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2008年3月

赤塚城と戦国武者

12 弥生3月になった。板橋区の西はずれ、区内でも自然が一番多く残っている赤塚地域の溜め池公園では「赤塚梅まつり」がこの土日に催されている。きょうは隣接の赤塚城趾で「赤塚戦国絵巻武者行列」が行われた。
 
 数年前、板橋区役所赤塚支所管内のエリアである赤塚城を中心とした一帯に「自然と歴史と文化の里 赤塚」をキャッチフレーズに掲げた観光事業が始まった。3年前から運行されている[増17]成増駅北口~区立美術館~高島平操車場の国際興業バス路線ははその事業の一環で設置されている。西洋流鉄砲隊も、この事業を視野に入れて結成されたといってもいい。戦国絵巻武者行列は目玉企画として昨年秋のいたばし農業まつり(会場・赤塚体育館周辺)から正式に始まった。基本的には地元の小学生達が参加し、鎧兜はほとんどが郷土資料館に父兄などの有志が集まり数ヶ月をかけて製作された。遠目にはわからないけど、なんと紙製の鎧だ。基本は厚紙だけど、何層にも塗料を塗り重ねてあるので、驚く程良く出来ている。紙製はなんといっても”軽い”というのが最大の利点なんですね。金属製の甲冑はとても重くて大のオトナでも着て行進するのは辛いのだ。私も本物を付けたことがあるけど、こんなんじゃとても戦場で戦えない・・というのが感想だった。
 戦国絵巻武者行列の指導をする方は板橋区の伝統工芸師・三浦公法(みうら・ひろみち)さんだ。三浦さんは昭和50年、英国ロンドン塔王室武具館所蔵、徳川家康より英国王ジェームス一世に贈られた日本の甲冑の修理復元を受け、それを完成し同館に引き渡した。というほどの腕の持ち主。行列に参加した子供達は、昨秋の農業まつりに参加した子達で、それに有志の大人と、マイ鎧兜を身につけ武者行列に参加することを趣味とする方々が加わった総勢35名で行列は行われた。ただの行列ではなく、ちゃんと「着到状」「三献の儀」「勝ちどき」まで演じる本格的なものだ。今日は午前中まで暖かかったが、行列が始まる頃、急に曇り強い北風が吹きはじめて赤塚城趾は寒かったが、梅まつり会場から大勢のお客さんが移動して来て盛況であった。今年はやはり寒いのか、会場の溜め池周辺の梅は2分咲きくらいだけれど、高台の城趾はほぼ満開だった。
 戦国武者行列の次回登場は11月の農業まつりの予定だけれど、10月下旬の板橋区民まつりに出るかもしれないとのこと。惜しむらくは、いまどきの小学生らしく女子の方が参加率が高いことだ。男の子は鎧兜なんて興味ないのかなあ。

 ここで赤塚城に関してのウンチクをひとつ。赤塚城は中世豊島氏の一族、赤塚氏によって築城されたとされている。康正2年(1456)、下総の名門である千葉氏は相続争いにより、一門の馬加氏に追われ太田道灌を頼って下総市川から武蔵国へ逃げた。千葉実胤は石浜城に、弟の自胤は赤塚城にそれぞれ本拠を構えて下総の奪還を図ったが、結局は達成できなかった。兄弟は道灌の有力な武将として活躍したが、その後は北条氏に属し、自胤以降は盛胤、良胤、惟胤と続いた。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏が滅亡した時に赤塚城も廃城となったと伝えられている。
・・と伝えられてはいるんだけど、実は赤塚城という存在を示す戦国期の古文書は今のところ発見されてはいない。だから、ここを赤塚城と呼んでいたかさえもわからないことなんですね。但し、城があったことは間違いはないとされている。なんといっても、荒川を望む鎌倉古道沿いに位置した高台上ですからね。それと、松月院通りを越えて西へ少し行った所にある赤塚大堂の存在もある。赤塚大堂は、松月院大堂とも呼ばれる阿弥陀堂で、大同年間・西暦806年から810年、つまり平安時代の始めの創建と伝えられる板橋区最古のお堂です。かっては七堂伽藍をもつ大寺院だったけど、永禄4年(西暦1561年)上杉謙信が小田原攻めをした時焼き討ちにあい堂塔悉く焼失し、わずかにこの阿弥陀堂と梵鐘だけが残ったといわれます。この梵鐘は暦応3年(1340年)4月8日の製作銘がある 古鐘で、江戸時代から名鐘で知られ、文人墨客の訪れる者多く、判読する者、拓本をとる者など引きも切らなかったといわれているそうです。
なお、最新の研究では、最初に城を作ったとされる赤塚氏の存在は疑問に思われているのだとか。様々な説が研究家から出ているのだけれど(赤塚城の赤塚氏の直系が今でも九州にいるとか)、それを否定する資料も存在し、結論としては誰が最初に城を作ったのかは”わからない”のだそうだ。まっ、それもロマンですね。

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赤塚梅まつり古武道大会’08

2_21_23_2 赤塚梅まつり第2日目の昨日は、日差しも暖かく小春日和のおだやかな晴天に恵まれた。この日のメーンイベントは赤塚城趾を会場として行われた古武道大会だ。この古武道大会は今年から始まった。
登場順に、「双水執流 居合い」「正木流萬力鎖術・十手術」「鷹匠」「バグパイプ演奏」「西洋流火術鉄砲隊保存会」の5団体が出演した。
「居合い」はまず抜刀術の披露、続いて対戦の型演武にうつり、次に鎧兜を身につけた武者による演武の披露と続き、最後に濡れたゴザを撒いた棒の試し切りが行われた。「鎖術、十手術」はそれぞれ実戦演武の披露であった。ここで午前中の演武は終わり、午後1時からは、いよいよ目玉企画である鷹匠による演武が始まった。鷹は全部で4羽用意され、なぜか白フクロウも用意されていた。(どうやら、モデルとして連れてこられたらしい)鷹は、非常に神経質な性質で、現場に慣らすためにすでに午前中から会場に待機し、見学者達の格好の被写体となっていた。
 演武の主役はオオタカだ。このオオタカは皆外国生まれでロシア産が多いという。輸入しやすいのが理由なのだろうか。鷹で獲物を捕る「鷹狩り」は世界中で行われているという。日本でも掛川にある花鳥園ではカナダ人によるファルコンショーを見ることができる。
 鷹匠の待機所には鷹狩りの解説パネルや写真集、道具などが展示されていた。この鷹狩り、本当は平成12年に郷土資料館でおこなわれた特別展「いたばし動物ものがたり」の会期中に、イベントとして企画されたことがあったのだが、その時はいろいろクレームが付き、結局この企画はお蔵入りとなってしまった。何も実際に小動物の獲物を使ってやるわけじゃないのですが。フォアグラ作る方がよっぽど虐待だと思いますけどね。ではそれがなぜ今回可能になったのか・・それは、昨年、新しく板橋区長となった坂本健氏の要望があったからなんですね。もともと本日演武を披露する鷹匠の方達と昔からの知り合いだったことと、坂本区長の地元でもある赤塚地区でこうした派手なイベントに協力したいということがあったからなのです。じゃあ昔反対をした方々の理屈っていったいなんだったんだろう・・。
 まっ、そういうことは置いといて、いよいよ鷹匠の演武が始まった。(ちなみに、鷹匠になるには鷹の訓練だけでなく、竹で作るえさ入れ「口餌籠」や鷹を手に止まらせるための鹿皮で作る手袋「餌掛け」などを自分で作れなくてはならない。現在、鷹匠の資格を認定されているのは6名しかいないそうだ)最初は小さな種類の鷹が約70m離れた鷹匠の所まで飛ぶデモンストレーション。これはうまくいった。そしていよいよオオタカの登場だ。”ふりかえ”という、鷹を操る人間が変っても鷹がいうことを聞くようにすることをおこなった瞬間、オオタカは赤塚城趾の回りにある林へ飛んで行ってしまった。いくら鷹匠が呼んでも戻ってこない。演武の時に思わぬ大勢の観客が集まったことと、上空にいるカラスが気になってしまったのが原因らしい。演武はそのまま中断となり30分くらいストップしてしまった。このままではどうしょうもないので、急遽、バグパイプの演奏となり、それが終わると別のオオタカを登場させ、調教の時に鷹の足に絹製の紐を取り付けておこなう訓練の様子を見せて終了となった。おもわぬアクシデントに見舞われたが、これも生き物を使うので仕方がない。来年、再度、鷹匠演武が行われることに期待したいですね。鷹演武の写真を載せられなかったのは、あまりいい写真が撮れなかったからです。この後は「西洋流」の空砲発砲演武がおこなわれました。逃げ出したオオタカ君は、その間に無事鷹匠の元へ戻ったそうです。

 江戸時代の板橋区域は、徳川将軍の鷹狩り場や猟場として有名で、2代将軍・秀忠が1618年に板橋で鹿狩りを行ったことを始めとして、最後の将軍だった慶喜さんが明治38年1月に板橋火薬庫付近(現在の板橋区加賀)で行った狩猟まで、その回数は相当数にのぼった。板橋の鹿狩りはとても大掛かりだったようで、国立歴史民俗博物館に納められている寛永期の「江戸図屏風」に「板橋」が描かれており、街道や宿並みとともに周辺の林地にたくさんの鹿が描かれている。特に家光は一度に数百匹を仕留める狩りを何度も行っている。
区内で鹿が確認されたのは天明期前後の徳丸原(1780年代)までで、文化7年(1810年)に徳丸村から幕府へ出された報告書では、鹿は徳丸原では確認されず、荒川対岸の美女木村での確認事例が示されていたそうです。(以上、いたばし動物ものがたり特別展図録より)

それにしても、わずか200年前まで鹿がいたとは・・すごいなあ。

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板橋区と飛行機

Photo 3月から新テーマで、と考えたのはいいけど思いつかないので、先日、板橋区役所の産業活性化推進室からある書類が届いたので、そこから話題をひろってみよう。
昨年11月15日から17日にかけて、「第11回いたばし産業見本市」が板橋区立東板橋体育館で行われました。その見本市で、特別展示として「AEROSPACE in ITABASHI 〜板橋・航空産業展」の展示が企画された。簡単に言うと、高付加価値で今後成長の見込める航空産業に板橋区の中小企業も積極的に参加しよう、とアピールする企画ですね。板橋区は東京近郊の農村地帯だったけど、明治維新後、加賀藩の下屋敷跡に火薬工場が造られてから志村周辺には工場が次々と出来、工業の盛んな地でもあったのだ。(特に有名だったのがカメラなどの精密機器製造)高度成長期が過ぎてからは徐々に工場の数は減少し、バブル崩壊後はその流れが加速して、工場跡にはどんどんマンションやショッピングセンターなどが建つようになったけど、それでもまだまだ頑張っている工場も多い。で、その産業見本市の展示の中で板橋区と飛行機の関わりについてのコーナーを作る時に、協力を頼まれて資料を提供したという次第で、先日届いた書類はその結果報告書だったのです。板橋区と飛行機?なんて一見、結びつかないけど、今回はそのうちの一つを紹介しましょう。まずは常盤台に存在した前野飛行場について。
 
 板橋区発行の冊子の中で前野飛行場について多少の記事が載っているので、聞いた事のある方もおられると思います。しかし、それらの記事は古老による回想談、という形で断片的に紹介されてきたもので、実態は良くわかっていません。特に、前野飛行場の経営者であった遠藤辰五郎については「年は40過ぎでヒゲ顔の退役軍人」くらいしか伝わっていませんでした。
 ここで、前野飛行場についてのおさらいをしてみましょう。飛行場の存在した現在の常盤台一帯は、昭和初期、“字向屋敷の前野っ原”と云われ、ほとんどが畑地でした。昭和3年頃、東武伊勢崎線西新井駅と東上線上板橋駅を結ぶ新路線を計画していた東武鉄道は、この土地を貨物操車場として利用しようと買収を行った。この計画は、後に資金難により頓挫し、結局、宅地開発を行い常盤台住宅地として売りに出したけれど、宅地工事を始める昭和9年までは、野原の状態で放置していました。そこに目を付けたのが、退役軍人の遠藤辰五郎だったんですね。辰五郎は、明治44年4月、日本で初めて開設された所沢飛行場で、第9期基本操縦術修業員として、大正8年12月1日から同9年8月18日まで操縦訓練を修行した。その時の身分は、航空4大隊付陸軍工兵軍曹でした。その2期上に、後の陸軍大将・山下奉文歩兵大尉がいます。(日本航空史より) 辰五郎の出自や、いつ頃軍を除隊したのかはまだ調査中です。
<以下は板橋史談や板橋区史研究などから引用し要約>飛行場の滑走路は、現在の常盤台小学校あたりから、北西方向へ向かい、富士見通り、常盤台2丁目と3丁目の境の飯沼病院あたりまで延びていた。格納庫は前野町1丁目52番地付辺にあった。飛行機は、少なくとも複葉機が3機所有されており、そのうちの1機は白い胴体に「青葉号」と記されていた。(飛行機は、陸軍から払い下げられた機体の可能性が高い)飛行場の営業内容は、遊覧飛行(板橋周辺5円・東京周遊10円くらい)と飛行学校の経営だった。
 さて、では飛行場はいつからいつまで営業していたのでしょうか?最近のことですが、別件の調べ物をしている途中でこんな新聞記事を発見しました。読売新聞・昭和4年9月27日の記事です。

”「板橋飛行場」来月から開場”
市外板橋町向屋敷地籍東上線中板橋駅前へ約八万坪の平地を均して建設中であった一等操縦士遠藤辰五郎氏の飛行場は此の程竣工を遂げたので愈々来る十月一日から「板橋飛行場」と銘打って開場する。同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究と、航空発動機機関士の養成等に主力を注ぎ、飛行場は一般飛行界の為に解放する。
 
そう、これで飛行場の開設が昭和4年10月1日であることがわかりました。ではいつまで常盤台にあったのでしょうか。「昭和6年度 航空要覧」の「第5章 本邦民間飛行機操縦術練習所」の項目に、昭和6年10月現在の状況として、「名称、東京飛行学校・深川区洲崎埋立地(現在の江東区新砂)・代表者、遠藤辰五郎」との記述がなされています。ということは昭和6年までには撤収されていたのでしょうか?(この年以前の航空要覧は確認できていない)しかし、地元の古老の方によると昭和8年頃まであったとの証言が残っています。では遠藤さんは掛け持ちをしていたのでしょうか?う〜ん、いつまで存在していたんですかね、結局まだわかりません。航空要覧では、昭和11年10月まで東京飛行学校の存在が確認できますが、それ以降は項目自体がなくなっているので、これ以上遠藤辰五郎さんの足取りを追うことは出来ません。
 
 昭和7年、東武鉄道は“西板線”敷設を断念し、土地は住宅地(常盤台住宅)へと転用されました。飛行場が閉鎖された後もしばらくの間、「前野飛行場前」という、板橋乗合自動車のバス停が残されていました。新聞記事には「板橋飛行場」とありますが、地元では前野飛行場という名で通っていたのでしょうか。

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板橋区と飛行機・続その1

21 それでは今回はもう一人、板橋と飛行機に関連した人物を紹介しよう。題して「板橋の鳥人・伊賀氏広」 

・・・話は明治時代にさかのぼる・・・

男爵・伊賀氏広は、明治19年9月、高知市で生まれた。先祖は山内一豊に従い土佐藩に入国し、代々家老職を勤め宿毛に住み着いた。山内家とはたびたび婚姻関係を結んでいる。氏広は、12代伊賀氏成の養嗣子として、山内家より伊賀家に入った。明治31年に東京へ転住し、東京高等師範学校付属小学校に転入し、付属中学校を同37年に卒業している。その後、東京美術学校に入学したが、同40年春に退学し、1年志願兵として陸軍に入隊した。予備役召集で応召中の同42年11月、陸軍大演習に騎兵見習士官として参加する。その演習での出来事が、彼を空へと誘うきっかけとなった。
 大演習第1日目の払暁、氏広は将校斥候として茨城県内の那珂川左岸を北進中、対岸を北進する味方騎兵中隊の前方へ接近する敵軍大部隊を発見した。一刻も早く味方軍に伝えなければ大損害を被る。氏広はすぐに部下の騎兵を伝令として急行させたが、早く早くと気は焦るばかりであった。その時、天に向かい烏が飛び立つのを見、「ああ、この身に羽根さえあれば部隊の元へすぐにも飛んで行けるのに・・」と地団駄を踏んだ。それが伊賀式飛行機開発の動機であった。
 同月末、召集解除となった氏広は、すぐさま小石川宮下町の自宅へ戻り、飛行機の研究に没頭した。その6年前の明治36年(1903年)12月、アメリカのライト兄弟が、世界で初めて有人動力飛行に成功している。しかし、氏広が研究を始めた当時の日本には、まだ飛行機はなかった。
 
 さて自宅へ戻って飛行機の研究をしようにも、日本国内には飛行に関する科学力学や機械学等の参考書すらない状態だった。そこで氏広は、男爵家という裕福な境遇を存分に活かして飛行機に関する洋書を買い漁り、早くも翌43年3月には巣葉飛行機の模型を完成させた。この飛行機は「浮揚面を傾斜せしめて進行し、翼の裏面に風圧を受けて空中に浮揚すべき構造」を持った凧式飛行機であった。氏広は、さっそく完成した模型を、当時の権威であった東京帝国大学教授で地球物理学者の田中舘愛橘博士の元に持ち込み鑑定を申し出た。凧式飛行機の模型を見た田中舘博士は、すぐさま「特許局に申請して審査を受けるべし」と薦めた。そこで氏広は明細書を作成し特許審査を受けた。その際、模型を提出せよとの通知を受けたので、ゴム動力の模型飛行機を制作にとりかかる。そして完成した模型を特許局へ持ち込み、審査官の前で机上滑走飛行を試みた。・・すると、氏広の理論通り飛行機は机の上を滑走し、みごとに浮揚して窓の外へと飛んでいったのである。

 こうして同年9月、氏広は専売特許第18663号「伊賀式双葉空中飛行機」の特許を獲得した。このことは、当時の新聞に大きく取り上げられ、空への志に共感した軍人や民間研究者が、続々と宮下町にある氏広の研究室に集まって来た。

 〜 次回へ続く 〜

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板橋区と飛行機・続その2

43 「板橋の鳥人・伊賀氏広」第二話
をお送りします。今回は板橋との関係に触れますよ〜

 「伊賀式双葉空中飛行機」特許取得のニュースを聞きつけ、空への志に共感し氏広の研究室に集まったのはこんな人々だった。まず研究員となったのは、太田祐雄(オータ号小型自動車の考案者)、榊原郁三田中順吉ほか二名。技術交換を申し出、協力者となったのは徳川好敏(日本最初の飛行機操縦者)、日野熊蔵(同)、山田猪三郎(山田式飛行船考案者)、奈良原三次(奈良原式飛行機)、都築鉄三郎(都築式飛行機)、中島知久平(中島飛行機創設者)等々、いずれも日本航空界草創期に輝かしい経歴を残す人々である。
 飛行機製作にあたっては、以下の三段階の計画を立てた。すなわち、「①滑空機製作」「②外国で開発された伊賀式類似の飛行機の試作」「③特許を受けた伊賀式飛行機の完成」である。
 集まった人々は、宮下町の研究室で、足踏旋盤・手動ボール盤各一個・手動ふいご一つ・万力・金敷台・大小金鎚・木工具などの道具を使い、試行錯誤を続けながら製作に励んだ。だが、この年(明治43年)12月、代々木練兵場にて前述の徳川・日野両陸軍大尉が、フランスから輸入した複葉機と単葉機で日本最初の飛行を成功させてしまった。二人は陸軍の命令でフランスに赴き、飛行技術の取得と飛行機購入を行ったのであった。
日本初飛行の夢は実現できなかったが、氏広の目標は、自身の発案した飛行機での飛行にあるので、大いに発奮して製作に打ち込んだ。そして、ついに明治44年2月、伊賀式滑空機は完成した。実験は2月16日に行うことを決め、滑空機の初飛行の場に研究室からほど近い「板橋競馬場」を選んだ。
 
話は少し逸れるけど、ここで板橋競馬場について簡単に触れて見よう。

板橋競馬場とは; 
 
 日清日露などの戦役により、陸軍部内に於いて、軍馬育成の必要性が高まり、それをうけて政府に馬政局が設置された。馬政局は、民間による生産馬育成の奨励を計るため、民営の競馬会の設立監督を行い、競馬会運営維持のために馬券の発行を許可(黙認)した。新しく作られた民法に依る法人として、明治39年4月、東京では東京競馬会が設立され、池上に馬場が作られた。秋季に第1回目のレースが行われ、それが大成功をおさめるや、たちまち全国に波及した。翌40年には、東京近郊だけでも、池上のほか、横浜・川崎・松戸・目黒・板橋に馬場が開設された。そのうち、板橋競馬場は東京ジョッキイ倶楽部が運営を行った。馬場は、現在の板橋第三中学校から仲町区民事務所にかけての地域に存在していた。レースは、春と秋の年2回行われたが、開設後、早くも法の未整備により賭博場と化し、配当金の分配をめぐって紛糾するなど、世間の非難を浴びる結果となった。たまりかねた政府は、同41年10月に馬券の発行を禁止する。そして、翌42年に法律を整備しなおし、競馬場の統廃合を行った。東京では、目黒競馬場に集約され、板橋競馬場は設立わずか2年で廃止されてしまう。(板橋競馬場については、最近新たな資料を得たのでまたの機会にでも触れます。)

〜 さて、次回はいよいよ板橋競馬場で行われた初飛行の顛末をお届けします。氏広の夢を乗せた飛行機は、果たして板橋の空を舞うことができたのか!?乞うご期待!! 〜

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板橋区と飛行機・続その3

12 いよいよ実験の当日がやってきた。氏広が心血を注いで作り上げた伊賀式滑空機は果たして板橋競馬場を飛び立てるのか!?
それでは「板橋の鳥人・伊賀氏広」第三話をどうぞ。

 明治44年2月16日、分解して荷車に積み込まれた伊賀式滑空機は、午前7時過ぎに板橋競馬場へ運びこまれた。機体は9時頃までには組み立てを終えた。前々日の14日、新聞紙上に、滑走試験の告知記事が載ったため、板橋競馬場にはすでに数千人の群衆がつめかけている。中でも、この日の授業をすべて休んで見学に来ていた、板橋学校の男女児童・2百名余りの姿が人目を引いていた。
 整備を終えた機体を南西方に向け、長さ15メートルの荒縄をウーズレー自動車(自動車輸入商・山口勝蔵が英国から輸入した車。板橋学校の児童達は、恐らくこのとき生まれて初めて飛行機や自動車を目にしたに違いない)に結びつけた氏広は、座場部にすわりハンドルを握った。藍青色のペンキで塗られた機体には、将来、発動機を積む予定であったのでその重量を考慮し、発動機据え付けの場所に助手の石津弓師が座る。

 そして、いよいよ運命の時が来た。午前10時25分、自動車に乗り込んだ協力者、奈良原男爵の振る白旗を合図に、車は時速15キロの速さで走り始めた。しかし、滑空機は、数十メートルの距離を滑走した所で北からの突風を受けて、左翼が地面に接地し横転。左翼の張線を一本切断し、後輪も破損したため、出発地点に戻り修理を行った。壊れた後輪を補修し、竹を曲げたソリを取り付け修繕を終えた機は、今度は氏広の代わりに、太田助手が操縦者となり、午後0時30分、再び飛行に挑んだ。ところが、操縦が不慣れなため、馬場外に逸走してしまう。このため、また操縦を氏広に代わり、三たび飛行を試みた。しかし、3尺程ジャンプをしたが、またもや突風により左翼を煽られ右側に横転、後輪を再び壊し、主翼の張線も緩んでしまったため、午後1時20分、氏広は断腸の思いで飛行実験を中止した。
 こうして初飛行は不首尾に終わったが、前頭部が高いため、風の抵抗を受けやすかったことや、後輪の補強、主翼牽線の改善など、今後の飛行に関して様々な改良点を発見できたことは成果であった。
 氏広達は、実験の失敗にめげず、フランスの飛行設計家・ブレリオ氏(1909年、初めてドーバー海峡を飛行機で横断)から送られた飛行機の設計図を元に、第二段階の発動機付きの機体の製作に取りかかった。発動機は、大阪の島津楢蔵(1909年、日本で初めてのオートバイを制作)に依頼し、アンザニー三気筒25馬力発動機のコピーを製作してもらった。これは、国産初の航空エンジンであったという。この飛行機は「伊賀式舞鶴号」と命名され、同44年12月、代々木練兵場を借りて公開飛行実験が行われた。しかし、シリンダーの一本が発火せず、牽引力が不足し、とうとう地上滑走のみで終わってしまった。
 この後、氏広には、研究仲間の借金の肩代わりをしたことで負債の返済を迫られるなどの問題が起こり、親族からも非難され、実家からの資金援助も止められてしまった。追いつめられた氏広はとうとう飛行機研究をあきらめ、大正2年春、東京を離れ、夢半ばにして郷里の宿毛へ戻っていったのである。
 
 時は過ぎ、昭和41年2月25日、氏広は、東京都立川市で79歳の寿命を全うした。その死を知らせる新聞には、こんな見出しが掲げられた。「空の男爵79歳で逝く。国産第1号機を製作。
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新・板橋区と飛行機

S1847 かつて板橋区には本当の飛行場があった。そう、現在の練馬区光が丘を中心とする地域に存在した成増飛行場だ。東西を走る補助滑走路として使用されていた部分が現在の板橋区域にあたる。今回はその歴史を紹介してみよう。

 正式名称・成増陸軍飛行場は、首都防空を目的に、昭和17年4月18日の米軍による東京初空襲をきっかけとして計画された。
飛行場は、防空戦闘機が皇居上空まで3分以内に到達できる場所を基準に設定され、当時の板橋区高松地域(現在の練馬区光が丘〜板橋区赤塚新町の一部)が選ばれた。駐屯する防空戦隊には、開戦直前にマレー作戦でサイゴン方面へ送られた、陸軍最新鋭機・中島キ−44(二式単戦・鍾馗)を擁して結成された独立飛行第47中隊に決まった。命令を受けた中隊は、同17年4月25日に現地を出発、5月上旬に内地へ帰還する。
 
 昭和18年5月、飛行場予定地が決まり、該当する地区の地主約500名が、板橋区役所へ集められた。6月下旬、最終的に約80世帯が立ち退きの対象となり、地主が板橋区役所へ印鑑持参で呼び出され、その場で強制的に承諾書へ捺印させられてしまう。住民は8月31日までに立ち退くべしとの命令を受け、大混乱のうちに地域にあった神社などを含め、引っ越してゆく。引っ越しの最中に工事は始まり、工作部隊を中心に勤労動員学生、朝鮮人労務者、豊多摩刑務所(中野)の囚人など総動員で昼夜問わずの突貫工事が行われ、10月末に第一期工事が終了する。47中隊は12月中旬に移動を完了した。この頃には47中隊は飛行47戦隊へと昇格し、部隊の人員も増員される。(本部など合わせて約650名)滑走路の舗装が終了して、飛行場として完全に完成したのは昭和19年4月であった。
 
 47戦隊着任以来、事故殉死が相次ぐ猛訓練が続くが、19年11月1日、いよいよ米軍大型爆撃機、B-29が首都圏空襲の偵察のため、陥落したばかりのマリアナ基地から飛来してきた。この後7日まで計3回飛来するが、迎撃に上がった関東一円の防空戦隊は、1万メートルの高高度を飛ぶB-29に追いつくことも出来ずに終わり、飛行第10師団は、軍部上層部より激しく叱責される。そして、隷下の防空戦隊へ武装を全部下ろした機体で、B-29への体当たり攻撃をすることを命じた。
47戦隊からは3つの中隊(桜・旭・富士)より4名が任命され、11月24日、銚子上空にて最初の体当たり(見田伍長・19歳)を果たす。これが、帝都防空戦隊最初の特攻攻撃であった。その後も特攻は続き、2月下旬までに47戦隊では5名が特攻死、3名が撃墜死する。(特攻隊は、震天制空隊と命名される)
 2月になると米軍の戦術が変わり、グアム・サイパンの米軍戦闘機も作戦に加わるようになり、B-29も低空よりの焼夷弾空襲を行うようになった。米軍による日本機の損害も多く、47戦隊も陸軍新鋭機、中島キー84(四式戦・疾風)に改変されていたが、相次ぐ工場への空襲で生産能力も落ち、兵力温存のため、2月17日に防空戦闘は中止されてしまう。
その後、空襲警報のたびに戦闘機は掩体壕へ隠匿され、ベニヤ板で作った偽装機を滑走路などに並べていた。空中勤務者も川越方面へ避難させられる。
 
 4月初め、47戦隊は関西方面へ移動するが、中旬に成増へ戻る。5月27日、沖縄作戦の特攻隊・振武隊の掩護任務を命令され、宮崎県都城西飛行場へ移動する。6月21日、第26振武隊掩護任務の帰途、米軍機の奇襲で3機が撃墜されてしまう。23日、沖縄は陥落。7月18日、戦隊は本土決戦にそなえ、山口県の小月飛行場へ移動。7月28日、米艦載機の急襲により6機が撃墜され、ベテランパイロットのほとんどを失う。8月14日、豊後水道上空で米艦載機と空中戦、2機撃墜される。この戦いが47戦隊最後の空中戦となった。この日をもって、日本陸軍防空戦隊の戦闘も終了する。
 
 47戦隊が去る前後の成増飛行場は、沖縄作戦末期に行われた米艦船への激しい特攻作戦に参加した、陸軍特攻・振武隊の編成(第48・49・51・53・180・183・184・187・188・193・194・231の各隊)や訓練の基地として6月下旬まで使用された。(沖縄陥落後は、本土防衛・米機動部隊艦船特攻に変更)また、47戦隊が都城西飛行場へ移動するのと入れ替りに、都城西飛行場にて振武隊掩護任務に就いていた、第百飛行団の101・102・103戦隊が、成増飛行場へ移動してきた。第百飛行団は、特攻隊掩護任務中の空中戦や、都城西飛行場への米軍の空襲により損耗が激しく、戦隊の再編の必要があった。成増飛行場にて新入隊員の訓練などを行っていたが、終戦の直前、四国地域への防空任務のため移動するが、一部は残り、そのまま成増飛行場で終戦を迎える。

成増陸軍飛行場関係の戦死者は以下の通り。(事故死・他の戦隊へ出向しての戦死も含む)
47戦隊・53名、振武隊・42名、第百飛行団・5名 合計100名(現在判明分)

 終戦後、成増陸軍飛行場は飛行場関係者に耕作が許され、畑作が行われるが、一年経たずに進駐軍に接収され、米軍家族住宅・グラントハイツが建設された。昭和47年、日本に返還、同49年に巨大団地の建設が始まり、現在、1万2000世帯、約5万人が暮らす巨大な街(光が丘団地)へと生まれ変わるのであった。

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中板橋駅と板橋遊泉園

123 前野飛行場の話題を掲載した時、おや?と思った方がいるとしたら、それはなかなかの東上線通ですね。引用した昭和4年の読売新聞記事に、東上線中板橋駅前と記載されていたのに気づかれましたか? そう、中板橋駅は昭和8年7月12日に開業したんですね。ではなぜ昭和4年の新聞記事にその駅名が出ていたのか・・今回はそのナゾに迫りましょう。

 昭和初期から10年代初めまで、中板橋駅に隣接している石神井川沿いには有料のプール施設があった。今から20年以上前の広報いたばし紙上で連載されていた「写真は語る」に、当時プールを作り運営に参加していた方から聞き取った話が記事になっているので、そこから引用(参照)して説明しよう。
 東上線は、大正3年5月に開通した。以来、夏になると、石神井川に架かる鉄橋から川へ飛び込んで遊ぶ子供達が後を絶たず、困った東武鉄道は水たまりの遊び場を作ってくれと地元に要請した。でも水たまりでは許可が下りず、そこで思いついたのが、大正7年に石神井川上流にある三宝寺池の一部を利用してプール(正式名称・府立第四公衆遊泳場)が作られ、大変な人気を博していたこと。大正15年には豊島園が開園し、大勢の観光客を呼ぶことに成功していた。よし、それじゃあここにもそんな施設を作ろうじゃないかという話になり、手始めにプールを作ろうと、昭和2年に石神井川の水を利用して25メートルX50メートルの本格的な有料公認プール施設を作った。名前は「板橋遊泉園」と付けられた。(商売になると踏んだのか、バーター取引だったのかはわからないけど、)東武鉄道はその見返りとして夏季臨時駅の中板橋駅を設置した。と、いうわけで昭和4年の新聞にも駅名が出ていたんですね。

証言だけではなんなので、駅設立についての流れを国立公文書館所蔵の公文書で追ってみよう。

中板橋仮停留場設置の件に関する通牒
Date:19260828(大正15年8月28日—昭和元年)
中板橋仮停留場新設の件
Date:19270615(昭和2年6月15日)
中板橋仮停留場設置の件
Date:19280707(昭和3年7月7日)
中板橋臨時停留場設置の件
Date:19290619(昭和4年6月19日)
中板橋臨時停留場設置の件
Date:19310811(昭和6年8月11日)
中板橋停車場新設の件
Date:19330526(昭和8年5月26日)

う〜ん、こうして並べてみると、どうやら申請はプール開業の前年に最初から中板橋という名前で提出されているようですね。写真の切符は昭和2年8月18日のもの。確かに中板橋駅ですね。でも臨時駅とは書いてありません。公文書は途中欠けている年(昭和5・7年)もあるけど、臨時駅なので毎年当局へ設置を申請していたということがわかります。ちなみに、大正15年当時板橋区内にあった駅は、下板橋・上板橋・成増の三つだけ。ものすごくわかりやすいですね、中板橋という駅名がついた理由が。(地下鉄赤塚、地下鉄成増駅と同じノリだ。)
ちなみに昭和2年に臨時駅を新設したときの公文書はこんな内容です。
中板橋仮停留所新設ノ件 作成六月五日 受付 六月十六日
   使用期限 来る六月二十五日より本年九月三十日マデ
停留所名 中板橋仮(旧字)停留所
乗降場は枕木を以てサンドルを組み立て軌条を架渡し枕木を列べ釘及び鎹を似て緊締したる假構造とす。其の突端より軌道中心迄の距離は四尺六寸軌條面上高は貳尺とす。

 証言では遊泉園は豊島園を意識して作ったとされてるけど、豊島園開園は大正15年なので、三宝寺プールをまねてつくったようですね。
プールは大評判だったけど、水温が低くて冷たかったようです。その後、石神井川の水質悪化などで昭和12年ころに遊泉園は廃園してしまったそうです。現在、プールの跡地は住宅が密集しまったく面影はありません。

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いったい何を信じれば・・幻の金井窪駅伝説

12 前回、中板橋駅のことを取り上げたので、今度は東上線史上でもナゾな存在の「金井窪駅」について考察してみよう。
金井窪駅は下板橋と大山の間にあった駅で、開業は大山駅より1か月ほど後の昭和6年9月27日。昭和20年4月15日に廃止された。

 金井窪駅は大山駅を池袋方向へ進み山手通りの陸橋を過ぎたあたりにあった(中山道から続く高田道が線路とぶつかったところ)。隣接する駅との距離が短く、特に下板橋駅とは400mしか離れておらず、日本で一番駅間の短い駅とまで言われていたそうだ。昭和20年4月13日の空襲により一帯が焼け野原となるまでは、この道沿いには商店街が広がり、板橋帝国館という板橋でも最古に近い映画館もあり、また乗り合いバスも走るくらい栄えていた。そのころは今の賑やかな大山商店街は存在せず、付近の住民もこちらへ買い物に来ていたそうだ。今でも、なんとなくそんな面影が残っているような・・気もしますネ。金井窪駅についてはあまり資料も残っていないので、いろいろ憶測も混じった情報が流れていて、廃止時の状況もよくわかっていないのが実情だ。一般的には空襲で焼け落ちて廃止になった。とされている。そこで、おそらくはもっとも信用出来ると思われる資料を紹介しよう。出典は平成元年8月5日付の広報いたばしだ。この号の広報いたばしでは「いたばし掘り出し物語」と題し、見開きページで数名の方がいろいろな思い出話を紹介している。その中で戦時中、東上線下板橋信号所(今の留置線の所)に勤務ていた方と、あの空襲時に金井窪駅の駅員をしていた田山さんという方の証言が綴られていた。その田山さんの話を要約して引用する。

 「私は昭和17年9月に東武鉄道に入社し、18年から金井窪駅に勤務していました。駅舎は約10坪くらいのモルタル造りで小さなものでしたが当時ではモダンな造りでした。ホームは上り下りに一本ずつあって、3両編成の電車がやっと止まれる長さで、1両分ぐらいの屋根がついていました。駅に配属されていた職員は6〜7人で、3人交代で勤務していました。勤務時間は朝9時から翌朝9時までの24時間で、最終電車から始発電車までの間は駅舎の仮眠室で休みをとりました。私以外の駅員は女性でしたが、下板橋信号所の前に女性用の宿泊施設があり、ここで仮眠していました。駅舎からホームへ昇るスロープのわきには防空壕が掘られていて、空襲警報が出ると駅員一同逃げ込みました。
私は昭和20年4月13日は1泊2日で旅行に行っていました。翌朝東京へ帰ろうと駅へ行くと空襲で東京の鉄道は止まっているとのこと。それでもどうにか高田馬場駅まで辿り着きましたが、ここからは歩かなくてはなりませんでした。線路づたいに池袋まで歩き、さらに東上線の線路を進むと、東武堀之内駅(現・北池袋駅)と下板橋駅は焼け落ち、付近はまだくすぶり異臭がしました。下板橋駅の線路には黒こげの死体がころがっていました。金井窪駅は被害は受けませんでしたが、まわりの家がすべて焼けてしまい駅の業務は中止されました。その後しばらくの間駅舎は、下板橋保線区の区長が住宅として使用していました。戦後、練馬区にグラントハイツができて下板橋操車場で取り扱う貨物の量が急増し、貨車の入れ替えのため引き込み線を延長する必要があったので、金井窪駅はなくなってしまいました。」

以上がだいたいの経過です。田山さんの証言により、金井窪駅は空襲では焼けなかったということがわかりましたね。私がこのネタを仕入れたのは10年以上前で、いくつかの媒体にも発表したことがある。ところが最近のこと、中板橋駅の件でも触れた国立公文書館の公文書に、こんなものがあることを見つけた。

昭和二十年三月二十八日
鐵軌統事第五二一号
運輸通信大臣殿
東武鉄道東上線金井窪停留場運輸営業休止の件
昭和二十年三月五日付工第三八八号を以て東上線金井窪停留場運輸営業休止の議左記概要に依り申請有乃候に付三月二十八日鐵軌統事第五二一号ヲ以て昭和二十三年三月三十一日迄許可候條此段及報告候

理由
本停留所は隣接駅間近距離(下板橋金井窪間〇粁四分 金井窪、大山間〇粁六分)にして運輸営業を休止するも利用者に及ぼす影響極めて僅少なりと被認のみならず窮屈なる運輸要因の配置重点的配置及車両保守上位に時局下諸資材の重点的活用の見地より之を休止し依って発生する資材を輸送力増強上重要なる他の施設に転用せんとするものなり

な、なんと金井窪駅は昭和20年3月31日をもって運輸営業を中止していたのか?? では田山さんの証言はどういうことなんだ??・・なんていうのは早とちりで、申請は出されたけど、どうなったのかまではまだこの段階ではわからないんですね。この他「東上線金井窪停留場運輸営業休止の件」19450405ー昭和20年4月5日 なんて公文書もあるし、おそらく営業休止の話はあったけど、13日の空襲時点ではまだ通達されていなかったのでしょう。で、結局空襲後に駅は使用停止され、田山さんの証言通り、引き込み線延長のために撤去されてしまった。ということなのでしょう。

いずれにせよ、金井窪駅は短命に終わる運命だった・・というのが本日の結論です。

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下板橋駅とモルチール砲

PhotoPhoto_2 駅の話題が続いたので便乗してお送りしよう。今回は下板橋駅。
 下板橋駅は東上線が開通した日、大正3年5月1日に開業した。その時、駅は今よりも西側の板橋区域にあったが、昭和10年、池袋〜上板橋間が複線化された時に、現在の場所(豊島区側)へ移動した。

 今日のお題は”下板橋駅とモルチール砲”でお送りしていますが、下板橋駅に大砲が据えてあったわけではありません。実は駅と大砲は関係ありません。下板橋駅についてはいろいろ検索すれば情報が出てくるので、すみませんがそちらを参照して下さい・・・と、それだけでは申し訳ないので私の所蔵している戦前の切符をUPしときますね。
 
 さて、本題といきます。今から数年前まで、下板橋駅の下り線・南出口の裏手に、ホームに沿うように崩れかかった(関係者の方、すみません)倉庫か工場があったのを憶えておられますでしょうか。現在はマンションになっていますね。以前あった古い建物は、関東金属工業という会社の所有物でした。
 今から5年前の平成15年夏、豊島区の郷土資料室から板橋区の郷土資料館に一本の電話がかかってきた。それは、豊島区内で大砲を所有している方がいて、弁護士を通して売却したいと問い合わせがあったので、その相談をしたい、との内容だった。そう、大砲と言えば板橋区立郷土資料館。今や西洋流砲術に関しては日本有数の資料を有している存在だ。豊島区の郷土資料室は当然それを知って連絡をしてきたのだ。そして早速、学芸員氏が大砲を確認しに出向いた。そう、その大砲の出て来た場所が、下板橋駅ホームに隣接していた関東金属工業の倉庫だったというわけなのです。大砲は2門。全長89センチ・口径29センチのずんぐりむっくりした体型だが、重さが1.2トンもある代物で、どちらもほぼ同じ造りだった。砲種は青銅製のモルチール砲(臼砲)、現在でいうところの迫撃砲の元祖だ。
大砲を一目見た学芸員氏は驚いた。そのうちの一門に”蓮池”の文字が彫り込まれている。蓮池とは佐賀藩の支藩で鍋島家の親族が藩主を務めていた蓮池藩のこと。他の一門はオランダ・ハーグのマウリッツ鋳造所で1819年に製造されたもので、天保14年に日本に輸入され、佐賀藩が所有していた事がわかった。その時代に、そんな物を手に入れられたのはあの人しか考えられない。そう、高島秋帆が発注した大砲だったんですね。それが何故、百数十年の時を経て板橋区に隣接した地で見つかったのか?いったいどんな理由で下板橋駅の隣までやってきたのだろう・・。では、そのナゾを簡単に説明しましょう。それは、こんな経過があったようです。

 時は終戦直後の昭和22年、関東金属工業の社長さんは友人とゴルフをしていた。その友人は鍋島さんと言った。そう、九州の大名・鍋島家の子孫の方である。(ちょっと調べてみると、鍋島直泰・1907年~1981年・という方がいて、その人は戦前の日本ゴルフ界で"アマチュア三羽鳥"の一人であった。旧肥前藩主の鍋島侯爵家に生まれ、父親が熱心なゴルフ愛好家であり、病弱だった直泰氏は11歳の年から健康増進のためにゴルフをはじめたらしい。日本アマ、オープンのアマ・タイトルを保持し、戦後は、世界アマ、世界シニアでも活躍した。でも、この方が大砲を所持していた方なのかはわかりません。あくまでも憶測です。)社長さんはその鍋島さんから、家にある古い大砲を買ってくれないかと持ちかけられたのだそうだ。当時は終戦直後で物資不足の時代、華族などの制度も廃止され、台所事情も苦しかったのかもしれない。そこで、当時そうとうの金額で買い取ったのだそうだ。しかし、社長さんはその大砲がとても貴重な品と思われたので、直後に朝鮮戦争特需があった時でも鋳潰さずに所蔵していたが、いつしか忘れ去られてしまった。そして時は平成の世に移り、古くなった倉庫を取り壊してマンションを建設することになった。その時、床下からひょっこり姿を現した・・ということなのだそうだ。もはやそんな古い大砲に誰も興味はなく、出来れば高額でどこかが買い取ってくれまいか、という次第なのであった。
そうそう、なんで佐賀から東京に来たのかはまだ説明してませんね。まず、天保14年に輸入されたこと。この時、すでに秋帆先生は伝馬町の牢獄にいた。(その後、埼玉の岡部藩へ送られ幽閉)現在と違い、海外に物を発注してから日本に運ばれるまで数年を要したので、天保12年の徳丸原演習の前に発注されていたようだ。このモルチール砲は、もともとジャワの東インド会社が所有していた物らしい。輸入されて一度幕府の所有となった後、弘化2年頃に佐賀藩へ渡された。そして佐賀藩でコピーされ、それが蓮池藩に渡されたもうひとつの砲だったのである。大砲は長崎港外、佐賀藩深堀領の伊王島の砲台に設置されていた。東京へ運ばれたのは明治時代になってからで、大正7年に海軍大将となった東伏見宮依仁親王が一時所有していたようである。(親王は大正11年に亡くなり、東伏見宮家は一代で断絶してしまう)当然モルチール砲は過去の遺物であったので、どこかで記念品として飾られていたのだろう。親王が亡くなった後、東京に暮らしていた侯爵・鍋島家に再び引き取られたのであろうか。

 売却話を持ちかけられた豊島区では、お金も由来もないので、取りあえず、板橋区に相談をした。板橋区としては直接は関係ないが高島秋帆に繋がる物なので購入したかったけど、当時はまだ財政事情が悪く購入を断念せざるを得なかった。そこで、国立歴史民俗博物館に相談したが、歴史民俗博物館もまたお金がなかった。そして最終的に購入を決めたのが、もともと大砲を所有していた佐賀県だった。佐賀県では大砲が発見された平成15年の翌年夏、「佐賀城本丸歴史館」をオープンさせる予定であったのだ。

 現在、下板橋駅の隣で発見された2門のモルチール砲は、数奇な運命を辿った後、佐賀県本丸歴史館に仲良く並んで展示されている、というわけなのである。

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大山駅とハッピーロード商店街の危機

123 下板橋駅の話題(駅の話じゃなかったけど)を書いたので、大山駅について一つ。

 大山駅は、昭和6年8月27日に開業した。写真の切符は開業から3週間目のもの。厚紙に印刷されたずいぶん立派な物だ。大きさは現在とほぼ同じで、専門用語ではA型硬券という。右下の”小”と書かれた右に斜めに引かれた線は小児断線といって、子供用としてこの線で切り離して使用する。開業当時は池袋や市電の下板橋駅に近かったので、乗降客は少なかった(昭和10年度・766人)ようだ。
ここで駅の話しはいったん終わり。歴史的経過や現況などはウイキなどを参考に・・・不親切ですみません・・。
 
 さて、前に金井窪駅について書いた時に、大山の旧川越街道沿い(現在のハッピーロード)には商店が少なかった、と書いたけど、大正6年頃にはすでに下駄屋や薬屋、たばこ屋、お菓子屋などそれなりに店はあった。ただし、巣鴨や神田の市場へ野菜を運ぶメイン道路だったので、それらの人々を相手にした店が多かったようだ。昭和20年4月13日の空襲により金井窪駅のある高田道沿いの商店街は灰燼に帰してしまった。しかし、ハッピーロード沿いは被害をまぬがれ、終戦直後にはすぐに闇市が立った。その当時のハッピーロードにはまだ街灯も無く、夜は殺伐としており、このままではいけないと昭和22年暮れに会員数119名からなる「大山銀座通り商和会」が創立された。翌年5月、美観と防犯を兼ねた街路灯44本を設置した。丸太にホロつき、裸電球という粗末な街路灯だったけど、これが現在の賑わいに満ちたハッピーロード商店街のスタートだった。
 昭和47年、順調に発展を続けていた商店街に、突然の危機が降って湧いた。そう、東京都道420号鮫洲大山線(都市計画路線補助26号線)の建設計画だ。この道路は東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道で、環7・川越街道と環6(山手通り)・中山道(国道17号)という4つの大きな道路をつなぐ有効な道となり、渋滞の解消にかなりの効果が期待されている。
起点は品川区東品川4丁目 国道357号交点(八潮橋交差点)、終点は板橋区氷川町 国道17号、東京都道317号環状六号線交点(仲宿交差点) 延長22,859m(上位路線との重複区間を除く)面積330,809m2。この道の何が問題となるのか・・道は中山道から東京都老人医療センター(旧東京都養育院)前の道に接続し、東上線の踏切を越えハッピーロードを分断して国道254号(川越街道)の大山西町交差点を越え「大山西銀座商店街」を抜け、要町通りの要町三丁目交差点へと続く。
 もう、おわかりですね。この道路はもろに商店街を分断してしまうのだ。モノクロの写真は昭和14年頃のもの。左写真、踏切の向こうが養育院。この道は千川上水を暗渠化して作った道だ。右の写真は左写真の場所から後ろへ振り向いて撮ったようですね。大山橋と思われる欄干が残っている。奥の道が旧川越街道。道幅が現在と変らないので、なんとなく今でも面影が残っている。補助26号線はこの道を拡張しようというものなのだ。
 私は親戚が水道タンク近くに住んでいたので、ここの界隈は子供の頃から馴染みだった。約十年くらい前からなんとなく大山西銀座商店街や水道タンク近辺の家が、櫛の歯が欠けるよう無くなって来たので定点観測をしてきた。(あまりまじめにではありませんが。)それがここ5年くらいで急加速し、とうとう水道タンクまでなくなってしまった。いつも正月に定点観測撮影してきたが、今年から撮影するのをやめた。それは、道路予定地の建物の更地化がほぼ完了したからだ。あの大山西銀座商店街もとうとう消滅してしまった。さていよいよ次はハッピーロード商店街にかかる部分が、と思いきや、なかなか反対運動が強くまだその気配は感じられない。これと似ているのが北町商店街(旧川越街道下練馬宿)で、数年前に開通した環八により商店街は分断されてしまった。ただし交差で分断されたので、撤去された店はそんなに多くはない。けれど、道路で分断された部分が傷口のように周囲に波及して、近辺の商店街は寂れてしまったように感じる。大きな道の周辺には、ビルやマンションが建てられる傾向になるようで、逆に商店街はせまくてゴミゴミしていたほうが人を引きつける。

果たして都市計画路線補助26号線とハッピーロード商店街は、今後、どんな決着をむかえるのであろうか・・。

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下赤塚駅と映画「自由学校」

PhotoPhoto_2Photo_3 何回か駅とは関係ない話題が続いてしまったので、今度はマジメに行きます。下赤塚駅の話です。

 下赤塚駅は、昭和5年12月29日に開業した。区内としては割と早い時期の開業だ。当時駅舎は旧川越街道側にしかなかった。赤塚村の村長だった並木某氏を中心として駅開設運動が行なわれた記録を、東京都公文書館で見た記憶がある。古い下赤塚駅の写真はあまり残っていないようで、私も数点しか確認していない。板橋区が昭和30年に製作した映画「伸びゆく板橋」に、ほんの一瞬だけ映る程度だ。
10年くらい前、あるお年寄りから、終戦直後に下赤塚駅で映画の撮影が行われ、ものすごい人が見物に集まった、との話しを聞いた。それ以来どんな映画なのかずっと気になっていたが、ある時、東上線の駅で配布されている情報誌「マンスリーとーぶ」を読んでいると、読者からのたよりとしてその話題が載っていた。当時の大人気女優、小暮実千代が主演した「自由学校」という映画だったことがわかった。その映画をなんとか観たいと思い、いろいろ探したがビデオ化されたことまではわかったけど、入手までには至らなかった。そして昨年、ようやく念願の映画のビデオを手に入れることができたのである。それでは映画の紹介しよう。

 もともと「自由学校」は大衆作家の獅子文六が、朝日新聞に1950年5月26日〜12月11日の間に連載した長編小説だった。そして、この小説の映画化をめぐり大映と松竹が真っ向から争うことになる。製作に際して大映側が提示したスタッフは、監督に吉村公三郎、脚本・新藤兼人。配役として駒子役に木暮実千代、南村五百助役に小野文春、ユリ役に京マチ子、隆文役には大泉滉、羽根田博士役に徳川夢声、銀子役に英百合子、辺見役に山村聡、その他、藤原釜足、藤田進、斎藤達雄、殿山泰司などそうそうたるメンツを集めた。それに対して松竹側も、監督に渋谷実、脚本・斎藤良輔、音楽に伊福部昭。出演は高峰三枝子、佐分利信、淡島千景、佐田啓二、笠智衆、田村秋子、杉村春子とこちらも一歩も譲らぬ陣容だった。結局、両方とも製作することになり、公開も昭和26年5月5日、2作同時に上映すると決まった。戦後初めての同作品競作となったのである。
 
 さて映画のあらすじは・・・怠惰な夫を家からたたき出した勝気な妻・駒子と、彼女にたたき出された夫・五百助。社会と家庭からの解放を求めて浮浪者の群落に入った五百助というサラリーマンあがりの四十男が、初めて接した別な社会や人間にふれ、そこに真実の生き方を見出してゆく。というもの。幾組かの戦前派の裕福な中年夫婦たちと対称的に自由気侭に毎日を生きる浮浪者たち、さらに戦後派の若く無軌道なカップルの姿などを交差させながら、 終戦によって手に入れた「自由」と言うものをどう扱ってよいか皆分からず右往左往しながら自由について学んでゆく過程を「学校」と言う題名のもとに描いている。

 では、この映画のどのシーンで下赤塚駅が使われたのか解説を。
まず、主人公の駒子と五百助夫婦は、戦時中に空襲を逃れて東京近郊の農家の一間を借り生活をしていた。冒頭、ささいな理由で仕事をやめた五百助は駒子になじられ、プイッと家出をしてしまう。五百助は駅から電車に乗り込み都心へ向かいます。まさか五百助が出て行くと思わなかった駒子は、あわてて後を追いかけますが、五百助を乗せた電車は駅を出てしまう、と言うシーン。そこで下赤塚駅が使われるんですね。二人の暮らす家は、駅へ向かうシーンの方角から赤塚にあるようですが、実際に赤塚でロケをしたかどうかはわかりません。映画の設定では下赤塚駅ではなく、架空の”武蔵間駅”となっています。映画には改札のシーンもあり、当時の改札は池袋寄りの一番端にあったことがわかります。駅入り口横には電話ボックスがあります。映画中盤ではこの電話ボックスから駒子が電話をかけるシーンがあり、電話ボックスから出た駒子は、家へ戻る途中の林の中で暴漢に襲われそうになるが(正義の味方が登場して助かる)、どうやらこのシーンは松月院近辺で撮影されたようです。映画の最後にまた赤塚らしい景色が出てきますが、場所を特定出来るものがなかったのでわかりません。
 一番左の写真、左端に「ハヤシ薬局」という看板の家がありますが、隣のカラー写真の同じ位置(白い無地の看板)の下に「ハヤシ商店」としてまだ残っているようです。真ん中の写真では踏切小屋から旗を振る貴重な映像が映っていますね。右側の写真、ちょっとわかりづらいですが、電話ボックスの右奥に踏切小屋が見えます。改札口は暗くて良くわからないけど、電話ボックス左、画面中央の所です。上に駅名看板らしきものが見えますが、これは撮影用の武蔵間駅の看板です。駅前では桜が咲いているので、撮影された時期ははちょうど今頃でしょうかね。公開は5月なので撮影から1ヶ月余りしか時間がありません。当時は映画全盛期だったので、こんな離れ業もあたりまえだったのかもしれませんね。C.G.処理なんて物もなかったし。

 ここでまめ知識を一つ・・・この映画は5月5日、そう、今で言うゴールデンウィークに公開された。大手2社による競作という話題性もあって映画は大当たり。正月やお盆興行よりも売り上げた。映画会社ではこれに味をしめ、多くの人に映画を見てもらおうと、当時、大映の専務であった松山英夫氏がこの期間をゴールデンウィークと命名した。これはラジオで最も聴取率の高い時間帯「ゴールデンタイム」に習ったらしい。当初は「黄金週間」ともいわれていたけど、インパクトに欠けることからゴールデンウィークとして定着したのだとか。
さて、結局どちらの映画に軍配が上がったのか??それは・・・残念ながらわかりませんでした。

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