徳丸の地形について
最近、部屋の模様替えをしたのですが、その時、こんな写真が出てきました。現在の徳丸1町目あたりの高台から高島平方向にむけて撮影したものです。時代はわかりませんが、もしかすると石田収蔵が大正時代に撮影したものかもしれません。
この写真、見れば見るほど素晴らしいですね。まず、構図が良い。これほど徳丸という地域の特徴をとらえた写真はないでしょう。カメラ機材が発達した現在でもこんな写真は撮れません。今はあまりにも住居が建ち尽くしてしまい、地形をうまくとらえることが困難になってしまったからです。
板橋区は、東京都の北西部に位置し、武蔵野台地が荒川とぶつかる端にあたります。大きな河川と接するため、川に流れ込もうとする水により台地が削られ舌状台地を形成します。まさにこの写真からはその様子が伝わってきますね。徳丸に坂が多いのはそんな理由からなのです。今では前谷津川を始めとして、かつて存在した幾く筋もの水路が暗渠化され見えなくなってしまったので、あまり想像できなくなってしまいました。雨が続き、大水が出ると低地が水没してしまうさまがよくわかると思います。徳丸は、縄文時代まで海の入り江があったといわれていますが、その様子すらこの写真からは想像できてしまいますね。
写真の奥には、”離れ塚”と地元で呼ばれていた塚が写っています。この塚は、板橋宿の「縁切り榎」と同じく、婚姻の際にそばを通ると縁起が悪いとされ、嫁入り時には避けて通りました。この塚の後方には、台地の縁を東西に走る峡田(はけた)道がありました。(今でもありますが)まっ、簡単に説明すると、江戸時代、峡田代官が峡田領を巡視する時に通った道ですね。この塚は、舌状台地の突端が削られて離れてしまっただけに見えますが、もしや墳墓では?との説もあり、調査されるはずだったのですが、もたもたしているうちに区画整理で破壊されてしまったのです。今から40年くらい前のことでした。だから、この塚の写っている、しかも古い時代の写真は非常に貴重なんですね。よくぞこのアングルで撮ってくれたものです。
さて、画面中央やや左側に、農作業をしている人達が見えます。一体なんの畑なのでしょうか。下の方(真ん中あたり)は茶畑でしょうか?実は、徳丸は明治時代から昭和時代までお茶の栽培が盛んでした。私の母親も、茶畑がけっこうあったことを憶えています。(昭和30年代の頃)ただし、徳丸ブランドでは高値で売れなかったので、摘み取った茶葉は狭山へ運び、狭山茶へと姿を変えて売られていました。まるで中国産の野沢菜を長野で加工して長野産として販売してる、みたいな話しですね。現在では、徳丸でお茶が栽培がされていたことを伝え残そうと、徳丸7丁目にお住まいで、板橋区最後の農民といわれている田上さん(北野神社の田遊びでも大稲元を勤めておられる)が、紅梅小学校下の土地でお茶を栽培し、春夏年2回の摘み取りを区内の小学生が行っています。摘み取った茶葉は青梅の焙煎所で加工していただいているそうです。残念ながら市販はされず、老人ホームなどに配布されています。私も飲んだことはありませんが、どんな味がするのでしょうか?
実は、収集品としては持ってますので写真をどうぞ。
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