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2008年6月

板橋区へ復活!?・下板橋駅

すっかりご無沙汰しちゃいました。こんなささやかなブログでも、きちんと調べて書くのはなかなか大変なので・・。
などという言い訳はまた後回しにして、さて、すでにご存じの方もおられるかもしれませんが、先月下旬の東京新聞に、下板橋駅一帯に関しての大きな話題が掲載されてました。以下抜粋。
 
 日本大医学部付属板橋病院(東京都板橋区)が、東武東上線下板橋駅と直結する新ビルへの移転を計画していることが分かった。現在と同じ千床規模を想定。大学病院や大規模総合病院としては初の「駅上病院」となる。日大と東武鉄道は二十日、計画を正式発表する。

 計画地は東武鉄道が所有する下板橋駅西側の板橋、豊島両区境にある敷地約四ヘクタール。東武グループの施設や車両基地が広がる。

 関係者らによると、下板橋駅の駅舎とホームを、車両基地のあるエリアに移動させ、周辺施設と一体整備。人工地盤で駅や車両基地を覆い、上部にビルを建設した上で、日大板橋病院を誘致する。
移転時期などについて、日大と東武鉄道はいずれも「具体的な話はこれから」として明らかにしていない。

 日大板橋病院は老朽化が目立ち、耐震や最新医療への対応から、移転話が持ち上がっていた。東武鉄道は下板橋駅周辺を、高さ六百十メートルの新タワーの建設エリアでもある墨田区の業平(なりひら)橋・押上地区とともに、沿線活性化戦略の開発拠点と位置付け、活用策を検討していた。

 今年に入ってから、下板橋駅に隣接する操車場の拡張工事が進められていたが、ははあ、水面下でこのような計画が進められていたのかと納得した。(今月から始まる通勤ライナーや東横線との接続の関係もあるのかしらん。)それにしても、計画では、戦前に旧下板橋駅のあったところから金井窪駅までの区間を人工地盤で覆い、その上に日大板橋病院を丸ごと移転し、駅(おそらくちょっとしたショッピングセンターも入るのか?)までもそこに含めるのだからこれはすごい。別の媒体では、”高度医療福祉拠点を整備する「メディカル・トラポリス構想」の事業化に向けた検討を進めている。交通インフラの上部を利用した高度医療機関、ウェルネス施設などの開発は国内初の試みとなる。”とも伝えられている。外観のイメージだと、三田線の西台駅を巨大にしたもの・・なのかな。あそこも、高層団地や廃校になったけど小学校が、車両基地を覆う人工地盤の上に建っていますね。地図で確認すると、計画エリアはほとんど板橋区内にあたり、今は豊島区にある下板橋駅も、昭和20年4月に空襲で焼けて以来、60数年ぶりに板橋区に戻ってくることになる。もっとも計画を発表しただけで、いつ出来るのか、本当にできるのかわかりませんが。でも期待してしまいますね。

 日大板橋病院は昭和10年に現在の場所(大谷口上町)に開設された。昭和45年に今の建物がたてられたので、確かに老朽化は否めないのだろう。立地も、電車利用者にはアクセスが良くなく、下板橋駅上に出来ればこれは便利になる。有楽町線の伸張や将来の人口減により、確実に利用客が減る池袋~成増間の集客にも良策なんだろう。
(無理とは思うが)私としては、是非、このプロジェクトに、東上線の博物館とはまで言わないけれど、資料室程度のものでもいいから、そんな施設を併設してくれないかなあ、なんて思います。東武博物館での東上線の扱いについては、沿線住民としてはちょっと納得がいかないので・・。東上線の0キロポストは下板橋の車両基地内にあるのだし、建設の記念碑もあるし、歴史的にもふさわしい場所ではないでしょうか。万が一実現するなら、私の収集した数々の東上線資料を寄贈してもいいんだけどなあ・・。とりあえず、株主にでもなって提案してみますかね。なんて。

さて、今まで更新をサボっていた理由の一つとも言えなくもないのですが、私は来週よりワシントンD.C.に約2週間ばかり行ってきます。これは純粋な旅行ではなく、さりとて仕事でもなく・・しいていえば、ブログの趣旨である・趣味「板橋区」を極めるための渡米となるのでしょうか。長年、いつかは。と思い続けていたことを実行する次第なのです。もったいぶって中身はまだ公表しませんが、ノートパソコンを持ってゆきますので、出来れば現地からの報告をお送りしたいと思っております。期間中何もUPされていなかったら帰国後に報告しますね。

それでは板橋区とはしばしのお別れです。

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板橋区民、NARAへ行く。

G55G69_2 久しぶりのUPです。予告通り日本を出発し、現在はアメリカはワシントンD.C.の隣にあるメリーランド州のさえないモーテルに滞在し、そこから発信しております。さえない割には無料のWIFIでネットが自由自在に使えるので、部屋に居るぶんには日本と同じ環境を作れ、精神的にもいいですね。ニュースもユーチューブもリアルタイムに見れますし。ホントいい世の中になりました。
 
 おおそうだ、なんで私がこんなところにのこのこやって来たのかといいますと、タイトルのごとく、奈良、ではなく、”NARA”でありまして、ここ、メリーランド州カレッジパークには、米国国立公文書館/United States National Archives and Records Administration、(通称NARA)の新館、アーカーイブ2(ツー)があるんですね。本館はワシントンD.C.にあります。ここには、第二次世界大戦及び日本の占領期のほとんどの資料が収蔵されており、その道の研究者の”聖地”とされている場所です。あの本も、あのドキュメンタリー番組も、ときどき朝日新聞などをにぎわす、戦時中の日本軍の悪逆非道ぶりをあばくための証拠(逆に、ここに無ければそんな事実がなかったことになるかもしれないという諸刃の刃)など、ほとんどがここで発掘された資料を元に作られております。私にしても、人の書く本に期待するより、自分の知りたいことを自分で探すようになってからは、一度はこの場所に来なくては、と思い続けていたあこがれの”聖地”であったのです。
さて、NARA2にどんなお宝が眠っているかと言うと・・その一つが上のモノクロ写真で、これは板橋区域部分のみをトリミングしたのですが、1944年11月1日、米軍のB-29改造写真偵察専用機・F-13が、初めて東京上空を偵察飛行した時に撮影した写真です。東京の空襲は、まさにこの一枚の写真から始まった、と言ってもよいでしょう。写真中、TAKAMATSUCHO A/F とあるのは成増陸軍飛行場(現・練馬区田柄〜光が丘)のことで、この写真が撮られた段階では、まだ日本側の正式名称がわからなかったからこの名がついている。たしかにここらへんには”高松町”があるのですが、それにしてもなんで高松町飛行場なんでしょうかね。興味を引く問題です。飛行場の上の広大な空き地は埼玉陸軍病院や朝霞の士官学校がある場所です。しかし、ごらんのように少し雲?というか、霞がかってはいますが、第二造兵廠を含めばっちり写し出されてしまっていますね。ここから爆撃目標を設定してゆくのです。この写真の存在は昔から知っていたけれど、やはりオリジナル写真を見つけた時は感動ものです。まっ、今日はこんなことで勘弁いただき、また徐々に情報をUPして行きますのでお楽しみに!!

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板橋区民、NARAへ行く。2

G81_2G35_2 さすがに滞在4日目となり、環境に慣れて来た。でも食事は高いしおいしくない・・。松屋みたいに安い値段でそこそこ食べられる環境は素晴らしいと、つくづく思いますね。スーパーなどで売ってる素材は安いんだけど、人の手がかかると、とたんに高くなるのがアメリカだ。ああカッパ寿司で思い切り注文したいなあ・・。では引き続き、アーカイブからの速報をお送りしよう。

 この写真、初めて見る人は多いはずだ。終戦直後の成増飛行場で撮影されたものである。1975年3月発行の「航空ファン」誌に載ったことはあるが、成増飛行場の写真と紹介されたことはないので、気が付いた人も少ないだろう。無惨にもスクラップ状態となった47戦隊所属の四式戦の上を、勝ち誇ったように離陸する米陸軍連絡機・L-4(グラスホッパー)がうらめしい。敗戦の姿をまざまざと見せつけるショットである。撮影されたのは昭和20年10月8日のこと。たしか練馬区などが発行している本では、終戦直後の8月下旬に米軍のジープが乗り付け飛行機を燃やしていった、なんてことが証言を元に書かれているけど、それは違うと思う。今、手元に資料が無いので詳しい日付はわからないけど、米軍は敗戦を受け入れた日本に対し、8月21日をもってすべての日本機の飛行を禁じている。それから飛行機のプロベラを降ろし、タイヤをパンクさせるように命令を下した。その後、米軍機は飛行場などへの偵察飛行をおこない、ちゃんと命令を聞いているか、反乱の兆しは無いのかを確認し、その後8月下旬から横浜に上陸し進駐を開始したのである。だから、そんなにすぐに米軍は板橋あたりまで来ていないのだ。まさか反乱分子が成増基地に篭城していた、なんてことはないだろう。写真が撮影された10月まで飛行機が放置されていたのは、妥当なことだと思う。もっとも、機密資料等の処分は行われていたかもしれないが。

 飛行場は翌年まで放置され、その間に、食料増産のため開墾したいとの地元民の願いを受け入れ、そこに元の飛行場勤務者達も加わり、舗装されていなかった川越街道に沿った東西滑走路(睦台団地の所ですね)から開墾を始めた。舗装はされていないけど、硬く付き固めた地面を開墾するのは容易でなかったそうである。そのうち、上板橋駅から陸軍第一造兵廠練馬倉庫(現・練馬自衛隊)まで伸びていた側線が延長され、4月になって米軍からいきなり立ち退きを要求されてしまった。米軍家族住宅の建設が決まったのだという。せっかく種を蒔いたのに、収穫を待つ間もなく追い出されてしまった開拓民はたまったもんじゃあなかったけど、絶対権力者の前になすすべはなかったのである。右の写真が、元の東西滑走路部分に作られた米軍住宅ですね。この写真を見てムカついてる関係者も多いんでしょうね。
しかし、この風景、今のアメリカの郊外住宅地の姿にそっくりですね。きっとここに暮らした米国人達は、自分たちの故郷に似ているであろうこのグラントハイツでの暮らしは、気に入ったんじゃないかと思います。それにしてもなんて田舎なんだ、赤塚や徳丸は。

それでは本日はここまでで。

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板橋区民、スミソニアンへ行く。

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 週末を利用して、博物館見学などをした。第一の目的は、日本人にとっては許しがたい、米軍の戦略爆撃機スーパーフォートレスト<超・空の要塞>B-29の実物を見に行くことだ。ワシントンD.C.市内のスミソニアン博物館ではなく、ダレス空港近くにある航空宇宙博物館・別館に展示されている。
航空宇宙博物館・別館は、巨大な飛行機の格納庫のような建物となっている。中はとてつもなく広く、フランスのコンコルド機もそのまま展示してあるが、コンコルド機も小さく見える程だ。その広い場所に、所狭しと歴代の歴史的名機の数々が並んでいる様は壮観だ。スミソニアン本館にもたくさんの飛行機やロケットが展示されているが、まったくアメリカのコレクション魂には驚く。

 さて、いよいよ本物のB-29と対峙する時がきた。戦争時代を経験した日本人にとっては、忘れがたい殺戮機である。(私はその世代ではありませんが。)しかも展示されているのは”エノラ・ゲイ号”そう、広島に原爆を投下したB-29そのものだ。エノラ・ゲイは館のほぼ中央の位置に展示されている。よく戦記物を読む私も、当時の日本人の気持ちになりきって展示場所へ進む。他に数多展示されている飛行機はまったく目に入らない。とうとう、ジュラルミンむき出しの銀色に輝く機体が視界に入って来た。第一印象は・・やはりでかい。現在の人にとっては、飛行場でジャンボジェット機などを見慣れているので、一昔前のレシプロ旅客機並みの大きさでしかないB-29は小さく見えるのではないかと思っていたのだが、”でかい”と感じた。それは、主翼の長さにあるのかも知れない。胴体に比べ異様に長いのだ。これは、強力四発のエンジンを取り付け、たくさんの爆弾を積み、高高度を長距離飛ぶのに必要なのだろう。
ジュラルミンむき出しの機体は、なるほど当時の人の多くが飛行する姿を見て、”キラキラ輝いてきれいだった。”と感想をもらしたのが納得出来た。機体に近づき、しげしげと細部に見入った。先端の爆撃手が乗るノーズの部分は、わりと華奢に見える。B-29の周りには、これと戦った月光や紫雷改など日本軍戦闘機が並べられているが、言われている程、日本軍機は小さく感じなかった。ここで日本機とB-29をじっくりと眺めながら、この憎っくき爆撃機と戦った様を想像した。特攻機はこの外側のエンジンに体当たりしたのか、この巨大な垂直尾翼をプロペラで齧り取ったのか・・などなど、しばし感慨にふけった。今度は一階に降りり、下から見上げてみた。するとそこにはまぎれもなく、あの、本で見慣れた写真”ENOLA・GAY”の文字が・・。こいつかあ、この野郎が・・との思いが込みあげてきた。原爆を落としたことについての解釈は様々だが、広島では一度に十万人の人間を殺戮したのは事実だし、長崎では八万人、また東京大空爆で十万人、その他の都市爆撃で殺された人々の数をあわせたらとんでもない数になるだろう。このエノラ・ゲイが復元展示されるとき、その解説文の表記や展示することに対し、日本人による反対運動がおきたという。私は、展示すること自体には異を唱えないが、しかし、このエノラ・ゲイを後ろに”ヘイ!スマイル!”などと言って記念写真を撮る外国人見学者の多さには辟易した。彼らにとっては”そんなもの”という感想しかないんだろうなあ。あまりにも腹立たしくなり、後ろを振り向かずにその場をあとにした。

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板橋区民、NARAへ行く。3

Gs145Gs118Gs135 早いもので、NARA通いも明日で終わりとなる。本当は一ヶ月くらいかけてじっくりと調査をしたい所ですが。前にUPした昭和20年8月10日の板橋空襲時の写真は発見出来ずに終わりそうだけど、戦時中に撮影された成増陸軍飛行場の空中写真を見つけることができた。
 
 今まで私が見たことがあるのは、建設中に低い高度から撮影されたものと、昭和19年頃に陸軍により撮影された空中写真だ。左の写真は20年4月7日にB-29より撮影されたもの。実物は6X20インチ(六つ切りを横に2枚繋げたくらいの大きさ)程度のネガのロールで、現像ムラも多く写真の状態は良くない。ネガが大きいので飛行場の部分を中心にトリミングしてある。撮影開始地点はまだ特定出来てないけど、西から東に向けて飛行しながら撮っている。荒川が右に見える位置で飛んでいるので、他のカットには志村坂下や小豆沢地区なども写っているようだが、画質が不鮮明で建物の判別などは無理だ。二枚目は4月30日撮影のもの。これは所々雲も写っているが割と鮮明だ。大宮あたりから練馬方向へ、北から南に向かって次々に撮影されている。この写真は、6X10インチくらいのロールネガフィルムで、注目するのは成増飛行場がドンピシャリの位置でフレーミングされていることだ。UPした写真はノートリミングのもの。まるで、成増飛行場の撮影を意図してこのコースを飛行しているかのようだ。まだこの空中写真は発見したばかりなので性急な評価は避けたいが、ネガの最後まで見ても、ほかに目標となりうるような軍事拠点や工場などは見当たらず、畑や田んぼと小規模な住宅街ばかりが続く。
 この時期、成増を根拠地としていた47戦隊は、すでに帝都防空任務を解かれており、関西方面に米機動部隊接近中との報告により、これを邀撃するため大阪の佐野飛行場に駐屯していた。飛行場では、少数の沖縄特攻隊・振武隊の訓練が行われているのみで、空襲警報が出ると飛行機は掩体壕へ退避させていた。30日の写真を拡大してみると、駐機場に数機の飛行機が確認できるが、それが偽装機かどうかまではわからない。飛行ルート上、板橋区赤塚一丁目と練馬区春日五丁目には高射砲陣地があるが、写っている雲が砲弾の炸裂によるものか、本当の雲なのかどうかもわかりません。
この二枚の写真の撮影された間の時期、4月13・14日には板橋最大の犠牲者を出した城北地区空襲があったけど、30日の偵察写真撮影飛行ルートは、その戦果確認のためのものではないようだ。なぜならその地区を外して撮影しているからである。但し、この日は他のルートで撮影しているものもあり、そちらは戦果確認の目的で飛んでいるのかもかもしれない。4月7日は、午前9:54〜10:30の間に107機のB29が飛来し、中島飛行機武蔵製作所や板橋、世田谷、調布他に計494.7tの爆弾を落としている。ところが、この日の偵察機の飛行ルートも、その爆撃コースから外れているような気がするのだが・・・・。おっと、まだ資料を集めて総合的に検討していないので、結論は帰国してからじっくり考察することにしよう。それでは今日はここまでで。あっ、最後に4月30日に撮影された写真のうち、成増駅を中心とした部分をトリミングしてUPしておきます。もう本当に丸見えですね。

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B29が捉えた板橋区

127_8 あまり更新がないと、せっかく見に来てくれた方々に申し訳ないので、期末締めもかねましてUPします。

 本日の写真は、米国国立公文書館・新館(以下NARA2と呼ぶ)にて収集してきた、昭和20年4月30日に米軍のB29偵察機より撮影された空中写真です。これは、現地でも一部をUPしましたが、今回はその前後の写真も合わせてみました。本来はもっと緻密に撮影されておりますが、連結させた画像では写真を何枚か間引いております。

 偵察機は、利根川近辺(まだ解析しておりませんが)から撮影を開始し、成増飛行場の直上を飛び、ほぼ南方向へ抜けていきます。成増飛行場は、92カット目の写真にあたります。高度はまだ未調査だけど、Google earthで合わせてみると、3500メートルから4000メートルくらいで撮影しているのではないかと思います。東京大空襲時の高度とほぼ同じかな。まあ撮影レンズが何ミリか調べないと断言はできないのですが。
この日は成増47戦隊・柏70戦隊・調布244戦隊など、第10飛行師団の防空戦隊から選抜された第18・19振武隊が知覧基地を出撃し、沖縄近海にて艦船特攻を行い、駆逐艦「ベニオン」(2,050トン)と敷設艦「テラー」に損傷を与えています。また、遠いドイツでは、総統アドルフ・ヒトラーがベルリンの官邸地下室で自決をした日ですね。
30日は、広島や浜松が空襲を受けており、関東地方に飛来した偵察機は14日から15日、25日などに行なった空襲の結果を撮影するために飛行したのだと思われます。今回の調査では見られなかったけれど、このルートの他に、東側の複数ルートを北から南にかけて撮影したフイルムがあることは確認したので、おそらくそこには豊島区や北区や新宿区あたりが写っているのでは、とおもいます。
しかし、このコースには高射砲陣地がいくつもあるのに、よくもまあ飛んでるもんですね。日本側の防空網をなめているというしかない。しかし、それ以上に、こんなにバッチリ写真を撮られて持ち帰られてしまう日本側もどうしょうも無いですね。この頃は沖縄上陸が始まったばかりで、そちらの方に戦力を削いていた・・とも考えられますが。

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