあった進駐軍参謀本部(諜報部)や
西武線沿線(ひばりが丘など)の元火薬産業工場との関係など、戦後の朝鮮戦争に
関係した複雑な日米関係の様子が浮かび上がってきました。
母が当時のグラントハイツで通訳兼家政婦をしたいたという家庭環境だったので
子供のころから色々と進駐軍内部の話を聞いていたこともあり、
その複雑な関係式を理解するのには、それほど違和感もなかったのですが、
知らない人には、やはり教科書の範囲でしか理解できないのかもしれません。

投稿: 板橋君 | 2009年3月 1日 (日) 04時01分

>板橋君さま
貴重な情報をありがとうございました。本文にも書きましたが、米国公文書館でG.H.時代の写真をいろいろ複写してきましたが、ネタにする話題に乏しく、最近はupをサボり気味ですみません。板橋区時代の成増飛行場については調べているのですが、戦後の練馬区時代のG.H,までまだ手が回らない‥。興味深く面白い事はわかっているんですがネ。また貴重な話をお聞かせ下さいませ。

投稿: オーク | 2009年3月 1日 (日) 07時00分

>オーク様
実家には、母が勤務していた将校さん(MPの部長さん)宅の写真や
基地内に配備されていたF80シリーズのジェット機とパイロット、
教会のダンスフェスティバルの写真などがKodak製のスライドで
残っていましたが、30年程前に火事になり消失してしまいました。
とても残念でしたが・・・
両親が無事だったこともあり、神様の交換条件かな?と思い、
いまは諦めています。

記憶の限りでは、1950年代当時の基地内は日本とは思えないほど
本格的にアメリカンでしたね。
母が持ち帰ったシアーズのカタログと同じ世界が写真に写っていて
自分の現実とのギャップに愕然とした記憶があります。
子供心にも「占領されても仕方ない」という奇妙な納得が
そこにはありましたね。

投稿: 板橋君 | 2009年3月 5日 (木) 03時23分

現在も掩体壕を基礎にした民家が残っているのはご存知ですか?
昭和51年から赤塚新町に住んでいますが、
最近知り見に行きました。驚きでした。

投稿: SY | 2011年11月15日 (火) 21時59分

>>SYさま
コメントをありがとうございました。
このことについての話題を取り上げることは差し控えております。申し訳ありません。

投稿: オーク | 2011年11月15日 (火) 22時14分

最後の掲載より時間が経ってしまっていますが
貴重な写真、情報ありがとうございます。
新北京については、当時、父親が勤めていました。幸田シャーミンさんの母親が経営していました。私の記憶では母親は韓国人、父親は米国人で既に米国へ帰ってしまっていたと思います。新北京は何度か行った記憶がありますが、焼肉がメインで中華料理もメニューにありました。たまたま行った時にシャーミンさんがいたことがあり、まだ無名でしたがモデルやっていたような記憶があります。残されている掩体濠は小学校同級生の家のようです。
子供の頃は掩体濠がグラントハイツ内に残っており遊び場としていました。

投稿: T.S | 2020年12月 4日 (金) 06時17分

>>T.Sさま
コメントをありがとうございます。お父上が新北京に勤めていらしたとは驚きました。新北京がどんな経過で出店されたのか知りたいところです。グラント・ハイツで遊んだ思い出をお持ちのことも羨ましいかぎりです。私はバスケットコートのような場所を自転車で走り回った薄い記憶しかありません。

投稿: オーク | 2020年12月 4日 (金) 16時10分

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