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大木伸銅工業について

S15 今から10年以上前に徳丸に住んでいた人や、大東文化大学や北野高校に通っていた方は憶えておられるでしょうが、板橋サティの出来る前は、大きな工場がこの場所にありました。正式名称は大木伸銅工業株式会社徳丸工場。平成に入ってから生産は新座工場に集約されたので、サティ建設が始まるまでの数年間はとてもひっそりとしていました。工場の全盛期、朝の出勤時間には従業員や北野高校生やらで駅からの道は大混雑だったのを憶えています。
 ところで、会社名にも使われている”伸銅”ってなんでしょうか?簡単に説明すると、銅を棒や板、管、線などに加工することです。素材産業ですね。一歩外を出ると、ガードレールや交通標識のポールや電線等々、あらゆる所に使われているのがわかります。会社のHPを見ると、製造品目:銅及び黄銅の棒、りん青銅の板・条とありますので、設立当初から製造品はほとんど変っていません。もともとは練馬北町2丁目で荷車などの車軸を製造していた大木岩治氏が、大正13年にボルトやナットに加工される前の黄銅棒の製造を開始したことに始まります。最初の工場は今の東武ストアの場所にありましたが、昭和8年、徳丸側に新工場を建てました。写真は、昭和16年の4月に撮影されたもの。列を作っているのは北野高校の前身、府立第12高女の生徒達で、徳丸の新校舎建設の見学をかねて遠足に来た時に撮影されたもの。
新工場は、昭和6年に勃発した日中戦争による需要増を見込んで増設されたものと思われます。この年の末に東武練馬駅が開業しますが、大木氏が駅の土地を提供したのも、工場の拡張を考慮し、通勤の便をはかるためと考えられます。大東亜戦争が始まると、軍人が工場に常駐するような重要な軍需工場へと発展します。戦後も高度成長時代の波に乗って順調に生産を伸ばし、昭和29年には丸ノ内線工事で出た残土を裏の谷に埋め立てて敷地を拡張したり、37年には新座に新工場を建てました。そして42年に、横須賀にあった旧海軍の潜水艦ドッグの建物を移築して主工場として稼働させました。この頃が全盛期でしたが、その後、円高や他のアジアの新興国と競合するようになり、徐々に生産は縮小して行きました。そしてバブル時代を迎えた時、駅前の地の利をいかして開発する計画が起こりましたが、時すでに遅し。本来ならば成増駅北口のように駅を含めて大きく開発する予定が、バブル崩壊により計画は大きく狂い(東武鉄道との交渉や駅前の商店街との話し合いがはかどらなかったことも原因)、結局は工場の敷地にマイカル(倒産後、イオングループに吸収)の大型スーパーが単独で建設されることになったのです。板橋サティは、土地と建物を大木伸銅工業が提供し、イオンが運営をしているのです。サティの開業は徳丸地域に大きなインパクトを与え、それ以来、あちこちで大型マンションの建設が始まりました。上の写真の時代からはとても想像できませんね。

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