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いったい何を信じれば・・幻の金井窪駅伝説

12 前回、中板橋駅のことを取り上げたので、今度は東上線史上でもナゾな存在の「金井窪駅」について考察してみよう。
金井窪駅は下板橋と大山の間にあった駅で、開業は大山駅より1か月ほど後の昭和6年9月27日。昭和20年4月15日に廃止された。

 金井窪駅は大山駅を池袋方向へ進み山手通りの陸橋を過ぎたあたりにあった(中山道から続く高田道が線路とぶつかったところ)。隣接する駅との距離が短く、特に下板橋駅とは400mしか離れておらず、日本で一番駅間の短い駅とまで言われていたそうだ。昭和20年4月13日の空襲により一帯が焼け野原となるまでは、この道沿いには商店街が広がり、板橋帝国館という板橋でも最古に近い映画館もあり、また乗り合いバスも走るくらい栄えていた。そのころは今の賑やかな大山商店街は存在せず、付近の住民もこちらへ買い物に来ていたそうだ。今でも、なんとなくそんな面影が残っているような・・気もしますネ。金井窪駅についてはあまり資料も残っていないので、いろいろ憶測も混じった情報が流れていて、廃止時の状況もよくわかっていないのが実情だ。一般的には空襲で焼け落ちて廃止になった。とされている。そこで、おそらくはもっとも信用出来ると思われる資料を紹介しよう。出典は平成元年8月5日付の広報いたばしだ。この号の広報いたばしでは「いたばし掘り出し物語」と題し、見開きページで数名の方がいろいろな思い出話を紹介している。その中で戦時中、東上線下板橋信号所(今の留置線の所)に勤務ていた方と、あの空襲時に金井窪駅の駅員をしていた田山さんという方の証言が綴られていた。その田山さんの話を要約して引用する。

 「私は昭和17年9月に東武鉄道に入社し、18年から金井窪駅に勤務していました。駅舎は約10坪くらいのモルタル造りで小さなものでしたが当時ではモダンな造りでした。ホームは上り下りに一本ずつあって、3両編成の電車がやっと止まれる長さで、1両分ぐらいの屋根がついていました。駅に配属されていた職員は6〜7人で、3人交代で勤務していました。勤務時間は朝9時から翌朝9時までの24時間で、最終電車から始発電車までの間は駅舎の仮眠室で休みをとりました。私以外の駅員は女性でしたが、下板橋信号所の前に女性用の宿泊施設があり、ここで仮眠していました。駅舎からホームへ昇るスロープのわきには防空壕が掘られていて、空襲警報が出ると駅員一同逃げ込みました。
私は昭和20年4月13日は1泊2日で旅行に行っていました。翌朝東京へ帰ろうと駅へ行くと空襲で東京の鉄道は止まっているとのこと。それでもどうにか高田馬場駅まで辿り着きましたが、ここからは歩かなくてはなりませんでした。線路づたいに池袋まで歩き、さらに東上線の線路を進むと、東武堀之内駅(現・北池袋駅)と下板橋駅は焼け落ち、付近はまだくすぶり異臭がしました。下板橋駅の線路には黒こげの死体がころがっていました。金井窪駅は被害は受けませんでしたが、まわりの家がすべて焼けてしまい駅の業務は中止されました。その後しばらくの間駅舎は、下板橋保線区の区長が住宅として使用していました。戦後、練馬区にグラントハイツができて下板橋操車場で取り扱う貨物の量が急増し、貨車の入れ替えのため引き込み線を延長する必要があったので、金井窪駅はなくなってしまいました。」

以上がだいたいの経過です。田山さんの証言により、金井窪駅は空襲では焼けなかったということがわかりましたね。私がこのネタを仕入れたのは10年以上前で、いくつかの媒体にも発表したことがある。ところが最近のこと、中板橋駅の件でも触れた国立公文書館の公文書に、こんなものがあることを見つけた。

昭和二十年三月二十八日
鐵軌統事第五二一号
運輸通信大臣殿
東武鉄道東上線金井窪停留場運輸営業休止の件
昭和二十年三月五日付工第三八八号を以て東上線金井窪停留場運輸営業休止の議左記概要に依り申請有乃候に付三月二十八日鐵軌統事第五二一号ヲ以て昭和二十三年三月三十一日迄許可候條此段及報告候

理由
本停留所は隣接駅間近距離(下板橋金井窪間〇粁四分 金井窪、大山間〇粁六分)にして運輸営業を休止するも利用者に及ぼす影響極めて僅少なりと被認のみならず窮屈なる運輸要因の配置重点的配置及車両保守上位に時局下諸資材の重点的活用の見地より之を休止し依って発生する資材を輸送力増強上重要なる他の施設に転用せんとするものなり

な、なんと金井窪駅は昭和20年3月31日をもって運輸営業を中止していたのか?? では田山さんの証言はどういうことなんだ??・・なんていうのは早とちりで、申請は出されたけど、どうなったのかまではまだこの段階ではわからないんですね。この他「東上線金井窪停留場運輸営業休止の件」19450405ー昭和20年4月5日 なんて公文書もあるし、おそらく営業休止の話はあったけど、13日の空襲時点ではまだ通達されていなかったのでしょう。で、結局空襲後に駅は使用停止され、田山さんの証言通り、引き込み線延長のために撤去されてしまった。ということなのでしょう。

いずれにせよ、金井窪駅は短命に終わる運命だった・・というのが本日の結論です。

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コメント

またのカキコミです。
「東上線は秩父より石灰を運んで来る鉄道です」と、教わってきました。
下板橋駅はその駅だとばかり思っていました。
でもよく考えてみると、当時の板橋の中心、繁華街は四ッ又(今の区役所周辺)ですので金井窪駅が在ってもおかしくないですね。
私の祖父(明治26年生まれ)は大正12年ごろまで川越に住んでいましたが、親方が「店を持たせてやる」の言葉で、
川越から電車に乗り、上板橋の駅で降り、川越街道沿いに歩いて中板橋あたりの店の人に
「大山に駅が出来るからあそこら辺がいいぞ!」 (当時・大山と言う地名はなく、駅の名前で地名が後からついてきたと聞きました)
と言うアドバイスでこの地に店を持ったそうです。その当時から駅の移転はわかっていたようですね。

投稿: さくじ (板橋在住) | 2009年6月13日 (土) 00時42分

>>さくじ さま

コメントをありがとうございます。
上の記事にもありますように、大山駅は金井窪駅が移転して出来た駅ではありません。金井窪駅廃止は、戦争末期のお上(軍)の指示によるものでしょう。

投稿: オーク | 2009年6月13日 (土) 07時01分

母の実家で、滝野川に住んでいた祖母が「かないくぼ、金井窪…」と言っていたのを思い出しています。我が家はこの駅の近くにあったのをつい最近知りました。

命からがら、父の郷里(埼玉県ときがわ町)へ疎開したのでしょう。 洋画家、児島善三郎の作品、「下板橋」に感動しています。

いつか、この辺を散策してみようと思います。 志木在住 76歳

 

投稿: ひろゆき | 2020年6月26日 (金) 18時45分

>>ひろゆきさま
コメントをありがとうございます。来年の話ですが、板橋区立公文書館が主催する「金井窪」の展示が、板橋区立郷土資料館にて行われますので、是非、お越しくださいませ。

投稿: オーク | 2020年6月26日 (金) 20時52分

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