« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月

成増駅について

Photo_3Photo_4 最初に言い訳を・・年度末と年度始めでいろいろ忙しく、また他の原稿執筆で新ネタ更新が遅れ申し訳なく・・と言う事で今回は資料紹介のみですみません。

 成増駅は大正3年(1914)5月1日に東上鉄道が開通した日に開業した。同日に下板橋駅も開業している。上板橋駅が開業したのは、それから一ヶ月半遅い6月17日だ。成増駅が開業した日の朝、お祝いの花火がポンポンと打ち上げられてそうである。恐らく開業記念の写真も撮られたと思うのだけれど、まだ見た事はない。それどころか戦前も含め昭和30年代に撮られた駅舎や駅周辺の写真もほとんどお目にかかったことがない。いつか出会える日が来ないかなあ・・・。
 
 さてそんな貴重な写真の一つが上の写真だ。おそらく昭和30年前後にグラントハイツの米人さんが撮ったもの。駅舎は今の場所よりも西の方、スキップ通りの坂を下った右手の所にあった。切符は昭和初期〜30年代初期のものです。これはほんの一部でまだ他にもいろいろな種類の切符が発行されている。では申し訳ありませんが、以下、国立公文書館所蔵の成増駅に関する公文書のタイトルを紹介するだけで失礼します。タイトルを見ているだけで東上線の歴史が見えてくるのでけっこう面白いですよ。

成増簡易停車場設計変更の件
1914年5月19日
成増外2駅貨物上家増築の件
1914年8月5日
成増停車場設計変更の件
1915年3月31日
成増停車場側線増設工事竣功届
1915年4月10日
成増停車場設計変更の件
1917年3月29日
成増停車場側線変更工事竣功届
1917年4年27日
成増簡易停車場を本停車場に変更及同停車場構内百分一勾配存置の件
1918年3月15日
成増停車場設計変更の件届
1923年12月27日
成増外5停車場設計変更の件
1929年11月28日
池袋、成増間工事方法変更の件
1935年2月22日
上板橋、成増間保安設備変更の件
1935年12月21日
成増停車場設計変更の件
1935年12月21日
上板橋、成増間複線使用開始の件
1935年12月27日
成増、志木間工事方法変更の件
1937月1月26日
成増、志木間工事方法変更の件
1937年4月21日
成増、志木間複線使用開始の件
1937年4月23日
成増停車場運転信号保安設備変更の件
1937年12月20日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

上板橋駅について

Photo まだ一つ取り上げていなかった東上線の駅がありました。上板橋駅です。
開業は大正3(1914)年6月17日、現在の板橋区内の東上線駅としては3番目の駅として誕生。基本情報はいつものごとくウイキその他で調べて下さい・・。と、それは置いといて、なぜ紹介が最後になったかというと、開業時のことなど私もたいした情報を持っていないからなんですよ。上板橋駅についてはホント、昔の写真が見当たらない。昭和10年頃に池袋側のホームの一部が写った写真を見た記憶があるくらいですね。個別ネタとしては啓志線の分岐のこととか、これから紹介する公文書のタイトルの中にも興味深いものがちらほら・・それらの話題はまたの機会にでも取り上げます。
 
 さて今回の切符ですが、いままであまり載せなかった種類のものを選んでみました。中でもめずらしいのは、左下の軟券ですかね。駅名はゴム印、着駅は手書き。専門用語では補充式券と言います。薄い紙に印刷されており、連続して印刷された切符を1枚1枚ちぎって販売しました。日付はないけど、終戦直後の極端に物資が不足した時代の代物ですね。実物はほんとうにペラペラの紙で、当時の厳しい状況がよくわかります。では公文書のタイトルを年代順に。

上板橋、新川岸停車場使用開始の件
1914年6月9日
板橋、新川岸停車場設計変更の件
1914年6月13日
上板橋及新川岸停車場使用開始届(官掲)
1914年6月20日
下板橋、上板橋間仮側線敷設の件認可
1922年8月22日
西新井、上板橋間延長線敷設免許の件許可
1924年5月5日
西新井、上板橋間敷設免許線路記入図の件回答
1924年5月14日
鹿浜、上板橋間工事施行認可申請期限延期の件許可
1925年5月13日
鹿浜、上板橋間工事施行申請期限に関する件
1926年7月3日
鹿浜、上板橋間工事施行認可申請に関する件
1928年7月5日
新宿、上板橋間鉄道延長線敷設願却下の件
1931年4月7日
鹿浜、上板橋間鉄道起業廃止の件
1932年7月22日
鹿浜、上板橋間工事施行認可申請書返付の件
1932年8月3日
上板橋、鶴瀬間電気工事方法変更の件
1934年4月6日
上板橋外17停車場設計変更の件
1934年4月12日
下板橋起点1粁160、上板橋間複線使用開始の件
1935年3月12日
上板橋、成増間保安設備変更の件
1935年12月21日
上板橋停車場図訂正に関する件通牒
1935年12月24日
上板橋、成増間複線使用開始の件
1935年12月27日
東武鉄道上板橋停車場設計変更認可並に下板橋外13停車場設備変更届供覧の件
1938年6月21日
上板橋停車場設計変更の件
1940年5月17日
東武鉄道(株)の上板橋、田柄町間地方鉄道免許申請書返付について
1961年10月13日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋駅の真相は如何に。

Photo それでは大トリ、板橋区内の駅シリーズ最後を飾る駅、そう最初にして最古の駅・JR板橋駅の紹介です。いつものごとく基本情報はウイキ他へどうぞ! なんて手抜きで毎度申し訳ありません。
 
 板橋駅は、明治18年3月1日に日本鉄道会社の駅として開業した。最初は官営の鉄道駅ではなく、私鉄の駅だったんですね。もともと官営として上野から高崎まで測量していたけど、西南の役など内乱が続き財政が逼迫してしまったので、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになったのだ。
はじめに開業したのが上野〜熊谷間で明治16年7月の事。板橋駅は品川〜赤羽間にできた日本鉄道の支線の開業に合わせ、渋谷、新宿、赤羽駅などと共に開設された。では本題と行きましょう。と、その前に切符の解説をしないといけませんね。左上は大正時代後期のもの。何だか見た事あるな、と思われた方は記憶力のいい人です。そう、成増駅の項で紹介した昭和4年の東上線切符と似てますね。これ、写真ではハッキリわからないけど同じ地紋の切符なんです。”JGRてつだうしやう”というデザイン文字が印刷されています。てつだうしやう鉄道省のことで、JRの前の国鉄の前の時代ですね。国営鉄道に乗り換える場合は自社線の切符ではなく、国営の切符を使っていたようです。(ここらへん鉄道に詳しい方からつっこみがありそうですが・・)ちなみに、東上鉄道時代は””の字を円形にぐるりと描いた地紋で、東武鉄道に買収されてからは”三重丸に亀”みたいな(正式名称がわからないので便宜的にこう書きます)地紋を使用しました。すみませんが、切符の種類の解説をしていると切りがないので、今回はこの辺で。

 いよいよ本題といきます。それは、板橋駅はなぜあの場所(板橋区板橋一丁目)に出来たのか?ということ。最初に断っておきますが、私も未だに知りません。東上線の駅の場合は、公文書などである程度解明できます。でも、板橋駅が何故あの位置に設置されたのかという明快な答えは、まだ解明されていないようです。
 日本鉄道線は、基本的には当時の大動脈、中山道に沿うように作られました。板橋駅も中山道に近い位置にあります。駅が設置されたころは、まわりには何もなく、まったくの原っぱだったそうです。板橋駅にほど近い場所に、あの有名な近藤勇の墓があります。明治8年、新撰組隊士の生き残り・永倉新八の発意で建てられたものだ。明治10年代に撮影された碑の写真を見ると、何もない原っぱだったことがよくわかります。では何故そんな何もない所に駅を作ったのか・・・よくその理由として語られることが、鉄道敷設により不利益を被る街道筋の宿場住人による圧力でルートが変更されたり、駅が辺鄙な場所へ追いやられてしまった、という説です。あと、機関車の煤煙による火の粉で茅葺きの屋根が燃えて火事になるから反対、というのもありますね。何れも、まあそう言われればそうなのかな、という理由に聞こえます。特に、権威のある本に(県史とか区史とか)書かれてあればなおさらです。ところが、最近上梓された青木栄一著「鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町」吉川弘文館発行を読むと、まさに目から鱗が落ちるとはこのことか、と考えさせられてしまいます。青木先生は学芸大学の名誉教授であり、鉄道研究の第一人者としてその筋では大変有名な方です。よく東武鉄道関係の展示会で講演会を行ったり、鉄道ピクトリアルの特集号でも論文の執筆をされたりしています。
 本の内容をざっと解説すると、鉄道の敷設とは、そのルートを設定するにあたり、勾配を避けるとか、橋の本数を減らすとか、もっと技術的、経済的な理由により科学的に決められるもので、決して宿場の反対によるとかそんな感情的な問題だけが理由ではないということを、一時資料を使って丁寧に解説したものです。青木先生の調査では、各地の人々が鉄道建設に反対したという史料は全く見つからず、逆に誘致運動の史料ばかりが発見される、という状態だったのだとか。よく当時の地図を見て鉄道の経路を検討すれば、なぜその町を避けたのかということがみえてくるのだそうです。確かに、明治時代に陸軍が作成した等高線の描かれた地図を見ると、なるほど板橋駅がその路線のルート上の一番板橋宿(中山道)に近い部分に設置されていることが、なんとなく理解できます。前に、徳丸原について書いた時に、砲術演習場としての機能は幕末で終わり、明治時代以降は開墾されて田んぼになった。ということに異を唱え、実際には戦前まで軍が、昭和30年代までは自衛隊が演習を行っていたのではないか、と書きましたがそういうこともある、ということなんですね。(さすがに砲術演習はしていないと思いますが。)

物事は一面から見て闇雲に信じてしまうのはいけないんだ、ということが今日の結論です。(私が書くことも疑って下さいネ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋駅のついでに。

Photo 昨日、書き忘れたことがあった。板橋駅の写真のことである。私が見たことがある古い写真は、戦前では大正期に撮られたもの1点(大正13年刊「板橋町誌」掲載)と、板橋区史で見た昭和30年代か40年代に撮られた写真くらいですかね。あと、旧交通博物館に所蔵(鉄道博物館へ移管)されていた、宮家の方が昭和10年代に撮った写真もありました。でもこの写真、現在のアパホテルの辺りから撮影したらしく、崖の上にホームがちょこっと写っているくらいで、失礼ながらあまりよろしくない(板橋駅の写真としては)ですね。明治時代の写真、どこかにありませんかねえ。いつか巡り会えればいいのですが。
左の駅名版は赤羽線時代のもの。”いたばし区”の看板ではありませんので念のため。赤羽線のイメージカラーだった黄色で縁取られてます。そうそう、今は埼京線の一部になっていますが埼京線は通称であり、いまでも本名?は赤羽線だ。池袋〜赤羽間の踏切にはちゃんと”赤羽線”と書いてありますので、お確かめ下さい。この駅名板は十年くらい前に青梅の鉄道公園の売店で購入しました。

 話は変わりますが、前回、板橋駅近くにある近藤勇の墓について触れました。そう、近藤勇は、慶応4年4月25日に板橋宿はずれの平尾一里塚付近で斬首された。ここらあたりは、俗に「板橋刑場」と呼ばれています。”俗に”としたのにはウンチクがある。以前、歴史に詳しい方から伺った話しですが、いわゆる板橋刑場なるものは存在していない、ということ。東海道筋の鈴ヶ森刑場、日光街道筋の小塚原刑場、これらは公式の刑場として存在していた。しかし、板橋については、幕府の公式記録にはそんな名称は出てこないのだそうだ。罪人を処罰する際は、宿場はずれの人気のない場所で行われるのが普通で、(中山道の江戸への出入り口である)板橋宿の場合は、だいたい平尾一里塚のあたりで行われた、ということなんですね。だから”板橋刑場”なんて看板が掛かった門や建物なんかは無いんです。あくまでも茫漠とした原野でしかない。数年前のNHK大河ドラマ「新選組!」の最終話で、いかにも刑場という場所や建物があるように放送されていたけど、あんな物は無いんですね。ただし、近藤勇の処刑は見せしめの意味もあり、公開処刑のように行われたので、臨時に柵などなにがしかの建築物が作られたのかもしれない。子母沢寛の「新選組始末記」にはそんな描写がありますね。
 なにかの投票で、板橋区のHPの評判がワーストに選ばれたのがきっかけとなったのか、最近、HPが全面リニューアルして公開された。その中の産業経済部・くらしと観光課のページでも、近藤勇は板橋刑場で処刑された、とあるのだけれど、細かい事だが、せめて、板橋の刑場で処刑された、と表記した方がいいのかしらん。と思ったりする。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

今日は板橋大空襲記念日。

Photo_4Photo_5Photo_6 今回は趣向を変えた話題をひとつ。
いまからちょうど63年前の4月13日から14日にかけての深夜、東京北西部地域は米軍による大空爆に晒された。帝都への本格空襲は昭和19年11月24日より始まったが、第一目標は三鷹地域にあった中島飛行機武蔵野工場で、第二目標が隅田川河口部や荒川河口部のいわゆる下町地域だった。米軍はこの頃までに目的を達し、ターゲットを京浜地区や東京北西部の工業地帯に移した。

 板橋地域への空襲は、昭和19年12月3日から始まったようだが、中島飛行機への攻撃のついでに狙われたり、成増飛行場周辺の高射砲陣地を狙った限定的な物で、明確に空爆目標とされて攻撃が行われたのは、4月13日の空襲からだった。来襲機数はB29・348機、爆弾・81.9トン、焼夷弾・2037.7トンが費やされた。これは3月10日の大空襲時よりも多い量だ。しかし全体の死者約2500人、負傷者約5000人と、被害はずっと少なかった。これは、下町地域に比べて地理的な条件が良く、家の密集も少なかったのが幸いしたものだった。しかし、池袋周辺と山手線に沿う地域は甚大な被害を被った。金井窪駅の項でもふれたけど、板橋区域ではおもに東側地域に被害が集中していた。これは、今の加賀地区にあった陸軍第二造兵廠や、志村地域の工業地帯が狙われたからだ。第二造兵廠は、明治維新後の加賀藩下屋敷跡に出来た火薬製造工場から始まった。その後埼京線を挟んだ北区側に弾薬などの製造を目的とする第一造兵廠が作られ、それらはトロッコ貨車で結ばれて板橋で製造した火薬を運び、製品化まで行う一大兵器工場地帯を形成していた。ところが皮肉なことに、第二造兵廠は戦争が終わるまでほとんど被害を受けることがなかったようである。火薬製造工場は爆発の危険があるので、工場の回りを土塁で囲ったり、爆風被害を抑えるために下屋敷時代の森を多く残したので、それが遮蔽の効果を高めたのだろうか。
板橋区(練馬区は含まず)で最大の犠牲者を出したのは、6月10日の空襲時の269名。このときは中島飛行機がターゲットだったが、目標に落としきれなかった爆弾を城北地域に捨てて行ったようだ。(酷い話しですね。)
 
 左側の空中写真は8月10日の空襲時にB29より撮影されたもの。この日は午前中の空襲だった。ターゲットは赤羽周辺(写真上部には”KAWAGUCHI”と記載されているが認識違いだろう)の造兵廠や工業地帯で、写真からも赤羽付近や小豆沢地域が激しく爆撃されている様子が伺える。真ん中の写真は私が所有するM69焼夷弾(水戸大空襲時のもの・長さ50センチ)、右の写真が、まさに左写真の10日の空爆時に落とされ、2000年2月、三田線志村三丁目駅に隣接するショッピングセンター工事中に発見された2000ポンド爆弾(1トン爆弾)だ。不発弾処理の様子を見たが、ちょうどこの辺りは深い泥田だったようで、爆弾は地中6メートル付近で埋もれたまま、55年余りも眠り続けていた。信管除去作業は約10分程度で終了したけど、これは爆弾が錆びてボロボロになっていたのではなく、“生きていた”状態だったからで、考えてみれば恐ろしいことだ。信管をはずしたネジ穴がピカピカと不気味に光っていたのを憶えている。焼夷弾の中にはゼリー状のガソリン(ナパーム剤)が詰められていた。以前、自衛隊で火炎放射器の噴射を見たことがあるけど、バーナーみたいな炎ではなく“液体“のような炎だった印象があるが、こんなもの落とされたら消すのは容易ではなかっただろう。

 板橋区役所では、区内の空襲被害を纏めた「板橋区平和記念マップ」という地図を最近発行したので、機会があったらご覧になって下さい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

神様と出会った日

PhotoPhoto_2 以前、成増陸軍飛行場について触れた。その時は年表風にさらっと流したが、成増飛行場については思う所がいろいろある。
写真の人物、さてこの方はどういう人であるかわかるだろうか。もちろん飛行場に大いに関係のある方だ。正確には独立飛行第47戦隊に所属されていた。。そう、日本陸軍最高傑作の一つと評価された、中島キ-84「疾風」の整備にかけては”神様”と謳われた名整備士、刈谷正意・元中尉である。陸軍戦闘機好きの方ならお名前を目にしたことがあるかもしれない。残念ながら、平成14年11月に逝去されてしまった。

 刈谷さんは、成増駅にほど近い東上線の線路の側の家に暮らしておられた。私は何度かお宅へお邪魔し、いろいろとお話を伺う光栄な機会をいただいていた。ある時、軍事収集家から「疾風」の主輪なるものを譲ってもらった。さっそく、私はその主輪を持って刈谷さん宅を訪れ、鑑定をしていただいた。写真はその時に撮影したものである。
とにかく刈谷さんは頭脳明晰で、飛行機のメカニカルな話を、まったく参考書など見ることなく説明をしてくれた。また、パソコンも自由に使いこなしておられるのには驚いた。当時、まだあまり一般家庭にはパソコンは普及しておらず、ましてや80歳をとうに越えている方が扱うような代物ではなかった。さすがに整備の神様と謳われただけはある方だった。疾風の主輪の他に、エンジンのハ四五の部品の一部を持っていたので、”これはどこの部品かわかりますか?”と質問をした所、試されたのかと思ったのか、フフン、と笑いながらサインペンを取り、紙にすらすらとその部品がエンジンプラグを繋ぐ部品の一部であることを描きながら説明してくれたりもした。私は軍事オタクではないので、あまり戦闘機のメカニックには詳しくなく、良い質問が出来なかったのを今でも悔やんでいる。その中でも、面白かった話がある。それは二式戦「鍾馗」についてのエピソードだ。
 二式単座戦闘機「鍾馗」は陸軍最初の重戦闘機として誕生した。刈谷さんは、その設計段階から関わっておられた。大東亜戦争が始まる昭和16年夏、この陸軍新鋭機の試作機を集め独立飛行第47中隊が編成された。この時、刈谷さんも整備隊のエキスパートとして中隊に参加していた。空中勤務者(陸軍航空隊での名称・パイロット)には、後に、あの加藤隼戦闘隊の中隊長として有名になる黒江保彦氏もおられた。鍾馗は、訓練でドイツから輸入したメッサーシュミット・Bf109E7との模擬空戦を行ない、圧倒する成績おさめていた。
大東亜戦争開戦の四日前、47中隊は南方へ向け編成地であった福生飛行場を飛び立った。当時「鍾馗」は増槽を装備していなかったので長い距離を飛べず、各地の基地を転々としながら南方へ向かった。そしてようやく当初の目的地、ベトナムのサイゴンに到着してみると困った問題が起こった。それは、日本で施して来た機体の迷彩の色が現地では合わなかったのだ。迷彩は茶褐色で塗られていたが、サイゴンはジャングル地帯であり、緑系統の色にするべきだったのだ。刈谷さんは「あれはドイツから持って来たメッサーシュミットの迷彩を真似て塗ったんですな。あれね、砂漠仕様だったんですよ。いや〜まいりましたね。」と言って、はっはっは、と笑っておられた。戦記本などでは、現地の土の色に合わせた、とか様々に書かれているけど、真相はこんなことだったのだ。また、開戦初期の頃は、敵の飛行場から鹵獲してきた航空オイルを使用していたと言う。もちろん、国内産よりも質が良かったからだ。「敵と戦うのに敵のオイル使って戦争してたんですからねえ。」とおっしゃっていた。

 その後刈谷さんは中隊と同時期に日本へ戻り、防空戦隊として編成替えされた独立飛行47戦隊の整備中隊長として成増へ赴任した。当時すでに将校だった刈谷さんは、営外で下宿することを許されていたので、整備中隊のあった現在の赤塚新町ゆりの木団地近くに住み、終戦後もずっと暮らしてこられた。
終戦から50年目の平成7年8月15日、練馬区の光が丘体育館入り口近く(旧成増飛行場主滑走路地点)に平和記念碑が建てられた。この日、成増飛行場の関係者による戦友会「成増会」も式典に招待され、会長の刈谷さんを先頭に、大勢の元隊員達が集まった。刈谷さんが旧成増飛行場に足を踏み入れたのは、その時が終戦以来、初めてのことだったそうである。  

〜この項続く〜
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

成増会の無念

PhotoPhoto_2 左の写真は、平成7年(1995年)8月15日、練馬区光が丘体育館そばに、終戦50周年を記念して建てられた”平和への祈り”の碑の除幕式後、成増陸軍飛行場を根拠地とした飛行第47戦隊と第43飛行場大隊の元隊員達による戦友会「成増会」の人々が集合した記念写真である。会長だった刈谷さんをはじめ、すでに鬼籍に入られた方も多い。

 平和への祈りの碑がどのような経過で建てられたのかは知らないけれど、昭和49年にグラント・ハイツが返還されて早い時期に、成増会による飛行場関係戦没者慰霊碑建立の願い出は、練馬区に対して再三行なわれていたという。しかし願いは一向に叶えられず、ようやく終戦50年を経て建てられることになったというわけだ。
建立に時間がかかったのには様々な理由がある。成増飛行場の建設により土地を強制的に取り上げられてしまった人々や、飛行場を狙って飛来した米軍機により被害を受けた人々の恨み、強制的な労働に駆り出されたと主張する方々の運動等々、練馬区や東京都の立場としてはなかなか受け入れるには難しい代物であった。そして、それらの問題に極力配慮した結果、ようやく建立されたのが「平和への祈りの碑」だったのだ。しかし、その碑はあくまでも”平和への祈り”の碑であり、成増会が望んだ、先の戦争により命を落とした仲間の名前を刻んだ慰霊碑とは違う物であった。
成増会では平和の碑の隣に、副碑として慰霊碑を建てて欲しかったのだが、それはついに叶えられなかった。そこで、他の土地に慰霊碑を建てようと奔走したが、会長の刈谷さんの逝去により断念せざるを得なくなってしまった。また、同時に進められていた47戦隊史の製作も頓挫してしまったのである。
刈谷さんを失った成増会は会員の高齢化も進み急速に求心力を失い、とうとう会自体も解散してしまうのであった。慰霊碑建立のために集めた浄財は会員同意のもと、飛行場関係戦没者への永代供養代として、靖国神社に奉納された。

 成増会は解散してしまったが、実は、いまでも年老いた有志達が集まり、毎年10月の隊結成の記念日に、靖国神社への昇殿参拝がひっそりと続けられている。彼らの戦後は、まだ終わらないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

達人と歩く板橋区・前編

Photo 今回は有名人偏で行きましょう。本日の主役は・・・コラムニストとして著名な泉麻人氏です。
泉センセとは約10年程前に、バス関係の資料提供を介して知り合いました。そう、センセは何よりもバスが好きなんですね。以来、板橋区周辺の取材の折には案内をしたり同行したりさせていただいております。私はときどきセンセのコラムで、話の構成上により様々な肩書きの人物で登場したりしております。この日(今から数年前)は東京新聞で連載していた”僕の初めて降りる駅”をテーマとした記事の取材で、中板橋駅〜大谷口・水道タンク前まで歩きました。大谷口の水道タンクの取り壊しが決定したことをお伝えした時、中板橋駅で降りたことがないから、そこから歩きましょう。ということで取材が始まりました。写真は中板橋駅南口窓口でさっそく東上線パスネットを購入する泉センセ。


Photo_2 中板橋南口商店街を歩きはじめる泉センセ。最近あまりテレビ出演されることはないのですが、やはりお顔は割れているらしく、道行く人も気がつく方が多いですね。前に日比谷公園のバスイベントにゲストではなく、いちお客として出向いた時なども人が集まって来て大変でした。見知らぬ人がわらわら寄って来て声をかけて来てそれに答える。そばで見てて大変だなあ〜と思いました。

Photo_4 泉センセは基本的に”うわの空の人”といった感じで、一緒に歩いていて、ここはこうなんですよ、と解説しても、ご自分の興味を引かない物の場合は迷惑そうな顔、というか聞いてない感じで聞いてます。頭の中で何事か常に構成を考えている、といったところでしょうか。逆に、興味を引く物を見つけたときは、”これさ、これさ、こうなんだよね。”とお顔を赤く上気させてこちらに確認を求めてこられます。
おやっ?ある、昭和の香りを残すパン屋さんの先に何かを見つけたようです。

Photo_5 と、一度店の前を通り過ぎましたが”やっぱりこの店、気になるな〜”と戻って来てお店に入り、パンをお買い求めになりました。この時お店の方に”このお店はいつからやってるんですかあ?”など二三質問をしておられました。


Photo_6 センセは旧川越街道沿いに建つ、ある古い家に興味を示されたようです。さすがセンセ、この家はあの”説教強盗”の舞台となったこともあるお宅でした。

説教強盗とは、こんな事件です。1926年(大正15年)から29年にかけて、府内で「泥棒除けには犬を飼いなさい」「戸締りは厳重におこないなさい」と親切?にも忠告して、金を奪う強盗事件が相次いだ。犯人は一向につかまらず、警察の他に、青年団や在郷軍人が自警団までつくるほどで、この強盗犯に対して、朝日新聞・三浦守(のちに作家・三角寛)は「説教強盗」という名をつけた。これは一躍流行語となり、国会でもこの問題について取り上げられたほどだったんですね。このお店はお米屋さんで、大正15年12月16日に一度強盗に入られ、その時、店のガラスから犯人の指紋が採取されました。さらにこの店は昭和2年10月26日に゛説教強盗魔゛に入られた。特捜班は、この2つの強盗事件は同一犯とみて指紋の照合を行い、それがきっかけで強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件を犯していた犯人の逮捕に至ったというわけなのです。

昭和の怪事件。いかにも泉センセの興味を引く事柄ですね。 以下、後編へ続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

達人と歩く板橋区・後編

Photo お待たせしました。泉麻人センセと歩く板橋区、後編の出発です。

中板橋駅から旧川越街道に出て、いったん常盤台方向に歩き、石神井川の下頭橋の取材をしてから引き返す。写真は豊敬稲荷神社の境内に建つ、上板橋宿の案内板をメモするセンセ。とりあえずデジカメでメモ写真をパチり、なんて手抜きをせずに、熱心に書き写します。書き写すと同時に頭にも入れているようですね。今でも泉センセは原稿を書くとき、原稿用紙にエンピツ書きです。


Photo_2 ちょっと飛びますが、日大病院裏の住宅密集地を行く泉センセ。ここら辺は、戦時中には防空壕があるばかりの谷間の地でしたが、戦後あれよあれよと家屋が密集し消防自動車も入れない地域に。しかし、水道タンク取り壊しを象徴とする東京都道420号鮫洲大山線(大山駅とハッピーロード商店街の危機の項・参照)建設計画の進展とあわせるかのように整理作業が進められ、現在だいぶ空き地になった所が増えました。でもこの土地、今後どんな風に変るのでしょうか?土地区画整理の計画書はおそらく板橋区役所で閲覧出来ると思いますが、まあ、見守って行きましょう。

取材時、泉センセは「へ〜」といいながら黙々と歩いてました。こういう場所は大好きなようです。


Photo_3 さて終点の水道タンクまでやってきました。泉センセは水道タンクには特に思い入れがあり、氏のコラムでは何度も取り上げられています。もっともセンセが思い入れのあるのは江古田にある水道タンクのほうで、中を探検したこともあるのだとか。大谷口のタンクも、この取材の何週間か前、地域住民向けにひっそりと公開されましたが、残念ながら情報が入らず見逃してしまいました。
タンクを見上げながら中板橋駅近くで買ったサンドイッチを食す泉センセ。その胸中やいかに。


Photo_4 タンクをバックにパチり。回りはすっかり整理されてしまいました。ちょうど泉センセの後ろの木の所に公園があって、子供の頃遊んだ想い出があります。
現在、すでにタンクは撤去されてしまいましたが、私個人の感想としては、水道タンクは使命を終え無用の長物と化していたけれど、80年近くもランドマークとして親しまれてきた物が姿を消すのは残念無念との思いがあります。あんな異様な建物は板橋区には他にありません。


Photo_5 最後にこの時の取材を元に描かれた記事をどうぞ。
記事中、中板橋駅舎が昭和8年開業当時のまま、と綴られてますが、この駅舎は戦後に建てられたもののようです。やはり説教強盗のエピソードが気に入ったようで、センセのお気に入りの、昭和のエピソードを集めた本にも取り上げられているとおっしゃっていました。取材中のセンセは非常にもの静か。さすがにインタビュー取材するときはテンションを上げますが、前回書いたように、うわの空〜な感じで街を歩かれます。今日もどこかの街をうわの空で歩いておられるのでしょうか・・・

この記事は新聞紙面の三分の二を使って描かれます。泉センセが歩いたのちに新聞記者が後追いで取材し、地域のイラスト地図とともに掲載されます。センセが取材されたパン屋さんは特に大きく取り上げられ、広告費に換算したら百万円くらいするのでは。ホントに通りすがりに何気なく店に入り、滞在時間は5分もなかったのでは。有名人がありがたがられる訳ですねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »