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板橋区と飛行機・続その1

21 それでは今回はもう一人、板橋と飛行機に関連した人物を紹介しよう。題して「板橋の鳥人・伊賀氏広」 

・・・話は明治時代にさかのぼる・・・

男爵・伊賀氏広は、明治19年9月、高知市で生まれた。先祖は山内一豊に従い土佐藩に入国し、代々家老職を勤め宿毛に住み着いた。山内家とはたびたび婚姻関係を結んでいる。氏広は、12代伊賀氏成の養嗣子として、山内家より伊賀家に入った。明治31年に東京へ転住し、東京高等師範学校付属小学校に転入し、付属中学校を同37年に卒業している。その後、東京美術学校に入学したが、同40年春に退学し、1年志願兵として陸軍に入隊した。予備役召集で応召中の同42年11月、陸軍大演習に騎兵見習士官として参加する。その演習での出来事が、彼を空へと誘うきっかけとなった。
 大演習第1日目の払暁、氏広は将校斥候として茨城県内の那珂川左岸を北進中、対岸を北進する味方騎兵中隊の前方へ接近する敵軍大部隊を発見した。一刻も早く味方軍に伝えなければ大損害を被る。氏広はすぐに部下の騎兵を伝令として急行させたが、早く早くと気は焦るばかりであった。その時、天に向かい烏が飛び立つのを見、「ああ、この身に羽根さえあれば部隊の元へすぐにも飛んで行けるのに・・」と地団駄を踏んだ。それが伊賀式飛行機開発の動機であった。
 同月末、召集解除となった氏広は、すぐさま小石川宮下町の自宅へ戻り、飛行機の研究に没頭した。その6年前の明治36年(1903年)12月、アメリカのライト兄弟が、世界で初めて有人動力飛行に成功している。しかし、氏広が研究を始めた当時の日本には、まだ飛行機はなかった。
 
 さて自宅へ戻って飛行機の研究をしようにも、日本国内には飛行に関する科学力学や機械学等の参考書すらない状態だった。そこで氏広は、男爵家という裕福な境遇を存分に活かして飛行機に関する洋書を買い漁り、早くも翌43年3月には巣葉飛行機の模型を完成させた。この飛行機は「浮揚面を傾斜せしめて進行し、翼の裏面に風圧を受けて空中に浮揚すべき構造」を持った凧式飛行機であった。氏広は、さっそく完成した模型を、当時の権威であった東京帝国大学教授で地球物理学者の田中舘愛橘博士の元に持ち込み鑑定を申し出た。凧式飛行機の模型を見た田中舘博士は、すぐさま「特許局に申請して審査を受けるべし」と薦めた。そこで氏広は明細書を作成し特許審査を受けた。その際、模型を提出せよとの通知を受けたので、ゴム動力の模型飛行機を制作にとりかかる。そして完成した模型を特許局へ持ち込み、審査官の前で机上滑走飛行を試みた。・・すると、氏広の理論通り飛行機は机の上を滑走し、みごとに浮揚して窓の外へと飛んでいったのである。

 こうして同年9月、氏広は専売特許第18663号「伊賀式双葉空中飛行機」の特許を獲得した。このことは、当時の新聞に大きく取り上げられ、空への志に共感した軍人や民間研究者が、続々と宮下町にある氏広の研究室に集まって来た。

 〜 次回へ続く 〜

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