日本一のサツキ
五月になりました。五月と言えば皐月、ともいわれますね。もちろん花はサツキの花。都内では根津神社や六義園のサツキが有名ですね。
私が子供の頃のこの時期、故郷の徳丸はサツキの花で溢れておりました。それは立派な庭園のあるお宅が多かった・・のではなく、植木を商売とする農家が多かったから。きっと、昭和も30〜40年代になるとキャベツを作るよりもお金になったんでしょうね。ところが、それだけではなかったんだな、と最近になってからわかったのですよ。私は全く知らなかったけれど、皐月盆栽の世界では「板橋樹形」なるものが一大ブランドとして君臨しているのだ。そう、「板橋樹形」との名が示すとおり、その形式は板橋地域で産み出されたものなんですね。では板橋樹形についての紹介といきましょう。
「板橋樹形」の特徴は、現在当たり前のように行われている、苗木や若木の段階から針金を使って樹形をつける方法を初めて体系的にまとめあげた、ということで、その集大成が、清水町の塩野谷喜久郎氏(大正6年生まれ)が創設した、板橋樹形「八塩流」なのです。
大正時代の末、板橋地域(現在の練馬区も含む)にはサツキ業者が40軒くらいありました。それらのサツキは”東京皐月”の名で販売され大変に人気があった。品種は「華宝」「暁天」「千歳錦」がほとんどだった。サツキも一種の流行品で、少しでも売れ行きが良くなるように花や樹形がめまぐるしく変っていき、その変化に付いてゆけない業者はどんどん脱落していきました。昭和2〜3年頃から板橋地域でも”曲付け”といわれる技法が行われていて、温室培養の長尺苗木・6尺(1.8m)を客の注文の通りに曲げて販売していました。板橋皐月の特徴として、長尺の変曲樹形と幹を太らせることを目的にしたので、中には盆栽とは似ても似つかない樹形になったものもあったのだとか。当時の主流は、大模様で1〜2ヶ所しか曲げない二段曲げ(明治曲げとも呼ばれた)と長尺の変形樹形でした。
八塩流の創設者・塩野谷喜久郎さんは、大正9年5月に新宿から板橋に引っ越し、父親は皐月園を経営し始めた。昭和5〜6年、13・4歳の頃から、父親の仲間のサツキ業者の家に出入りをして曲付けの技を憶えたそうで、18歳の時に独立した。ところが20歳で兵隊に取られ、昭和16年に除隊して家業を継いだけど、大東亜戦争が始まり観賞用の盆栽造りが出来なくなってしまった。それは塩野谷さんにかぎったことではなく、他の業者も同様で、板橋樹形もいつの間にか作られることがなくなってしまったのである。
戦争が終わり世の中が落ち着いた頃、さあ、盆栽の商売を復活させるか、とあたりを見回すと、板橋樹形の技法を持っていた方々はほとんどいなくなり、昭和初期から板橋や練馬地域に伝わっていた板橋樹形を継承出来る人間は塩野谷さんだけになっていたのだという。昭和35年、塩野谷さんは板橋樹形を後世に残し普及させる決意をし、板橋皐月会と練馬皐月共栄会で樹形と土花壇(路地植え)培養法の指導を始めた。この時、積極的に協力したのが徳丸の農家達だったのである。なるほど、そういうことで私の子供時代の記憶と一致するわけなんですね。こうして板橋樹形はどんどん広まり、やがて全国的に普及していった。でも、この頃はまだはっきりきまった呼び名を付けておらず、練馬で苗木を主に作っていたから”練馬模様”と呼ばれたりしていたらしい。そこで、昭和49年5月、塩野谷さんは名字から”塩”を取り、それに流派の発展、普及の願いを込めて八方末広がりの”八”を付け、正式に「板橋樹形八塩流」を名乗って一流を創設し、家元となりました。
さて、話しは現代へ。現在、徳丸ではサツキの苗木を育てたり、盆栽を作っている農家は果たしてあるのか・・私の思いつく限りでは、ほとんどが宅地やマンションになってしまい、もう残っていないのでは?と思います。(徳丸5丁目あたりにあるかもしれませんが・・)でも、11月に赤塚体育館一帯で行われる「いたばし農業まつり」に出品されていたり、たまにオークションで売りに出ているのを見かけるので、滅んだわけではありません。なんといっても天下の板橋樹形ですから。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント