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2008年2月

農村の終焉

5 一体どこの田舎の農村風景?いえいえこれは前回の写真の黄金湯あたりの位置から、前谷津川を背にしてカメラを北方向に向けて撮ったもの。撮影は昭和38年10月、区画整理が始まる直前の時期だ。右端を徳丸通りが走っている。
 明治の古老の想い出話しによると、徳丸には大木が生い茂り、昼なお暗い場所が多かったと言う。私の記憶では、北野神社の周辺が特に大木が多かったように思う。徳丸通りの両側も日光杉並木街道よろしく、大木が並んでいた。だから、夏のセミ捕りには苦労した。セミが高い所にとまってしまうからだ。モグラやオケラ、バッタ、コオロギなどなど数え切れない程の昆虫もいた。ハエやヤブ蚊も多かったなあ・・。えっ、明治時代の話じゃないですよ。昭和も40年代のこと。よく見かけた茅葺き屋根の家も整理事業の過程でほぼ消滅してしまいました。
 徳丸5丁目と6丁目の区画整理がだいたい終了したのが昭和50年くらいかな。もうほんと、その時期からがらっと変わりましたね。林や森が無くなり家がドンドンドンドン建ち並んだ。そして第二弾がバブルとサティのオープンかな。今度はマンションなどの集合住宅がバンバン建ちはじめた。人口の増え方も凄いんじゃないかな。でもね、徳丸の連綿と続く歴史を辿ると区画整理もいたしかたないことだとわかるし、何よりも、大手デベロッパーが入り込んで開発したのではなく、土地の人達が一致団結して事業にあたったことが良かった。ホント住みよい場所になったと思いますよ。坂が多くて住みづらいなんて言ったらバチがあたります。

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田遊びと北野神社

2907 前回は農村の終焉なんて大層なタイトルをつけておきながらピントはずれのオチを書いてしまった。徳丸5丁目の区画整理が始まった昭和39年、徳丸たんぼ最後の田植えが行われた。言うまでもなく、現在の高島平地域である。これを最大の転機として長く長く続いた徳丸の農業は終焉に向かった。いきなり終わったわけではなく、徐々にではあるが。現在、板橋区内で専業農家を営む家は無い。
 毎年2月11日の夜、徳丸6丁目の北野神社では田遊びまつりが営まれる。縁起によれば、千年以上も続く新年の神事だ。本殿前にこしらえたもがりと呼ぶ聖域の中で、一年間の米作作業の様子を演じ、この年の豊作を願うものだ。昭和51年、お隣の赤塚諏訪神社の田遊びとともに、国の重要無形民俗文化財に指定された。
 私の生まれ育った家は、北野神社の近くにあった。しかし、子供の頃このまつりを見た記憶はない。家族ともに興味が無かったことと、まつりが始まるのが子供の眠る時間だったからだ。確か夜9時か10時くらいから行われたと思う。本来は深夜から明け方にかけてひっそりとおこなわれていたものらしいが。
戦時中の様々な制約により一時途絶えたが、昭和29年、古より続く神事を絶えさせてはならないと復活した。モノクロの写真がその時に撮影された写真だ。(カラー写真は昨年撮影したもの)この時は写真撮影の目的もあり、例外的に昼間に行われた。それから55年が過ぎた現在でも、まつりはほとんど型を変えずに続けられている。しかしその間に徳丸の農業は滅びてしまった。右のカラー写真に写っている方々は恐らく農業を肌で知っている最後の世代だろう。この方達が舞台を去った後、果たしてまつりはどうなってゆくのであろうか・・。

現在、田遊びまつりは午後6時頃から行われている。このことの意味するものを考えてみるのも一興ですね。

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徳丸本村の話し

29 写真は前回の続きで、昭和29年に行われた北野神社田あそびの一コマ(破魔矢)だ。まつりの後半に出てくるがどんな意味があるんだろう?後方に茅葺き屋根の家が見えるが、神主さんの住んでおられる家だ。現在も同じ場所にある。(さすがに茅葺きじゃないけど。)
北野神社は、縁起によれば千年前に同地に出来たそうだが、確認出来る資料によると江戸時代から神主さんの常駐している神社だ。江戸時代から神主さんが常駐していた神社は板橋区内では唯一なのだとか。
 徳丸村は1674年の検地で徳丸本村・徳丸脇村・四葉村に分かれた。名主の家があったのでここら辺が本村になったのだろう。昭和40年代から区画整理が進み、今ではすっかり集合住宅が混在する高級?住宅地となってしまったけれど、住宅地になる過程で大昔の遺跡が見つかった。
 板橋区役所では建築事業者向けに板橋区内の埋蔵遺跡の範囲を標した地図を発行しているが、その地図を見ると、北野神社周辺はほぼ全域が遺跡包蔵地といっていい。私の育った家も包蔵地のど真ん中にある。子供の頃、隣の家が新築工事をしたところ、古い壷がごろごろ出て来て大工が持って帰った・・なんて話を聞いたことがある。何年か前に畳を全て変えるというので床板を外して試掘してみたら、下の土は撹乱されてない覆土だったので、もしかすると住居跡かなにか出るかもしれない。埋蔵文化財の法律が整備されたのは昭和50年代になってからで、その法律が出来るまでに相当の遺跡が破壊されてしまったようだ。それでも、多くの場所で発掘調査が行われ、徳丸には旧石器時代から人のいた痕跡が残っており、縄文時代や弥生時代にも古墳時代も奈良時代にも人が住んでいたことがわかった。大昔から人々の住み易い、とてもいい土地だったんですね。

 今でも神社周辺の農園になっているところや、ちょっとした空き地を注意して観察すると、土器片を見つけることが出来る。発掘調査の際、残土に残った物だ。まっ、拾って持ち帰ったり役所に持って行くと面倒なことになるので、見つけても観察するのにとどめてリリースした方がいいですよ。

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失われた徳丸貝塚

PhotoPhoto_2 記憶に頼って書いているので間違っていたら申し訳ありません。最初に謝っておきます。北野神社のニの鳥居のある通りを東に進むと、不動通りへぶつかる急坂がある。その近辺に徳丸貝塚があったらしい。らしい、というのは埋蔵文化財の法律が整備される前に土地整理によって失われてしまったからである。発見されたのは戦前のこと(らしい)。
 最近手に入れた、[国立科学博物館研究報告・東京都内の地質(Ⅶ)板橋区徳丸貝層図譜/S32]によると、国立科学博物館の学芸員達が、昭和二十年代の半ばに徳丸に貝層の調査にやってきた。このときは、あるお宅の庭に掘られた”防空壕”から、堆積した貝層(厚さ1.5m)が見られるとのことでその調査を行ったそうである。お宅では戦時中、金属供出でオタマなど台所用品の金属を提出してしまい、その代わりに防空壕から出て来た貝の化石を代用品として利用していた。モノクロの写真は昭和42年9月頃に撮れれたもの。撮影地点は徳丸6丁目19番地、右のカラー写真は同所を平成14年11月に撮影したもの。この近くに徳丸貝塚があったらしい。学芸員達が調査した場所なのかどうかはわからない。
 私が小学生の頃、写真の道路で下水道管の工事をしていた。その時に掘り出された土に大量の貝の化石が混ざっていたので幾つか持ち帰り、菓子箱に入れてコレクションしていたのだが、母親に”汚い。ゴミ。”といわれ捨てられてしまった。今から思えば実に惜しいことをしたと悔やまれる。貝塚は、この土地整理事業の時にごっそりと抜かれてしまい、消滅してしまったようだ。本格的な調査が成されなかったのは残念なことでした。
じつは、今でも貝の化石が穫れるポイントがあるのだが、それは秘密にしておこう。

 昭和40年代の半ば、少年達に人気のあったスポ根ドラマ「柔道一直線」のロケがここで行われたことがある。本編で観た記憶がないのだが、見てみたいな〜。

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消えた村・四葉(一)

1 今回は徳丸を離れてみよう。写真は昭和54年頃、小学校時代の友人の家を背にして北西方向を撮影したもの。右方向を向くと紅梅小学校が見える。徳丸を離れる、と書いてしまったがこの場所は正確には徳丸8丁目で、現在は左手あたりに数年前できた紅梅公園がある。林の奥に見える家のあたりがユニクロかな。
 今では道路が整備されたのでわりと明確に徳丸と四葉の区割りがわかるが、区画整理前はごらんのとおり畑や林が続く土地だったので、ここらへんはもう四葉地区という印象が強い。
 子供の頃の四葉といえば、山あり谷あり森ありで、林の中にタクアン工場や茅葺きの農家の点在する、まさに純農村地帯といった趣きであった。私は昭和61年から平成2年までこの地を離れていたが、5年ぶりに帰って来てびっくりした。四葉地区が消滅していたからである。単に道路が整備されて宅地化が進んだ、といった生易しいものではなく、地形ごと根こそぎ変ってしまっていた。まさに”蒸発”した、といってもいい。この写真を撮った時、まさかそれから10年足らずで家やマンションやチェーン店が立ち並ぶ”街”になっていようとは露程も思わなかったのである。その事実を受け入れるのに暫く時間がかかった。このショックのせいで板橋区を極めようと思い至ったのかもしれない。

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消えた村・四葉(二)

23_2 今回の写真も四葉ではありませんが、四葉と同じ時期に区画整理されたのでご容赦を。左の写真は馬場坂を下った高島平への入り口近く、右の写真は記憶が薄れて自信がないけど左写真の左側の坂を上って行ったところだったような・・。今はユニクロやコイデカメラの前を通ってそのまま西郵便局や警察署のある高島平中央通りに繋がっている。
 高島平へ続く写真の道は団地の出来る前から変っておらず、ここを抜けると道の左側に一軒の家があり、その家の庭から一本の木が道に多いかぶさるように倒れかかっていたのが印象に残っている。その木を越えると、目の前に広大な耕地が広がる。未舗装の細い道がはるか彼方の新河岸川や荒川の土手まで続いていた。まっ、徳丸田んぼのことはまたの機会にということで話しを戻そう。左の写真の右側にある平屋の住宅群は今はない。赤塚公園や道路の敷地になってしまっている。記憶では、今のこのあたりの赤塚公園の樹木は自然の物ではなく、拡張工事後に新たに植えられたものだ。右の写真を撮った場所も掘削されて消滅してしまったと思われる。
 四葉の中を通る道は、昭和40年代半ばまでほとんどが未舗装で、雨など降ればたちまち泥だらけの悪路と化した。とくに雪の降ったときは最悪で、溶け出した後はもうぐちゃぐちゃ。耕作地以外は森に覆われていたのでなかなか道が乾かず、夜に凍ってもまた昼にはぐちゃぐちゃ状態に戻るのくり返し。自転車で走るとタイヤと泥よけ部分に泥が詰まって動かなくなるし、長靴で歩いても靴の裏に泥が張り付いて、まるで高下駄をはいてるようになった。右の写真はその当時の道のイメージに近い。
 左の写真の道は高島平と反対の南に向かうと馬場坂を抜け、今は酒屋かコンビニになっている”なかみち屋”さんの横から松月院通りにぶつかった。そこから徳丸通りを経て川越街道に出る重要な道だったので、馬場坂の部分は昔から舗装されていたのだそうだ。古老の話しでは、終戦後接収された成増飛行場の滑走路を破壊した時に出たコンクリートのガラを貰って来て道の整地をしたんだとか。舗装道路は新しい時は良いけど、そのうちに穴があいたりして補修をしないと非常に走りづらくなる。子供の頃は自転車が足だったので、馬場坂の坂道でスピードを出すと穴をよけきれずに突っ込んでしまったりして危なかった。左の写真の真ん中の部分、道路が崩壊して細くなっている所があるけど、これを見てそんなことを思い出した。

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徳丸田んぼの時代

Photo 写真に写っている愛らしい子供は私である。今では全く面影もないので顔出ししてもだいじょうぶだ。たぶん昭和40年か41年の晩秋のころ撮られた写真だろう。立っている場所は現在の高島平中央通りと思われる。馬場坂を下って北へ一直線に続く道だ。すでに田んぼとしての使命を終え、団地建設が始まるまで放置され原野に戻った景色が見渡す限り続いていた。
 
 今でもはっきりと憶えているが、用水路や池ではザリガニやトンボ、オタマジャクシなど数えきれないほどの種類の水生生物や昆虫が穫れた。野原にも夥しいイナゴの群れやトノサマバッタ、カマキリやコオロギなど昆虫がいた。薮の中にはヒバリの巣があり、上下に飛びながら鳴き交わしている。遠くの方ではラジコン飛行機を飛ばしている人や凧揚げに嵩じる人も見えた。子供にとってはまさに天国のような場所だったのだ。私はおそらく徳丸原を肌で知る最後の世代だろう。
 実は徳丸田んぼの歴史はそんなに古くはない。板橋市場の近くで弥生時代の水田跡が見つかったりしてはいるが、開墾が始まったのは明治時代に入ってからで、それまでは徳川将軍の鷹狩り場であったり、馬の飼料や肥料を採取する場であったり、幕末には砲術の演習場(高島秋帆の洋式調練以前から)であったりした。古文書では徳丸原と表記されている。どうして田んぼではなかったかというと、荒川に堤防がなく、大水が出るとすぐに氾濫し冠水してしまう場所だったからだ。整備された大水田地帯となるのは昭和8年に荒川の改修工事が終了してからのこと。ピーク時には東京都で消費する米の7割の量の収穫を上げたらしい。そのころは赤塚田んぼ、徳丸田んぼと呼ばれていた。大東亜戦争終了後は、新河岸川沿岸に出来た工場からの排水による水質悪化や地下水の減少など環境が悪化し、昭和33年の狩野川台風による水害などをきっかけとして宅地化計画が持ち上がり、37年5月から団地建設の具体化に向けて動きだした、というわけなんですね。団地建設中のことはまた次回にでも。

まだ高島平という町名がなかったころの昭和40年代初め、この地域にはこんな住所が与えられていた。(三園から東へ順に)上赤塚町、下赤塚町、四ツ葉町、徳丸本町、志村西台町。

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赤塚諏訪神社の田遊び

12 前回、徳丸の田遊びを紹介したが、赤塚の田遊びも忘れちゃあいけない。こちらは徳丸の2日後、2月13日に行われる。

 赤塚の田遊びの由来を知る資料は少ないが、江戸時代にはすでに行われていた。こちらも昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
一年の米作作業を”もがり”で演じることは同じだが、演目や出し物は徳丸のものとはだいぶ異なる。どんど焼きも行うし、こちらの方が派手だ。一昨年から十羅刹堂へ向かう時に子供達による”ささら”が行われるようになり、さらに派手になった。”ささら”とは、「刻みのついた竹の棒を両手に持ち、擦ったり、叩いたりして音を出す楽器」なのだが、諏訪神社の場合は太い竹を地面に打ち付けるだけだ。いつも平日に行われるので、開始時間(田遊び行事の前に社務所で謡がおこなわれたり、神殿で祝詞があげられたりするせいもあるが)は徳丸よりも遅い。
 
 写真は10年くらい前に撮影したもの。たまにはモノクロで撮ってみようかと思って高感度フィルムを使った。左の、もがり行事越しにどんど焼きを写し込んだショットは、最近もがりの位置が移動してしまったのでもう撮影することが出来ない。非常に残念である。わりと見学者が来るので、撮影する場合は場所を確保するのが大変だ。ビデオカメラマンも多く、一脚にカメラをつけて高い位置から撮影する人もいるので、引きのカットを撮るのは苦労する。また、演目をわかっていないとどの場所から登場してどの位置で何をやるのかわからず、あわてて移動しようにも先客がいて思うにまかせない。いい写真を撮ろうと思うならば、何年も通わなければならないんですよ。それと、前日に行われる餅つきや、当日の午前中にするまつりの準備なども、実は大事なものなのだ。田遊びを知りたいならばそれらも見ることをおすすめする。

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赤塚氷川神社の田遊び

123 そうだ、今日は赤塚氷川神社田遊びの日だった。えっ?板橋の田遊び行事は北野と諏訪の二ヶ所でしょ、と思っているあなた、そりゃ認識不足ですぜ。もう一ヶ所、板橋区立郷土資料館近くにある赤塚氷川神社でも、毎年2月10日、ひっそりと行われているのだ。
 
 この田遊びも先の大戦中に途絶えたけれど、北野や諏訪神社と違い、残念ながら戦後本格復活することはなかった。また、すでに行事そのものが簡素化されており、新編武蔵風土記などの古い記録にも無くどのような演目が行われていたかもわかっていない。地元の上赤塚の氏子の間では5〜600年前から伝わっていた、とされている。神社には、宝永8年(1711年)に奉納されたという「タロウジ・ヤスメ」の面が保存されているし、獅子もある。そのことから、赤塚氷川神社でも本来の形の田遊びが行われていたと考えられているのだ。
 北野や諏訪の田遊びはネットで検索すればすぐにどんな演目が行われるのか写真や解説が出てくるので説明しなかったが、氷川神社のものはおそらく出てこないだろうと思うので、ざっと紹介しよう。そうそう、現在の氷川神社田遊びは平成に入ってから再現されたものです。
当日の朝、年番の方々が集まり、境内に”どんと”(お焚き上げ)が作られる。中央には杉の真柱が立てられ、正月飾りやお札、ダルマや笹竹をめぐらし荒縄でしばる。どんと焼きの後、中心の柱が倒れた方位によってその年の農作業の手順を占っていたことの名残りなのだそうだ。午後2時前ころから神殿で田遊祭奉告祭が行われる。その後、社務所に移り直会(なおらい)となる。何年か前までは神事が終わって田遊び行事を行ってから直会だったが、今は変えられたようだ。一時間くらい、氏子や消防団の代表の方々が直会で飲み食いし、午後4時ころに氏子達は本殿前に整列する。氏子総代、火役、神官、氏子、太鼓、獅子の順に並び、お炊き物の前まで進む。この行列の順番だけど、以前は総代、太鼓、神官、火役、獅子、氏子の順で進み、お焚き物の回りをまわる時に先の順に並び替えるのだけれど、省略されたらしい。本来、太鼓や獅子を担ぐのは年男が担当するそうだが、これもまた人員不足で今年は該当者が一人だったそうな。
お焚き物の前についたら火役が提灯のロウソクの火を使って点火をする。火がついたら、隊列を作ったままどんとの回りを右方向に3回まわり、再び本殿前まで戻る。そう、もがりで田植え作業を演じることもないし、タロウジ・ヤスメもヨネボウも出てこない、じつにシンプルなものなのです。再現しようと試みられたのだけれど、文献がない以上無理なんですね。でも、その精神だけは継いで行こうとする、そのことが大事なんですよ。

写真は今日撮影した物。氏子、消防団と関係者が見守るのみで、部外者は私一人だけ。ある意味、本来の姿なのかもしれない。

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北野神社の田遊び・本番

123 昨日、徳丸6丁目の北野神社にて田遊びが行われた。その前にお詫びを。前回、北野神社の田遊びを取り上げたときに、開始時間を午後6時30分ころと書いてしまったが、午後6時ころから始まるのが正しかった。私も遅刻してしまいました。

 田遊び行事は、天候に恵まれない時が多く、いつであったか準備した時は晴れていたが、開始時刻直前に大荒れの天候となり、急遽神殿で行われたこともあった。2月11日は初午の日でもあり、初午はその年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものでもある。元々は春先の行事だったのが、冬の一番寒い時期の行事となってしまった。しかし、この日から春が始まるとされているので、天候が変りやすくなるのもしかたがないのかもしれない。
昨日のまつりは風もなく比較的穏やかな中、執り行われた。観客はざっと200人くらい、例年並みの人出であった。
 
 北野神社の田遊びは、基本的に本殿前に設えられた”もがり”の上で演じられる。もがりの中は結界の内であり、徳丸村の中でも選ばれた””の人々のみがもがりの上にあがることを許されている。基本的には皆、大昔からの農作民であった。まつりは、大稲元・小稲本を中心にして行われる。昨年、両稲本の交代があった。小稲本に選ばれた田上さんは現役の農民であり、紅梅小学校の下に茶畑を再現したり、区民農園の指導に熱心に取り組み、自身も大根やジャガイモなど様々な野菜を作り、漬け物を漬け農業まつりなどで販売もしている。また、地元の御嶽講の講元も勤めておられる。前回、板橋の農業は滅びた、と断定して書いたが、ごく少数ながら農業を続けている方はおられる。しかし、現在地元で農業を続けていくには先祖から続く農業を伝え残したい。と強い意志を持った人間にしか勤まらないものなのである。もはや伝統芸能の域であるといってもよい。田上さんは農民であることの誇りを持ってもがりの上で演じておられる。いつまでも、お元気でいていただきたい。

田遊び行事には(私を含め)多くのカメラマンがやってくる。以前、諏訪神社の田遊びで撮影に熱中するあまり、なんと神聖なもがりの上に飛び乗って撮影しようとした輩がいた。まったくもって言語道断である。少しはまつりの意味を考えてほしいものだ。

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赤塚諏訪神社の田遊び・前日

123 さて、今日は赤塚諏訪神社の田遊びである。”もがり”の設営や神輿の準備、飾りの製作などは当日の午前中に行われる。田遊びで使用される餅で作った馬の鞍や鍬は、北野神社では当日、諏訪神社では前日に製作される。この道具作りも大切な神事の一つと言って良いだろう。
 写真は二年前に撮影した餅を使った道具作りのようす。本来は、神社横の”脇の家”と呼ばれるお宅の庭で行われるが、この年はちょっと事情があって神社の境内で行われた。だから本来の姿ではない。
準備は、午後一時過ぎに年番の方々が集合し、神官のお祓いを受けてから作業に取りかかる。餅つきの道具は隣接の地域にある大門餅つき保存会の道具を借りて行う。大門の餅つきとは、旧赤塚村大門地区に伝わる集団餅つきで、起源ははっきりしていないが、江戸中期ごろに盛んだったようです。千本杵が5人、大杵が1人、こねどりが1人、唄うたいが2人の計9人が一組となって行う。餅つきは「ねりぶし」「つきぶし」という餅つき唄にあわせてつきあげます。地域住民の親睦・結束を示し、豊穣・繁栄の願いが込めらているのだとか。たまに保存会の方が混ざっていると余興で歌ってくれることもあります。まあ、田遊びの準備の様子は積極的に公開しているわけではないので、いつもは観客もおらず、ひっそりと行われるんですが。昨日はあいにくの雨模様だったので、どこで餅つきをおこなったのでしょうかね。

諏訪神社の田遊びは夜7時ころから始まる。最初は社務所で謡が行われ、境内での行事は7時半くらいから。北野神社の田遊びとは違いアクティブなので、撮影される方は場所を確保する必要は特にないけど、その分、乱暴な撮影になるので気をつけたい。

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赤塚諏訪神社の田遊び・本番

2143 作日13日夜、今シーズン最大の寒波が押し寄せ凍えるような寒さの中、諏訪神社の田遊びが執り行われた。平日だけあって北野神社の時よりも若干観客は少ないようであった。

 午前中に準備を終え、午後6時半ころより氏子達が社務所に集まり始める。7時をまわった頃から接待(お神酒と沢庵をふるまう)が行われ、謡が歌われる。歌は四海浪、庭の砂、高砂、千秋楽のいづれも目出たい歌である。その後、神官が神前で祝詞を上げ、外で神輿に御魂を移す。このあとはいちいち説明するのは大変なので箇条書きにしますが、順に、呼び込みー神輿渡御(神社を後にし十羅刹堂へ移動する)ー槍突き(破魔矢、駒、獅子が現れる・終了後、神社へ戻る)ー天狗御鉾の舞ー五月女呼込ー槍突き(破魔矢、駒、獅子が現れる)ー(もがり上に場所を移す・どんとに火がつけられる)苗代かきー大足ふみー種まきー水かけー鳥追いー苗見ー(参道に弁当箱を持ったヨネボ登場、つぎに太郎次とやすめ登場、抱擁後やすめ退き太郎次がスリササラを踊りながら去る)ー春田打ちー植田代かきー呼び込みー田植えー呼び込みー鳥追いー田草取りー田まわりー稲刈りー倉入れ、と演じられるわけです。もがりの中の行事は北野神社に比べれば狭くて人が密集しているので、解説書がなければ何をやっているのか良くわからないだろう。そのせいもあり、また寒さが厳しかったので観客の半分くらいはもがりを離れどんと焼きの回りで暖をとっていたのが印象的でした。中には帰ってしまう人もいますが、田遊び本来の行事なんですがねえ。まあその頃は9時くらいにはなっているし、昨夜はあまりにも寒すぎました。氏子の方々は厚めだけど着物姿でさぞや大変だったと思います。

十羅刹堂へ向かうときに子供達がささらで先導しますが、ささらに使っていたのは太い竹(隣接のタケノコ公園から取って来た竹か?)で、そのまま地面に打ち付ける所作をしていたけど、先端を帚みたいにバラさなくてもいいのかな?そこのところがわかりませんでした。

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高島平駅ができた頃

Photo_2 田遊びの話題で中断したけど、高島平の話を続けよう。歴史的なことは図書館の郷土史コーナーなどで調べていただくこととして、あくまで個人的な思い出を綴りますが。
高島平団地建設は、私にとって非常に感慨深い。紅梅小学校に入学してすぐに工事が始まり、卒業する時に完成した。だから、その一部始終を高台の校舎から眺めていたことになる。
 
 造成工事は、まず最初に田んぼの埋め立てから始まった。たぶん、数メートルは土を盛ったのではないだろうか。同時に、地下鉄の建設も行われていた。団地ができる、と聞いた時はピンとこなかったが、地下鉄ができると聞いた時は驚いた。やがて造成中の荒野の上に、高架式の線路と駅が出来上がった。これが地下鉄?しかもこんな何もない所に?不思議でしょうがなかったのも無理はない。何せ小学校低学年のことで、志村坂下から台地の中に入り地下鉄となることや、団地建設従事者の足を確保する為に最初に作られたことなど考えも及ばなかったからだ。
都営6号線が開業したのは、昭和43年12月27日のこと。開業当初は「志村駅」という名称だった。この時にはまだ高島平という地名はついていない。志村という名前は、ここら辺りがギリギリ志村西台町の内であり、西台という駅名はすでに隣の駅につけてしまったし、志村の住所名がここで終わるからなのかもしれない。高島平駅と名称が変更されるのは開業から半年後だ。高島平という地名は、幕末の西洋流砲術家・高島秋帆が天保12年(1841)5月に、幕閣のお歴々の前で最新式の砲術や西洋銃陣の披露を行ったことに由来をもつ。(明治維新は、ここから始まったと言ってもよい)
 
 写真は、開業時の記念切符と乗車券、入場券だ。乗車券は板橋区役所駅発行のものだけど、終点が志村駅となっている。真ん中の記念切符では、志村以西と巣鴨より先が伸長予定になっている。巣鴨以降は後に三田(今は武蔵小杉)まで伸びたけど、志村駅より先は東上線の和光市駅(当時は大和町駅)と結ばれる予定だった。切符は硬券で、私の記憶では自動販売機で購入した。ボタンを押すとペロンと出てくるのではなく、缶ジュースを買うようにコロコロと下に落ちて来た。
団地造成真っ盛りのころ、私は姉と中山道近くにあった志村ジャンボ.リンクのスケート教室に通っていた。ボーリングブームの少し前で、このころは東武デパートにもスケート場があったくらいで、スケートブームだったのかもしれない。記憶があやふやだけど、夏はプールだったかな?近くにローラースケート場もあったように思う。東京ボンバース全盛期の頃ですね。最寄りの志村三丁目駅まで行くのに高島平駅を利用したけれど、大型ダンプがガンガン行き交う歩道もない道を自転車で通うのは、非常に怖かったのを憶えている。駅前には建物もなく、通勤時間以外は全く人気もないさみしい所だった。駅構内には、当時出たばかりのカップヌードルの自動販売機が置いてあり、スケート教室の帰りに食べるのが楽しみだったっけ。商店なんて何もなかったから、結構な売り上げになったのではないだろうか。

 写真の割引券は最後の頃のもの。人気が下火になったのか、商店でばらまかれていた。この頃には私もスケートに興味はなくなり足は遠のいていたが、志村ジャンボ.リンクもいつの間にか閉園し、DIYのドイトになっていた。

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高島平団地のできた頃

132 昭和47年頃、高島平団地の本格入居が始まった。しかし、一部が完成した段階でまだ工事中の場所が多く、空き地だらけであった。紅梅小学校の下あたりは赤塚公園の整備も行われておらず(消えた村・四葉/ニの写真参照)、高速道路も高架柱を作っただけで放置してあった。
 
 初めて団地内に足を踏み入れた時に印象にあったのは、今の東京スター銀行裏の広場に作られた公園だった。高い鉄棒やキスチョコみたいな形をしたコンクリート製の小山、ジャングルジム・・。そこら辺の小さな公園にあるようなチマチマした遊具ではなく、ずっとスケールの大きなものだった。そして何よりもその回りを取り囲む12階建ての高層団地群には圧倒された。今では高層団地なんて珍しくはないが、当時は東洋一の規模といわれていたのだ。屋上への出入りが自由な時代だったので、早速屋上に行ってみたが、もともと徳丸の高台に住んでいたので”見晴らしが良い”という感じはしなかった。ただし真下を見るのは怖かったけど。
 
 数年前、深夜にやっていたNHKアーカイブスと言う番組で、「メッシュマップ東京」というドキュメンタリーを見た。もとは昭和49年11月に放映されたもので、西台か蓮根駅近くに残っていた水田で行われた最後の稲刈りの様子を冒頭に使い、高島平の消防署にカメラを据えて巨大団地で暮らしはじめた人々の不安やとまどいを描いた作品だった。中でも印象に残ったのは、当時、高島平地区では平均毎日1件の出産があり、それは東京都平均の5倍、全国平均の3倍のペースだったことや、子供夫婦に引き取られて高層階に暮らす、秋田県から来た明治13年生まれ!のおばあさんへのインタビューで、おばあさんが”怖くて外に出られないね〜”と答え途方に暮れていたシーンに目を引かれた。
 最近、やはりNHKのニュース番組で、高島平団地に暮らす人達の老齢化と過疎化の話題が取り上げられた。確か、大東文化大学の教授が、学校で借り上げた部屋に学生や留学生を住まわせて近隣住民との交流を盛んにして活性化を図るといった試みを始めた、という内容だった。そりゃあ入居してから35年もたてば分譲を買った世代も老人になるし、子供は家を出るから若者が少なくなるのは当たり前だ。また、今の高島平団地に引っ越そうと思っても、耐震や間取りや環境を考慮すると必ずしも魅力的な物件に映らないのはしかたがないかもしれない。小学校も次々に閉校するし、語られるのは未来のない話題が多いような気がする。だからこそ団地の将来を危惧する人達は様々な活性策を考えているし、大東文化大学の実験も行われているのだ。ただし、コミュニュケーション能力が高く、近隣の人達の生活に合わせられるような若者や留学生ばかりではないので、中にはトラブルも起きているケースもあるようだ。
 活性化計画で必ず取り上げられるのが、若い人達に魅力的な街を作ろう!というコンセプトだ。でもねえ、これからもっと若年人口が減るのは明確だし、その少ないパイを巡って他地域と争うのもどうなんですかねえ。それならいっそのこと、三田線沿線にある巣鴨の商店街を見習って、老人にやさしい街作りに徹したらどうかと思いますがねえ。街の活性化=消費の活性化、という考え方や、若者の集まる街を目指しても、他にいくらでも魅力的な場所はありますしね。私の母親も老人世代だけど、徳丸6丁目や7丁目に住んでいる人達は、近所のスーパーは潰れるし、東武練馬駅方面へ行くにはバスの便も減り、大変に不便な生活を強いられている。買い物は松月院通りのバスを利用して成増へ行く人が多いんじゃないかな。ときどき空き店舗を借りて老人を集め、怪しげな商売が行われているのを目にするけど、ああいうのも老齢者に対する無策から来ているような気がしますね。だからこそ、平坦で地の利の良い高島平には可能性が残されていると思うんですがね。

写真は昭和54・5年頃に撮影したもの。この子供達も、もう30代半ばだろう。すでに同じくらいの子供を持つ親になっているかもしれない。

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高島平と高島秋帆・その一・

3 今回のネタにしようとした題材の写真が手元になかったので、急遽、高島平の名のもととなった高島秋帆について書いてみます。

 秋帆は、寛政十年(1798年)長崎町年寄、高島四郎兵衛茂紀の三男として長崎で生まれました。高島家の先祖は戦国時代後期に、近江国(滋賀県)から長崎に移住したのだとか。寛永十一年(1634年)、長崎の富豪達に出資させて竣工した出島工事の出資人の一人で、その見返りとして出島出入りの役人としての権利を得るんですね。
 文化元年(1804年)九月、ロシヤの艦が長崎に現れ通商を申し入れてきた。その時、父親の四郎兵衛はオロシヤ掛りを命じられ、食料・日用品の調達や、艦の修理ほか様々な雑事に奔走した。そして文化八年、外国艦の侵入に備えるために、幕府から出島砲台の受け持ちを正式に命じられることになったんですね。そんなことから高島家の砲術は始まったわけです。父の跡を継ぎ砲術の研究に余念のなかった秋帆は、外国に対抗するには外国の仕法を心得なければならないと考えるようになり、出島へ出役した際、隙を見て砲術通の蘭人を呼び出し、通詞を通して西洋軍事学研究に勤しみ、私財を投げ打ってオランダから大砲や西洋銃や火薬や大量の書物を輸入します。そして、ついに“高島流西洋砲術“を完成させ、天保六年には、自家製のモルチール砲(臼砲=迫撃砲)を佐賀藩に売り渡すまでになるんですね。ちょうどこの時期、隣の清国ではアヘン戦争が勃発し、日本近海がにわかに騒がしくなってきていた。蘭船を通じこの情報を一早く知った秋帆は、国防に関する意見書である“天保上書”を書上げ、これを彼の理解者であった長崎奉行田口加賀守へ提出した。奉行はすぐさま秋帆の天保上書を幕府老中水野忠邦へ送りました。江戸湾の防備に苦慮していた水野は、早急にこれを評議にかけるよう御目付に命じる。天保上書を幕府に提出した秋帆は、自身の打ち立てた西洋流砲術を天下に知らしめんと、意気揚々としていました。そしてとうとうそのチャンスが巡ってきたのです。
 天保十二年正月、この年は、お目見えのため江戸へ参府する順番にあたり、その準備を進めていた秋帆の元へ、「参府の際、異国筒を持参し、西洋式砲術演習を披露するように」との内命がもたらされた。この命令に歓喜した秋帆は、さっそく砲の荷造りや演習に連れてゆく門弟の人選を始めた。こうして、秋帆以下二十五名が長崎の地を後にしたのは天保十二年一月二十二日のことでした。この時、秋帆は四十四歳、同行の息子、浅五郎は二十一歳でした。このほかに、先触れとして長崎から大坂まで二十七人、大坂で七人が加わり、合計三十四人で江戸に上りました。一行は二月七日に江戸に到着し、四月一日、将軍・徳川家に参謁し、十二日に、江戸郊外・武州徳丸ヶ原の幕府砲術演習場における火術見分の儀を仰せ付けられ、演練の日は五月九日と決まったのです。

う〜ん、長くなってしまったので、この続きはまた次回ということで。
高島秋帆を武士と思っている人も多いけど、身分的には町人なんですね。でもただの町人ではない。身分帯刀を与えられるどころか、将軍家に参謁を許されるまでの格式を持っていたのです。しかし、それが仇となり後に逮捕されてしまうことになるんですが・・。

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高島平と高島秋帆・そのニ・

1Army142前回の続きから:えーっと、武州徳丸ヶ原の幕府砲術演習場における火術見分の儀を仰せ付けられ・・からでしたっけ。その前にウンチクをひとつ。
 
 以前にも触れたけど、もともと砲術場に選ばれた徳丸ヶ原は、荒川沿いの低湿地であり周辺農村の秣場(まぐさば)として利用されていた。ここで砲術が行われた最初の記録は、享保六年(1721年)七月十日に御鉄砲町打役・渡辺長左衛門が行った「からくり筒」の試し打ちとされている。頻繁に砲術稽古が行われるのは、寛政期(1789年以降)に入ってからであり、時の老中・松平定信のもとで出された海防政策の影響と考えられている。この頃は、日本近海に外国船が頻繁に出没するようになり、ロシアの船が蝦夷地へ寄港するなど、海防に対する議論が幕閣内で高まっていた。寛政四年七月、幕府は毎年徳丸ヶ原で砲術訓練を行う方針を打ち出し、三百目玉以上の大筒稽古はこれまで通り相州鎌倉で実施することとし、徳丸ヶ原では一年に二度まで、三百目玉の町打ちとそのほかの砲術訓練を行うことにした。また、仮小屋、玉見塚や諸道具、人足などの経費は幕府が負担することとした。訓練は秣(まぐさ)の刈り取りが終わった後の六月・七月に行われ、嘉永三年からは八月まで延長される。安政期に入り徳丸ヶ原での砲術訓練は一時下火となるが、文久期には徳丸ヶ原の地理が野戦の演習地として最適と判断され、以降、徳丸ヶ原は「大筒稽古場」から「調練場」へと役割を変え、それは明治維新まで続いた。終わり。

うん、こんな板橋区史通史編から丸写しをしたようなウンチクだけじゃつまらないから、秘録写真をupしよう。これは昭和30年代に陸上自衛隊の隊員が徳丸田んぼで訓練を行っている写真です。実は徳丸ヶ原の調練場としての役割は江戸時代で終わったわけではないんですね。まだ確認していないけど、おそらくは明治時代以降も農閑期に軍隊が訓練に来ていたんじゃないかと思ってます。麻布の連隊が田柄あたりまで遠征訓練に来たという話が残ってるし、赤羽には工兵隊もいたし。まあ、正式な演習場ではないでしょうが。

すみません、高島秋帆の徳丸原西洋式砲術演習はまた次回ということで・・

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高島平と高島秋帆・その三・

45今度こそ徳丸原調練の話を。
武州徳丸原における洋式調練は以下のように行われました。
 天保12年(1841年)5月7日、秋帆と息子・浅五郎以下その門弟らは、赤塚村(現在の板橋区赤塚)の松月院に参集した。翌8日、徳丸原にて予行演習を行う。そして9日、調練当日を迎えた。参加総勢は100名、そのうち長崎出身者は30名で、他は薩摩藩、水戸藩を始め、全国から入門を希望し集まった藩士達であった。彼らは、秋帆が江戸へ入ってからの入門者で、本所六間堀の弥勒寺橋前にあった対馬藩宗家の中屋敷を借りて設けられた伝習所で訓練を受けていた。検分役として控えたのは、幕府老中・水野忠邦、後藤周防守・吉川一学、本多伊勢守、酒井出雲守、稲葉兵部少輔、稲垣若狭守、加納遠江守、堀若狭守、加納大和守、太田新六郎、松平内匠頭、石河美濃守、松浦肥前守、幕府鉄砲方・井上左太夫・田付四郎兵衛、そのほか御徒目付、御小人目付、諸組与力など蒼々たる面子であった。青年時代の勝海舟も、剣術の師である島田虎之介に連れられて見学をしたとの話も残っている。

以下は当日行われた8項目の調練のメニューです。
1、モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾8町目先の標的へ3発)
   1発目 高島秋帆指揮  27間越しに着弾
   2発目 高島浅五郎指揮 25間越しに着弾
   3発目 高島秋帆指揮  1町越しに着弾
2、 モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先の標的へ2発)
   1発目 高島浅五郎指揮 1町20間4尺に着弾
   2発目 高島秋帆指揮  14間越しに着弾
3、 ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先の標的へ2発)
   1発目 高島浅五郎指揮 川辺に着弾
   2発目 高島秋帆指揮  1町越しに着弾
4、 ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先の標的へ1発)
   1発目 高島浅五郎指揮 4町〜6・7町の間に散着
5、 馬上筒の操練(1往復3挺使用・1挺は腰に、2挺は鞍に装着)
  近藤雄蔵演武 3挺のうち1挺を取り落とすが、もう2挺を馬上にて三方へ射撃
6、 ゲベール銃備打(秋帆・浅五郎の指揮で97名が一斉射撃)
7、 野戦筒の操練(3門の砲を使用・1門に4人の門弟と4人の人足を配置)
8、 剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名・オランダ語指揮による隊形変換)

メニューの中には書いてないけど、太鼓に合わせての行進や集団体操も行われている。(いずれも日本で最初におこなわれたもの)
初めて見る西洋式の砲術の威力に驚いた幕閣は、すぐさま秋帆の持ち込んだ銃器類を買い上げ、西洋流砲術を奨励することにした。同時に、江戸湾に台場を作って西洋式の大砲を据えることを決めた。
しかし・・秋帆先生の羽振りが良かったのはここまで。翌年、新しい知識に嫉妬し憎悪する幕府役人一派の策略によって捕縛されてしまうんですね。まあここらへんの事情と秋帆のその後は図書館で関連書籍を読んでいただくこととして・・。徳丸原で行われた西洋銃陣についての解説を次回また続けます。

秋帆先生が指揮を執った場所は”弁天塚”と呼ばれ、大正時代には記念碑も建てられていましたが、高島平団地の造成工事で破壊され、碑は現在、高島平駅北200mの所に作られた徳丸ヶ原公園内に移されました。

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高島平と高島秋帆と西洋流銃陣

6_2  そうだ、紹介するのをすっかり忘れていた。私のプロフィール画像ですが、高島秋帆先生の肖像画なんですよ。原本は松月院が所蔵しています。確か大正11年に描かれたもので、徳丸原調練時の頃の肖像らしい。1枚だけ伝わっている、恐らくジョン万次郎が江川太郎左衛門宅で撮影したといわれる晩年の写真とはだいぶ印象が違いますね。
 さて秋帆先生の西洋流調練の続きですが、今回は日本古来の火縄銃(もとは洋式なんですがね)と火打式の西洋銃の違いと銃陣について解説します。
 
 まず一番大きな違いは、火縄銃は火縄で火薬を爆発させること。秋帆先生の輸入したオランダ製ゲベール銃は、火ばさみに挟んだ火打石を使って火薬を爆発させるということですね。火縄は扱いが大変で、ニオイや煙で敵に察知され易く、また雨天の時に使用するのが難しかった。その点、火打式は勝っていたけど、不発が多いのが難点でした。
次に、洋式銃陣が画期的だったのは、小銃そのものではなく運用術にあったんですね。火縄銃は引金のひっかかりが軽く出来ている(火縄をはさむ火ばさみ部のバネの力が弱く、打つ瞬間のブレが生じない)ので命中精度は高く、砲術各流派においての免許取得の合格基準は、距離15間(27メートル)に置いた八寸平方(24センチ)の標的に対して口径11.5ミリの弾で射撃し、十発中九発の命中で与えられた。それに対し、オランダ製ゲベール銃(17ミリ弾使用)で距離15間、24センチの標的を狙った場合は、命中率は50パーセントほどであり、火縄銃の方が優っていた。日本の火縄銃は、各自が標的を自分のタイミングで狙い撃つ「狙撃銃」としての性格を持ち、それゆえ火縄銃隊の戦術には、一斉射撃という概念はなかった。ところが、ゲベール銃を使用した洋式の銃隊は、密集隊形を組み、指揮官の命令一下、敵の集団に対して全員が一斉に発砲する。ゲベール銃にはリアサイト(後ろの目当て)となる照門がなく、猟用の散弾銃と同じで、筒先に照星がついているのみであり、その代りに頑丈なバットストック(肩当て)の銃床がついている。有効射程は150m以下なので、とにかく銃を水平に維持すればよく、したがって、リアサイトは必要ないのである。そのかわり、発射するための火薬の量が多く、反動もきつくなるので頑丈なバットストックで支える必要があった。そうすることで、弾は水平に飛び、敵軍を弾幕の中に捕捉することができた。つまり、ゲベール銃は狙撃銃ではなく、一斉射撃のための銃なんですね。戦闘においては、一斉射撃の後、命令一下、全員が着剣した小銃で突撃を行い、この銃剣突撃によって前面の敵部隊を粉砕する。これが洋式銃陣の真髄というわけなのです。
秋帆先生は、いち早くこの洋式の銃陣の合理性と威力を理解したのであった。ということなんですね。ご理解いただけましたか?

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高島平と高島秋帆と西洋流火術鉄砲隊保存会

12 今から6年前の平成14年、板橋区立郷土資料館に有志が集まり「西洋流火術鉄砲隊保存会」が結成された。梅まつりや板橋区民まつりや高島平まつりなどで、年に数回空砲発砲演武を行っているので、見たことのある方もいるだろう。
 この鉄砲隊は西洋流と名乗っているのに、日本古来の火縄銃を使って演武を行っている。何か変なのだがそれには理由がある。秋帆先生の輸入したタイプの火打式ゲベール銃は現在、日本に数丁しか存在していない。幕末に活躍した銃は、雷管を使う管打式銃が比較的多く、火縄銃でも管打式に改造されたものがある。しかし、管打式の発砲は銃刀法に触れる可能性があるので、しかたなく火縄銃を使用しているという次第なのだ。最初は演武自体も和流砲術師範の指導を受けていたので、装束以外は号令も装備も和流砲術の流用だったけど、ようやく去年の秋に革製のトンキョ帽や弾薬入れ(胴乱)銃剣が揃い、徳丸原調練図に描かれた姿に近くなった。号令も、高島流の調練書から実際に行われていたオランダ式の号令を引用し、演武で披露出来るようになった。しかし、火縄銃を使用することで西洋流の特徴である密集銃陣(押し合うほど密着するので火縄銃の場合には火縄が飛び、隣人の火薬を暴発させる危険がある)がとれないなど問題はあるが、本物の黒色火薬の空砲の音と煙と匂いを見学者にわかっていただくには仕方がないようだ。
 隊員は銃士隊員とサポート隊員に分かれる。銃士隊員になるには発砲可能な火縄銃を個人所有しなくてはならない。火縄銃は古美術品なので所持は可能だ。ただし、黒色火薬の購入や使用は警察の許可がなくては出来ない。これがとても厳しく、歴史的裏付けがなくてはやたらにイベントなどでは撃てない仕組みなのだ。資格を取った隊員が、その都度警察に分厚い書類を提出して許可を貰っている。板橋区内で演武が可能になったのは、高島秋帆が徳丸原で砲術演習をしたという歴史的事実があるからなんですね。
 秋帆先生は演習を含め合計3日間しか板橋(赤塚)にはいなかったけれど、そのたった一度の砲術披露が、日本を大きく変えたきっかけとなったのは間違いない事だ。明治維新はここから始まったと言ってもいい。うろ覚えだけど、大河ドラマ「花神」の冒頭シーンで、暗殺者に襲われた大村益次郎が、薄れゆく意識の中で若き日々を回想するのだが、その最初の場面が徳丸原の調練を見学した時のことだったような・・・。
おそらく、板橋区が日本史上で取り上げられるのは、この調練ぐらいしかないんじゃないかな。
 秋帆先生が演習の時に本陣としたのは赤塚の松月院だ。その宿舎跡に、演習の時に披露した大砲をモニュメントした記念碑が建っている。現在、板橋区の郷土資料館には多くの西洋流砲術の資料や秋帆の書画が収蔵されている。それだけではなく、松月院も多くの資料を所蔵し、宝物館の「松宝閣」で公開している。(実は私も秋帆先生の書画を十数本所有してます)しかし、高島秋帆関係の物は、一切、板橋区の文化財には指定されていないのですよ。これは、明治時代になってから、勝海舟が秋帆を”陸軍の祖”と標したことに始まる。大正時代の後半、第一次世界大戦が終わり戦争特需の終焉で経済不況に見舞われた。国家予算の大部分を占める軍関係も当然その影響を受け、いわゆる大正軍縮がなされた。同時に軍部は、第一次大戦が、すでにこれまで経験した日清日露戦闘の形態を旧態化してしまい、近代戦に備える必要性を切実に感じていたのですよ。そこで国民の厭戦気分を吹き飛ばし、軍の近代化を図ることを策謀し、その一環として祭り上げられたのが高島秋帆先生だったんですね。勝海舟が秋帆を”陸軍の祖”と讃えていたことを利用して、故郷長崎の邸宅跡を史跡に指定したり、松月院や徳丸原の弁天塚に碑を建てたり(この時、秋山好古が視察に訪れている)したというわけなんです。
ハイ、もうおわかりですね。要するに帝国陸軍が建てた記念碑を文化財に指定するとは何事だ!という戦後インテリな方々の執拗な反対により、板橋区の文化財には指定されていないというわけなんですね。まっ、文化財に指定されていなくても、秋帆先生の輝かしい業績には一点の曇りもない!と保存会の方々は申しておりましたが。

そんな西洋流鉄砲隊の演武が、来週3月2日に郷土資料館隣接の赤塚城趾公園で行われます。スケジュールを書いておきますので是非お越し下さい。

「双水執流 居合い」   (11:10〜)
「正木流萬力鎖術・十手術」(11:35〜)
「鷹匠」         (13:30〜)
「バグパイプ演奏」    (14:00〜)
「西洋流火術鉄砲隊演武」 (14:30〜)

鉄砲隊の演武もいいけど、日本鷹匠協会の尾作文男氏による鷹狩り実演は必見ですね。

*空砲の発砲がどんな感じなのか、今年2月17日に日野市中央公園で披露された演武の映像をYou TubeにUPしましたので、参考にしていただければと思います。

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板橋人の撮った「昭和の風景」写真展開催

12 今週水曜日から、成増アリエス3階の成増アートギャラリーで「藤崎光淳氏撮影 昭和の風景」と題された写真展が行われる。日頃から”趣味・板橋区”を公言する私にとってこんなに心躍る催し物はないので、勝手に宣伝させていただく。
 
 藤崎光淳氏は、成増4丁目にある青蓮寺の住職であったが(平成12年逝去)、写真を撮ることが好きで大正15年、10歳の頃から撮影を始めたというからすごい。昭和11年から青蓮寺に住み、21年に亡くなった父親のあとを継いで青蓮寺の住職となった。東京帝国大学理学部卒業で理論物理学を修めていたという経歴もユニークだ。氏の逝去後、残されたネガ8000枚は平成17年に奥様より板橋区へ寄贈されたそうで、今回の写真展はそれを記念して行われるのだ。
 写真は自宅近くの成増近辺で撮られたものが多いようで、その他、東京都内など他の地域の写真もあるそうだ。昭和10年代だと、個人でもカメラを所持し撮影することは珍しくなかったけど、写真は基本的には記念に撮られるものなので、いわゆる風景などのスナップを撮り歩くのは珍しいのである。ましてや東京郊外の板橋地域の写真はほんとうに少ない。今でさえ、ただの記録目的で板橋区内を写真を撮って回るような人は少ないはずだ。私も中3の頃から写真を撮りはじめたけれど、当時はまったく面白くない写真でも、それから幾十年もたった現在、ようやく撮っておいて良かった捨てなくて良かった、と思える写真になってきた。”消えた四葉”や”高島平”の項などで紹介している写真は、自分が10代の頃に撮ったものだ。田遊びなどの写真は撮る人が多いけど、日常の、将来他人にも共有出来るようなスナップ写真は、なかなか撮れないものなんですよ。

今回の写真展では、寄贈された写真のうち250点余りが展示されるようだ。開催期間が2月27日から3月3日までと短いのが残念だけれど、都合が付く方は是非、足を運んでみて下さい。写真集(図録)も販売されるようですよ。

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米人の撮った「成増の風景」

21 本日から成増アートギャラリーで始まった「藤崎光淳氏撮影 昭和の風景」写真展へさっそく行って来た。なかなかの盛況で、昨日の朝日新聞に紹介記事が載ったのでそれを見てやって来た方も多いようだ。
 展示では全倍程の大きさに伸ばされた写真もあり大変に迫力があった。中でも、荒川を走る帆掛け舟(昭和14年)と早瀬の渡し(同)は良かった。私は初めて見る写真で、上福岡の博物館の方もこれはめずらしいとおっしゃっていたそうだ。それと、昭和30年代に撮られた三園小学校の運動会の写真。そこには巨大な成増大露頭がバックに写り込んでいる。レンゲ畑が広がる三園の耕作地の上を飛ぶシラサギの写真もいいなあ。藤崎氏は成増と赤塚の境に住んでおられたので、三園や白子など、住まいの近辺で撮った写真が多い。そして昭和11年からは一時、戦争へ行った住職の変わりに浅草の龍泉寺に住まわれていたので上野近辺の写真も多くある。他には熱海での海水浴(戦前)や関西方面などの写真がある。中には大通りを陸軍の装甲車が野戦砲?を牽引していく所や、トラックに乗った兵士の行進風景など、場合によっては憲兵や警察に捕まったかもしれないショットもあった。とにかく盛りだくさんでじっくり見て回ると一時間くらいかかるかもしれない。図録(写真集)も1090円とリーズナブルな値段で売られており、展示されていない写真も載っている。もちろん購入しました。
 
 さて、今日の写真である。これは、海外のサイトで公開されている写真を引用させていただいた。撮影したのは現在の光が丘の前身、グラントハイツに住んでいた米国人である。昭和30年頃、成増近郊で写したらしいのだが、あまりにカントリーな写真なので場所がわからない。左の写真は雰囲気的に北方向(徳丸田んぼ)に向かって撮られたような感じだ。右の写真は、左の写真の真ん中に写っている家の横から撮影したと思われる。とりあえず、手元にある昭和44年度の住宅地図で調べてみたが、調べようにも目印となるのは真ん中の家だけだ。よく画像を見てみると家の横に薪が積まれているようにみえる。ひょっとすると売り物かもしれない。私の育った徳丸は、地形のせいかインフラ整備が遅れていて、水洗トイレになったのも都市ガスや都水道に変ったのも1970年代になってからだ。風呂を沸かしたりするのには薪を使ったし、料理はプロパンガスだった。だから、それらを扱う燃料屋さんがあちこちにあった。そこで、燃料屋を頼りに探すと・・写真展の藤崎氏が住んでいた青蓮寺から南東方向、氷川神社を越えてさらに南東へ行った所に土井燃料店という店を発見した。”清涼寺”(赤塚4-8-3)の裏手にあたる場所だ。店の隣は物置と表記されている。昭和44年度の住宅地図では店の北側に家が建ち始めているが、まだ周辺は林や畑に囲まれている。実際に確認しに行ってみたけれど(店は今でもあった)、あまりに現在の様子とは違うので確信がもてない。昭和22年に米軍が撮影した空中写真を見てみたが、結局わからなかった。で、最初の話しに戻りますが、藤崎氏が青蓮寺の近辺で撮影した中に、同じような風景(地形)の写真があった。確証はないけれど、赤塚4丁目から隣接の成増5丁目はこんな風景が続いていたのではないかな、と思うのである。

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仏様と牛/荒川にて。

12 今日は2月の最終日。そして、4年に一度のうるう日だ。思えばこのブログは練馬区との境である東武練馬駅辺りから始まり、そのまま成り行きで北へ向かっていたので、ちょうど板橋区の北の終点、荒川で閉めることにしよう。次回から新しいテーマで始められるし。(まだ未定ですが)
 この写真は1980年頃に撮影したもの。そろそろピンクレディーが下火になり松田聖子が出てくる頃だろうか。ディスコがはやっていたましたね。カンタベリーハウスとかつばきとか。ま、そんな世界とは無縁な、のどかな荒川の風景ですね。場所は新河岸3丁目あたりだと思う。見ての通り、荒川の土手に牛がいる。この時代には、すでに板橋区内では牧場も農家の牛小屋も絶滅していたのではないかな。それで、珍しくてシャッターを押したのかも知れない。一連の写真のベタ焼きを確認すると、土手下の道を人を乗せた馬が歩いているカットもあった。この牛はどこから来たのかな?と思い、昭和51年度版の住宅地図を調べてみると・・・おっ、ありました、笹目橋のすぐ横に牛舎が。(写真の奥へ行ったところが笹目橋)板橋畜産商事K.K.という会社が経営しているらしい。その手前の新河岸公園の横には規模の大きい豚舎もある。先日見た藤崎氏が昭和13年に撮影した写真にも、レインボーモータースクールの近くに食肉工場(表現を変えてあります)があったので、ここらへんでは昔から畜産業が盛んだったのかもしれない。
 次に左の写真ですが、記憶が定かでないけど牛のいる土手を越えて河川敷に入ったところ・・だったような気がします。それにしてもなんでこんな所に石仏があるんですかね。(その後確認していないので今もあるのかどうかはわからない)板橋区で発行されている石仏の本を見てもよくわからず、新河岸地区には水神宮の碑くらいしか見当たらない。もしかすると、土手を越えたあたりは見落とされて未調査だったのかもしれないですね。この石仏はお不動様でしょうか?なぜかというと、前谷津川にも”前谷津川不動様”が川の横に祀られていていたから。あっ、でも不動明王は右手に宝剣を持ち左手に綱を持っていなければならないのか・・写真の仏様は両手を合わせているので違うのかな。ちょっとそこらへんは勉強不足なのでわかりませんね、どなたかわかる方がおられればご教授をお願いします。小さい方はお地蔵さんですかね。
 前にも触れたけれど、板橋区域の荒川の改修工事は大正7年から始まり昭和8年頃に終わった。(新河岸川の完成は昭和5年)だから、石仏はおそらくその時に移動したものと思われます。可能性がある答えの一つとしては、下赤塚駅から松月院の横を通り溜め池公園の横を抜ける道は、鎌倉古道と呼ばれていて、源義経や上杉謙信軍も通った由緒ある道であり、そのまま荒川まで続き早瀬を渡って対岸の戸田へと続いていました。だからもとは早瀬の渡しに向かう道の路傍にあったのではないかな、と思うのですがどうでしょうか。撮影した当時、文字を読んでみるとかすれば良かったんですがね。残念です。
牛の写っている写真の左側は東京都の下水道処理場が広がっていますが、この建設工事のとき、弥生時代から平安時代にかけての遺跡や水田跡が発見されました。(早瀬前遺跡)専門家でも、まさかこんな氾濫原に遺跡はないだろうと思っていたので驚いたのだとか。泥地の中から木製品もいくつか発見されたようです。
それにしても、そんな大昔から水田耕作が板橋区でおこなわれていたなんてすごいですね。

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