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板橋区と飛行機

Photo 3月から新テーマで、と考えたのはいいけど思いつかないので、先日、板橋区役所の産業活性化推進室からある書類が届いたので、そこから話題をひろってみよう。
昨年11月15日から17日にかけて、「第11回いたばし産業見本市」が板橋区立東板橋体育館で行われました。その見本市で、特別展示として「AEROSPACE in ITABASHI 〜板橋・航空産業展」の展示が企画された。簡単に言うと、高付加価値で今後成長の見込める航空産業に板橋区の中小企業も積極的に参加しよう、とアピールする企画ですね。板橋区は東京近郊の農村地帯だったけど、明治維新後、加賀藩の下屋敷跡に火薬工場が造られてから志村周辺には工場が次々と出来、工業の盛んな地でもあったのだ。(特に有名だったのがカメラなどの精密機器製造)高度成長期が過ぎてからは徐々に工場の数は減少し、バブル崩壊後はその流れが加速して、工場跡にはどんどんマンションやショッピングセンターなどが建つようになったけど、それでもまだまだ頑張っている工場も多い。で、その産業見本市の展示の中で板橋区と飛行機の関わりについてのコーナーを作る時に、協力を頼まれて資料を提供したという次第で、先日届いた書類はその結果報告書だったのです。板橋区と飛行機?なんて一見、結びつかないけど、今回はそのうちの一つを紹介しましょう。まずは常盤台に存在した前野飛行場について。
 
 板橋区発行の冊子の中で前野飛行場について多少の記事が載っているので、聞いた事のある方もおられると思います。しかし、それらの記事は古老による回想談、という形で断片的に紹介されてきたもので、実態は良くわかっていません。特に、前野飛行場の経営者であった遠藤辰五郎については「年は40過ぎでヒゲ顔の退役軍人」くらいしか伝わっていませんでした。
 ここで、前野飛行場についてのおさらいをしてみましょう。飛行場の存在した現在の常盤台一帯は、昭和初期、“字向屋敷の前野っ原”と云われ、ほとんどが畑地でした。昭和3年頃、東武伊勢崎線西新井駅と東上線上板橋駅を結ぶ新路線を計画していた東武鉄道は、この土地を貨物操車場として利用しようと買収を行った。この計画は、後に資金難により頓挫し、結局、宅地開発を行い常盤台住宅地として売りに出したけれど、宅地工事を始める昭和9年までは、野原の状態で放置していました。そこに目を付けたのが、退役軍人の遠藤辰五郎だったんですね。辰五郎は、明治44年4月、日本で初めて開設された所沢飛行場で、第9期基本操縦術修業員として、大正8年12月1日から同9年8月18日まで操縦訓練を修行した。その時の身分は、航空4大隊付陸軍工兵軍曹でした。その2期上に、後の陸軍大将・山下奉文歩兵大尉がいます。(日本航空史より) 辰五郎の出自や、いつ頃軍を除隊したのかはまだ調査中です。
<以下は板橋史談や板橋区史研究などから引用し要約>飛行場の滑走路は、現在の常盤台小学校あたりから、北西方向へ向かい、富士見通り、常盤台2丁目と3丁目の境の飯沼病院あたりまで延びていた。格納庫は前野町1丁目52番地付辺にあった。飛行機は、少なくとも複葉機が3機所有されており、そのうちの1機は白い胴体に「青葉号」と記されていた。(飛行機は、陸軍から払い下げられた機体の可能性が高い)飛行場の営業内容は、遊覧飛行(板橋周辺5円・東京周遊10円くらい)と飛行学校の経営だった。
 さて、では飛行場はいつからいつまで営業していたのでしょうか?最近のことですが、別件の調べ物をしている途中でこんな新聞記事を発見しました。読売新聞・昭和4年9月27日の記事です。

”「板橋飛行場」来月から開場”
市外板橋町向屋敷地籍東上線中板橋駅前へ約八万坪の平地を均して建設中であった一等操縦士遠藤辰五郎氏の飛行場は此の程竣工を遂げたので愈々来る十月一日から「板橋飛行場」と銘打って開場する。同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究と、航空発動機機関士の養成等に主力を注ぎ、飛行場は一般飛行界の為に解放する。
 
そう、これで飛行場の開設が昭和4年10月1日であることがわかりました。ではいつまで常盤台にあったのでしょうか。「昭和6年度 航空要覧」の「第5章 本邦民間飛行機操縦術練習所」の項目に、昭和6年10月現在の状況として、「名称、東京飛行学校・深川区洲崎埋立地(現在の江東区新砂)・代表者、遠藤辰五郎」との記述がなされています。ということは昭和6年までには撤収されていたのでしょうか?(この年以前の航空要覧は確認できていない)しかし、地元の古老の方によると昭和8年頃まであったとの証言が残っています。では遠藤さんは掛け持ちをしていたのでしょうか?う〜ん、いつまで存在していたんですかね、結局まだわかりません。航空要覧では、昭和11年10月まで東京飛行学校の存在が確認できますが、それ以降は項目自体がなくなっているので、これ以上遠藤辰五郎さんの足取りを追うことは出来ません。
 
 昭和7年、東武鉄道は“西板線”敷設を断念し、土地は住宅地(常盤台住宅)へと転用されました。飛行場が閉鎖された後もしばらくの間、「前野飛行場前」という、板橋乗合自動車のバス停が残されていました。新聞記事には「板橋飛行場」とありますが、地元では前野飛行場という名で通っていたのでしょうか。

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コメント

千川上水の所でカキコミをした「さくじ (板橋在住)」です。
大正14年生まれの父が、常盤台の遠藤さんの飛行機の事を覚えていて、
父が10歳ごろに「最近、飛行機が飛ばないね?」と言っていたら、
大人の人が「遠藤さんは富士山の方に行った時に、飛行機が落ちて死んだよ」と言われたそうです。
昭和27年の息子の私が、セスナからビラを蒔いていたのをよく拾いに歩ったのを思い出してみると、父の子供の頃に飛行機が飛んでいたのは、さぞワクワクした事でしょう。
大山の住民ですので、飛行場の場所は解っていても行った事はないそうです。

投稿: さくじ (板橋在住) | 2013年5月21日 (火) 23時26分

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