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2008年5月

日本一のサツキ

12 五月になりました。五月と言えば皐月、ともいわれますね。もちろん花はサツキの花。都内では根津神社や六義園のサツキが有名ですね。
私が子供の頃のこの時期、故郷の徳丸はサツキの花で溢れておりました。それは立派な庭園のあるお宅が多かった・・のではなく、植木を商売とする農家が多かったから。きっと、昭和も30〜40年代になるとキャベツを作るよりもお金になったんでしょうね。ところが、それだけではなかったんだな、と最近になってからわかったのですよ。私は全く知らなかったけれど、皐月盆栽の世界では「板橋樹形」なるものが一大ブランドとして君臨しているのだ。そう、「板橋樹形」との名が示すとおり、その形式は板橋地域で産み出されたものなんですね。では板橋樹形についての紹介といきましょう。
 
 「板橋樹形」の特徴は、現在当たり前のように行われている、苗木や若木の段階から針金を使って樹形をつける方法を初めて体系的にまとめあげた、ということで、その集大成が、清水町の塩野谷喜久郎氏(大正6年生まれ)が創設した、板橋樹形「八塩流」なのです。
大正時代の末、板橋地域(現在の練馬区も含む)にはサツキ業者が40軒くらいありました。それらのサツキは”東京皐月”の名で販売され大変に人気があった。品種は「華宝」「暁天」「千歳錦」がほとんどだった。サツキも一種の流行品で、少しでも売れ行きが良くなるように花や樹形がめまぐるしく変っていき、その変化に付いてゆけない業者はどんどん脱落していきました。昭和2〜3年頃から板橋地域でも”曲付け”といわれる技法が行われていて、温室培養の長尺苗木・6尺(1.8m)を客の注文の通りに曲げて販売していました。板橋皐月の特徴として、長尺の変曲樹形と幹を太らせることを目的にしたので、中には盆栽とは似ても似つかない樹形になったものもあったのだとか。当時の主流は、大模様で1〜2ヶ所しか曲げない二段曲げ(明治曲げとも呼ばれた)と長尺の変形樹形でした。
 八塩流の創設者・塩野谷喜久郎さんは、大正9年5月に新宿から板橋に引っ越し、父親は皐月園を経営し始めた。昭和5〜6年、13・4歳の頃から、父親の仲間のサツキ業者の家に出入りをして曲付けの技を憶えたそうで、18歳の時に独立した。ところが20歳で兵隊に取られ、昭和16年に除隊して家業を継いだけど、大東亜戦争が始まり観賞用の盆栽造りが出来なくなってしまった。それは塩野谷さんにかぎったことではなく、他の業者も同様で、板橋樹形もいつの間にか作られることがなくなってしまったのである。
戦争が終わり世の中が落ち着いた頃、さあ、盆栽の商売を復活させるか、とあたりを見回すと、板橋樹形の技法を持っていた方々はほとんどいなくなり、昭和初期から板橋や練馬地域に伝わっていた板橋樹形を継承出来る人間は塩野谷さんだけになっていたのだという。昭和35年、塩野谷さんは板橋樹形を後世に残し普及させる決意をし、板橋皐月会と練馬皐月共栄会で樹形と土花壇(路地植え)培養法の指導を始めた。この時、積極的に協力したのが徳丸の農家達だったのである。なるほど、そういうことで私の子供時代の記憶と一致するわけなんですね。こうして板橋樹形はどんどん広まり、やがて全国的に普及していった。でも、この頃はまだはっきりきまった呼び名を付けておらず、練馬で苗木を主に作っていたから”練馬模様”と呼ばれたりしていたらしい。そこで、昭和49年5月、塩野谷さんは名字から”塩”を取り、それに流派の発展、普及の願いを込めて八方末広がりの”八”を付け、正式に「板橋樹形八塩流」を名乗って一流を創設し、家元となりました。

 さて、話しは現代へ。現在、徳丸ではサツキの苗木を育てたり、盆栽を作っている農家は果たしてあるのか・・私の思いつく限りでは、ほとんどが宅地やマンションになってしまい、もう残っていないのでは?と思います。(徳丸5丁目あたりにあるかもしれませんが・・)でも、11月に赤塚体育館一帯で行われる「いたばし農業まつり」に出品されていたり、たまにオークションで売りに出ているのを見かけるので、滅んだわけではありません。なんといっても天下の板橋樹形ですから。

 

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徳丸の獅子舞'08&30年前

081_2084_2082_2083_2 今日は子供の日、または端午の節句。我が故郷、徳丸では北野神社の天神祭が行われ、獅子舞が奉納される。
徳丸の獅子舞は、伝承によれば元禄期(1688年〜1704年)より始まった、とされている。田遊びと同様、赤塚の諏訪神社にも獅子舞があるが、こちらは延宝年間(1673年〜1680年)に日光二荒山神社の獅子舞を習得したものといわれ、4月10日に奉納される。徳丸の獅子舞は、豊島区長崎の長崎神社獅子舞とよく似ていて、実際に大正末から昭和の初めにかけて親密な交流があったそうである。田遊びや前回紹介した板橋樹形のように、戦時中に中断されてしまった。復活したのは昭和40年代の初めで、以降昭和59年に板橋区無形文化財に指定され現在に続いている。


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378478 このモノクロ写真は30年程前に撮影したもの。どんな動機で撮影したのかは忘れたが、たぶん高校の文化祭にでも出品しようと思ったのだろう。それにしても、そんなに昔ではないとおもうんだけど、こうして見てみるとものすごく時代を感じる。演じている方々も、ほとんどが一世代前の人達で、昭和7年に板橋区が誕生した際にNHK(ラジオ)に出演した方々も、まだ健在の頃であった。神社の境内も今とは全く違かった。すでに周辺の宅地整理事業は終了していたけど、まだ空き地も多く、緑もずっと多かった。以前に述べたけど、徳丸はもともと不便な所で、今の方がずっと暮らしやすいのだが、子供の頃から想い出多い北野神社だけは、昔の姿のほうが良かったなあ・・。平成ももう20年。昭和は遠くなりにけり、ですね。
獅子舞の詳しい解説は来年にでも。

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今日は徳丸原調練記念日。

14 1841年5月9日、日本の夜明けを告げる一発の砲声が武蔵国武州徳丸原に轟き渡った。今から167年前の板橋区高島平である。(まっ、旧暦だから現在の太陽暦では6月下旬から7月上旬にあたるのかな。)いわずとしれた、高島流による、日本で初めて行われた西洋式砲術調練公式お披露目会である。公式とは、幕閣のお歴々や諸侯の皆々様方の眼前で披露するということですね。この時の様子は、すでに2月のブログ記事で紹介したので、今回は、その後の高島家と、松月院に建つ「高島秋帆先生紀功碑」についての顛末を少々。

 徳丸原調練を終えた秋帆先生は、まさに人生の絶頂期を迎えていた。弟子入りを望む者が殺到し、あの坂本龍馬も高島流の砲術を修得した。しかし、当然の事ながら、それまで幕府の鉄砲方を勤めていた和流砲術(稲富流・井上流)家達は面白くない。また、西洋式(蘭学)を忌み嫌う者も大勢いた。そこで、あの南町奉行の職にあった妖怪・鳥居耀蔵(現在放映中のNHK土曜時代劇「オトコマエ!」で遠山の金さんと対決してますね。)に頼み、あわれ秋帆は翌年長崎で逮捕され江戸へ護送、岡部藩(現在の埼玉県岡部)に預けられ、十年もの間幽閉されてしまう。しかし、1853年(嘉永6年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の鉄砲方、講武所支配及び師範となる。1866年(慶應2年)正月、69歳で死去するまで幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
 
 秋帆先生の生涯を無責任に俯瞰してみると、やっぱり徳丸原調練と長崎に帰って逮捕されるまでがピークであり、情勢が変わり幽閉を解かれた後、一転して幕府に受け入れられるけど、すでに秋帆先生の砲術は過去の物となってしまっていたんですね。国を開けば商人がバンバン武器を売り込みにくる。とくに幕末後期(こんな言い方あるのか?)は、アメリカの南北戦争が終わって余った武器が日本国内になだれ込んで来た。それとともに、実戦で磨かれた最新の戦術も入ってくる。人材難もあり、秋帆先生も砲術指南役として働くけど、残された書画の多さを見ると、洋式砲術の”元祖”として奉られた存在だったような気がします。晩年の文久二年から三年にかけ、英語の先生をしていた孫の太郎、妻の香、砲術指南役を勤めていた息子の浅五郎を次々に亡くし、秋帆先生は一人きりになってしまいます。亡くなる一年前に、御鉄砲製造奉行をしていた福田重固の弟、茂徳が養子に入り、かろうじて高島家は存続します。しかし、茂徳は大砲差図役頭取として明治維新を向えた後、明治三年に新政府に招聘され、草創期の陸軍砲兵科に中佐として奉職し熊本鎮台参謀長として出仕中、神風連の乱が起こる。(1876年に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つで、旧熊本藩の士族太田黒伴雄<おおたぐろともお>、加屋霽堅<かやはるかた>、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。)1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれ、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃した時、戦死してしまった。享年30歳。跡を子息・茂秀がついだが、明治34年、35歳で没。十四代は茂徳の三男・茂松がつぎ、大正4年42歳で没。十五代をついだ茂松の次男・茂正は大正6年にわずか8歳で亡くなってしまった。ここで名門・高島家は断絶の危機に瀕したが、大正9年、秋帆の養子に入った茂徳の兄である福田重固の次男・英の三男、尚文(大正7年生まれ)を高島家・第16代当主として迎えた。
高島尚文さんは平成12年、82歳の長寿を全うして逝去されるが、残念ながら跡取りがおらず、とうとう高島家は絶家になってしまいました。

今回は高島家のその後までで力つきてしまった。「高島秋帆先生紀功碑」については次回ということでお楽しみに・・

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「高島秋帆先生紀功碑」が教えてくれる事

23 さて、赤塚の松月院境内に建つ「高島秋帆先生紀功碑」について。
紀功碑建立の顛末については、2月24日付けの項で解説してありますね。簡単に言うと、第一次大戦後、国際社会の中心をなす欧米列強諸国の一角に、かつてアジアの弱小国に過ぎなかった日本が進出してきた。そのことをウザく感じた列強国が、ワシントン軍縮会議で日本に不利な条件を押し付けた。これにより、ようやく獲得した中国での利権を手放したり、軍事力の縮小を余儀なくされた。このままでは日本国民から軍部に対しての不満が爆発するかもしれない。そこで、軍部では国内向けにいろんなイベントを企画した。その一つが、高島秋帆先生紀功碑の建立だったというわけです。
 大正10年10月、紀功碑建設のための募金活動がおこなわれることになり、趣意書がまとめられた。その発起人・16名を、代表的な役職と略歴を合わせて紹介すると・・・
 
上原勇作  元帥・参謀総長      ”日本工兵の父”と称される。秋山好古と陸軍士官学校の同期
山梨半蔵  大将・陸軍大臣           6万人の軍縮実施
秋山好古  大将・軍事参議官・教育総監   騎兵科・近衛師団長 
一戸兵衛  大将・後備             大正4年 教育総監
井口省吾  大将・後備             日露戦争寺 大本営参謀
本郷房次郎 大将・予備             大正7年 軍事参技官
大迫尚道  大将・後備             野戦砲兵監
尾野實信大将・関東軍司令官         大正12年 軍事参技官
押上森蔵  中将・予備             明治43年 旅順要塞司令官
渡邊岩乃助 中将・砲兵監           大正7年 由良要塞司令官
曾我祐準  中将・枢密顧問官         大正4年 貴族院議員
榊原昇造  中将・予備             大正元年 由良要塞司令官
亀岡泰辰  少将・後備             明治38年 旅順要塞戊司令官
松本直亮  大佐・陸軍省高級副官      昭和8年 大将
細川潤次郎 法制学者・教育者・文学博士  高島秋帆門弟
江川英武  江川坦庵の五男・隠居     兄・英敏の跡目を継ぎ38代韮山代官

・・・う〜む。なるほど、こうして見ると陸軍高級軍人がキラ星のごとく並んでいる。細川・江川氏は当時相当の高齢で、秋帆の縁者として名前だけ連ねたようだ。

 募金開始から約3ヶ月の間に、99団体及び個人213名から、総額7777円77銭の寄付が集まり、天皇・皇后及び13の宮家から下賜金が寄せられた。このうち陸軍省からは資金の三分の一が拠出され、軍関係者からの寄付が90%を占めた。これじゃあ戦後インテリの方々から疎まれるわけですね。
紀功碑建設にあたって、九段坂上の偕行社(陸軍軍人の親睦組織)に事務所を置き、現場事務所は松月院におかれた。紀功碑設置場所は、徳丸原調練の時に隊員宿舎に使われた僧堂跡に決定した。同時に、秋帆先生が指揮を執ったといわれる弁天塚には遺蹟碑(徳丸原の碑・現在、高島平駅近くの徳丸原公園に移設)が建てられることになった。掲出の右写真が遺蹟碑建立の時のもの。中央の人物が上原元帥で、説明をしている紋服姿の人物は赤塚村の長老・浅井已之吉さん(天保15年生まれ)。この弁天塚は、官有地だったが、発起人会によって払い下げの許可を国から得て、資金を赤塚村に渡して(保存管理を赤塚村に託すため)村有地とした。(結局このことが後年高島平団地建設の際に、弁天塚の消滅につながる原因になるんですね。国有地のままだったら現在も残っていたかもしれない。)

 高島秋帆先生紀功碑の建設は、軍人達の組織力によりテキパキと計画通り運び、大正11年12月6日、松月院境内で竣工式が華々しく行われた。高島秋帆先生紀功碑建設報告によると「・・・天気晴朗なるも寒気凛烈たり、朝来発起人場内に参集し時の来るのを待つ(中略)通路の両側には赤塚村両小学校(紅梅・赤塚小学校)貳千の児童は手に手に小国旗を翻し万歳声裡に来賓を迎ふ状快言はん方なし・・・」てな様子だったらしい。だけれども、村民にしたら徳丸原調練の意義なんて知る由もなかったろうし、当時、助郷のように使役された(少しは報償があったろうけど)村民にとっては迷惑なことでしかなかっただろう。紀功碑建立もいきなり天から降って来た事業だったろうし。でもまあ、こんな田舎の農村に偉人がいたなんてありがてえことだ。とにかく目出たいことなんでお祝いしようか、といった調子でしょうね。
碑の本体は、安政6年に鋳造された本物の大筒。周囲を取り巻く火焔付砲弾とともに東京砲兵工廠から下付された。台座正面の銅製銘板は、川口の鋳物師、増田安次郎四代目が製作したもので、二代目・安次郎は秋帆先生や江川坦庵に乞われ、国産大砲の鋳造に偉丈を発揮していた。

・・・それから90年近い歳月を経た現在、紀功碑は松月院が大切に守り続け、松月院には秋帆先生の資料を集めた(だけじゃないけど)立派な宝物殿まである。前回も書いたけど、この「高島秋帆先生紀功碑」は未だ板橋区の文化財には指定されていない。過去に文化財登録の俎上に上がったこともあったが、恒久平和を願う方々の反対により却下となった。それは碑が旧帝国陸軍の思惑によって建てられたからに他ならない。以来、碑のことは封印されてしまった。当時、文化財の審議をする中心となった方々は、戦前戦後の時代を経験してこられ、また世間の空気も、あの辛かった時代を言葉にしなくても共感することが出来た。しかし、戦争を知らない世代が多数を占めるようになった現在、戦争の意味を伝えることはなかなか困難になった。今の板橋区内の小中学校でどんな平和教育が行われているのかは知らないけれど、高島秋帆先生紀功碑の存在は、戦争の意味を考える良い教材だと思いますがねえ。軍隊の存在を教えたり考えたりすることは、軍隊をもてはやすことに繋がるわけではないと思いますけどね。

板橋区には、”陸軍の祖の碑”があること、”ニ造をはじめとする軍需産業”が盛んだったこと、”農村部で穫れる大根がタクアンに加工され糧食として戦地へ送られていた”こと、”帝都防空の為の飛行場が存在し、特攻隊がいた”こと、この4点は知っていた方がいい。

  

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