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徳丸タウンブリッジの開通

Photo

Photo_2 あまり古い時代の話しばかりでもなんですので、最近のことを一つ。(最近と言っても10年前のことですが。)サティの交差点を上板橋方面に向かう道がありますね、その最初の信号を越えると陸橋が架かっています。名前は「徳丸タウンブリッジ」といいます。手元の資料によると、橋長49.5m、幅員11m。総事業費38億円の堂々たる1等橋です。平成5年から工事が着手されました。長く徳丸に住んでる人間にとっては、やれやれやっと工事が始まったか、といった感じでしたね。
道はときわ台駅から下赤塚駅までをほぼ直線で結ぶ道路ですが、計画から40年以上も不動通りの上の部分が繋がらないまま放置されてきました。とくに赤塚方面に向かう場合は西徳通りまで大きく迂回せねばならず、車やバイクにとっては長年不便を強いられてきた場所でした。原因は、立ち退き交渉の不首尾です。当時は上板側の斜面にも住宅がありました。まあ、住んでいた方々には当然言い分はあるとは思いますが。そして、平成に入りサティ建設計画と機を一にして一挙に話しが進み、工事着手へと進んだわけです。

 この道、正式名称は都市計画道路補助幹線238号線といいます。(ちなみに橋の下から始まる不動通りは都市計画道路補助248号線。)ときわ台から上板過ぎまでは通称”ときわ通り”という名前が付けられていましたが、橋が繋がった今、徳丸の人間にとってはタウンブリッジから下赤塚方面はその名称では違和感がありますね。もしかすると私が知らないだけで名前が付けられているのかもしれませんが。
写真の説明が遅くなりましたが、1枚目は平成9年1月に東上線のホームから撮影したもの。2枚目はその年の3月28日の開通式の様子。当日は伝統にのっとり、関わりのあった方から選ばれた親子孫の3世代の家族を先頭にして渡り初めが行われました。しかし前回までの写真とは景色がまったく違いますね。
ようやく交通の便が良くなりましたが、車の交通量が飛躍的に増えてしまいそれはそれで困ることもあります。しかたないですけど。

Photo_3橋の開通式の時に割ったくす玉に付いていた”祝 徳丸タウンブリッジ開通”のバナー、あれ、式典の後で私が貰い受け大切に保管してます^^(一緒に写っている駅名板は昭和40年〜60年頃に駅で使用されていたもの。いたばし、は赤羽線時代の駅名板です。)

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コメント

平成8年10月頃、新大宮バイパスわきの東上線と練馬区を通る旧川越街道の間に挟まれた細長い赤塚新町一丁目 というところに引っ越してきたのですが、その頃にまだタウンブリッジができていなかったとは気が付かなかった。

投稿: ブルー | 2016年3月18日 (金) 19時00分

「徳丸タウンブリッジ」・・・その様な名前があるとは、今まで知りませんでした。昭和40~50年代頃は東武練馬から来ると、不動通りに下りる階段があったと思います。
その階段の手前(大東文化会館の向かい側)に、製本工場がありました。小学生の頃、実質行き止まりの道は子供達の遊び場でした。
そして、その製本工場から、製本ミスした最新の発売前の少年漫画誌が処分の為に集められていました。
私らは、製本工場の息子さんと草野球で仲良くなり、その製本ミスの最新刊を一年間の間、貰える事ができました。
暫くすると、その製本工場は移転してしまい、私の特権も消滅してしまいました。
今でも、イオンからタウンブリッジ方面を見ると、当時の事を思い出します。

投稿: ひでぼう | 2016年3月20日 (日) 16時20分

>>ブルーさま、ひでぼうさま、コメントをありがとうございます。
>ひでぼうさま
製本工場の記憶はありませんが、蔵?のような外観の”スタミナ太郎”はたまに行きました。店内はどこもかしこもギトギトでしたっけ。

投稿: オーク | 2016年3月21日 (月) 10時23分

徳丸タウンブリッジ…。今となっては私達の暮らしの利便に当たり前の様に存在してくれていますが、確かに昔なかった頃はクルマの人も自転車の人にも不便でしたね。オークさんのご説明にもありましたが、上板橋駅寄りの踏切の所に、化学メーカー・宇部興産の社宅が建っていましたね。私の小学校にはそこの社宅在住の児童が多く、徳丸四葉地区の少年野球大会にも、単独の宇部興産社宅チームとして参加していました。私もクラスメートが何人も居り、よく社宅の敷地で夢中になって彼らと遊んでいました。その彼らのご両親達は、たいていが中国地方出身で、東京で頑張って、山口県の本社へ戻れることを一番の目標に競争している様な具合でした。子供の私が初めて目の当たりにしたエリートサラリーマン達の真実は、今振り返っても強い印象として残っております。中学へ入ると、親の栄転で山口へと引越して行く同級生が一人、また一人という具合でした。みんなどうしているのかな…。低学年の頃、気が小さかった私をよく励ましてくれたS君。クラスのマドンナ的存在であったA美さんとは、先生の計らいで隣の席に選んでもらい、死ぬほどうれしい半年を過ごせました。2人ともどうしているかなー…

投稿: chokupon | 2024年5月 6日 (月) 15時27分

>chokuponさま
コメントをありがとうございます。私の中学の同級生にK君という人がおり、クラスメートからこいつ宇部興産の社長の息子だぜ、と揶揄われていましたが本当の話かどうかは定かではありません。タウンブリッジは今となれば当たり前の風景ですが、地元民には長年不便を強いられてましたね。

投稿: | 2024年5月 6日 (月) 21時09分

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