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2008年1月

最初の一枚

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皆様こんにちは。「板橋ハ晴天ナリ」第一回目をお届けします。最初に選んだ一枚は・・っとその前に、少し自己紹介を。私ことオークは、今を去ることんんんん十年前、上板橋駅近くの旧・松山病院で生を受け、以来成人を過ぎるまで徳丸の奥地で育ちました。私の生まれた頃はもちろんサティは無く、ミラベルはお風呂屋さんで、やまと糊の工場はマンションではなく、石川緑道も前谷津川でした・・。まだまだ自然も多く、北野神社の周辺には大木の林が続き、その間には茅葺き屋根の農家が点在し、武蔵野の風景の続く風光明媚な土地でございました。えっそりゃ昭和の初め頃の話しだろ?なんて声も聞こえそうですが、いえいえとんでもございません。昭和も40年代までは、そんなのどかな風景の続く土地だったのですよ。

さて冒頭の写真、これはどこを撮ったものかおわかりでしょうか?答えは・・今の徳丸1丁目付近から西の方角に向けて写したものなんですね。左側奥の林の部分が東武練馬駅。さすがに昭和40年代ではなく、今から90年近く前、大正時代の終わり頃に撮られた写真です。もちろん、東武練馬駅はまだありませんでした。(昭和6年暮れ開業)ここらへんの人々は、お隣の上板橋駅(大正3年開業)を利用していたんですね。現在の東武練馬駅の一日乗降客数は約56000人(2006年度)。いや〜当時の人々は、まさか今のような町になるとは思ってもみなかったでしょうねえ。。ということで、まずはオークの生まれ育った徳丸近辺から始めます〜。

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徳丸の丘から

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さて、やる気のあるうちにもう1枚。これはいったいどこから撮った写真でしょうか・・?って説明するのがメンドウなので文字を入れちゃいましたが、1丁目の丘の上から高島平方向にむけて撮ったんですね。
1回目の写真もそうだけど、撮影したのは石田収蔵という東京農業大学の教授を勤めていた人物。このお方、明治後期から大正期にかけて活躍した人類学者で、東京人類学会に所属し、おもに樺太方面の北方民族の研究をしていたのです。大正6年頃、板橋地域の遺跡調査にやってきてすっかりこの土地が気に入ってしまい、地主に頼み込んで土地を手に入れ大正9年に引っ越してきました。(現在の徳丸1丁目37番地付近)石田収蔵は仕事柄、当時では珍しくカメラを持っていて、これらの写真はその時に撮影されたのもなんですね。見ての通り、人家などまったく見当たらず、畑や武蔵野台地の荒野がひたすら続く・・。なんといっても、石田さんがこの地に移って来た理由が”樺太の風景に似ていたから”なんですよ。今では同じ位置から比較写真も撮れないくらい家が密集していますからね〜。この石田さん、近世になってから徳丸に土地を買って移り住んで来た移民第1号なのだとか。
石田さんは昭和15年に逝去し、その前年には奥さんも亡くなっており、いつしか家は荒れるにまかせ、とうとう近所の子供達から”お化け屋敷”呼ばわりされるようになりました。時は過ぎ平成5年、縁戚者が家を処分することになり、郷土資料館の方々が調査をした結果、家の中から夥しい書籍や資料が出てきました。その中にこれらの写真が発見された、というわけなのです。昔、写真は人物が中心の記念写真として撮影されるものでしたが、学者であったからこそ、徳丸の昔の風景を残しておいてくれたんですね。

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東武練馬駅からのながめ

Dsc_0002_2あまり昔の写真をupしても現在の様子とは全然違くてピンとこないから、もう少し時代の下った写真を上げてみた。東武練馬駅近くから北方向に向けて撮影された写真だ。なんだ相変わらずの山野風景じゃないか。なんてね。
では、この写真が撮影された背景を説明しよう。線路が写っているが、これは東上線の線路だ。位置はおそらく現在のホームの池袋行き側でいうと六両目あたりと推測する。駅が出来た当時はホームの長さは4両分くらいしかなかったんですね。(その後、6両になり8両になり10両と伸ばされた。10両になったのは昭和51年頃だったかな。大山駅の池袋側の踏切が無くなり道路が分断されたことを憶えている。)

写真は、昭和15、6年頃に撮られたらしい。今の板橋有徳高校の前身、都立北野高校のこれまた前身である、府立第12高等女学校が建設される直前に学校関係者が撮影したものだ。いまは写真の真ん中から左手側に板橋サティが建っているが、サティ建設前は大木伸銅という会社の工場と隣接した民家があった。工場が出来たのは昭和8年のことで当初はまだ規模も小さく、昭和30年ころに丸ノ内線工事で出た残土を利用して谷を埋め立て敷地を拡張した。まあ大木伸銅のことはまた項を改めて書くのでこの辺で。この写真が撮られた頃でもまだ徳丸側には人家がぽつりぽつりと点在していたくらいだったそうな。もっとも南口側は旧川越街道が走り、沿道には下練馬宿が続いていたから賑やかでしたが。現在のように駅を中心に町が広がるのは、もちろん鉄道が開通してからのことで、それまでは、街道沿いとか大きな庄屋や名主(村の取りまとめをまかされた豪農など)の家や寺社の近在が村の中心だったんですね。だから当時の徳丸の中心は、紅梅小学校のある安楽寺一帯でした。中心といっても商店街があるわけじゃないけどね。

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祝・東武練馬駅開業

Photo_2話しが前後しましたが、この写真、東武練馬駅が開業したときの記念写真です。いまから約77年前の、昭和6年12月29日に開業しました。写真の場所は今の南口、作秋にオープンした新駅ビル?の敷地内だ。いやはや、何ともレトロな日本家屋の駅舎ですね。当時は南口側にしか出入り口はありませんでした。前の写真を見ていただければお分かりの通り、徳丸側は人家が少なかったので必要がなかったんですね。北口に駅舎が出来るのは、昭和40年代になってからのことでした。
駅の土地を提供したのは、下練馬宿の大地主、大木家。当時、駅から自分の家まで他人の土地を踏まずに帰れるわい、と言ったとか言わなかったとか・・。板橋サティの土地に建っていた大木伸銅の大木さんは分家さんだ。今でも旧川越街道沿いには大木という名字が多いけど、もともとは一族だったようですね。一説によると、中世時代に江戸に進出してきた豊島氏にくっついてきて土着したらしい。それから数百年の間にたくさん分家が出来たというわけですね。だから、付き合いのある家もあれば、そうでない家もある。他には、”田”の文字のつく家とか、榎本とか粕谷とか安井なんて家もそのパターンかな。
開業したころは、近所に歯医者と雑貨屋と自転車屋があるきりで、踏切の脇(パチンコ屋のある側)には「見ざる言わざる聞かざる」の彫ってある庚申塔がポツンと佇む、街灯もない非常に寂しい場所だったようです。成増寄りの最初の踏切の所にあるたぬき小路はその時の名残りなのかしらん。

それにしても、なんで暮れも押し詰まった12月29日に開業したのかな?謎です。。

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昭和20年代の東武練馬駅

20この写真は昭和20年代後半?の東武練馬駅と思われる。年代については詳しい資料を見ながら書いていないので自信はないけど、電車がまだツートンカラーじゃないし、通学の北野高校生の中に男子の姿がちらほらとしか混じっていないから、が判断理由かな。後半、としたのは、買い出し列車のころよりも車両がまともになっているからね。
北野高校は、もともと女学校としてスタートし、戦後、都立高校になってから共学の学校になった。だから、最初の頃は女子の方が圧倒的に多かった。駅舎も建て替えられたようだけど、初代よりも質素になった感じがしますね。前回書いたように改札口は南側にしかなく、池袋方面のホームへは改札を入って構内踏切を渡って行った。今でも駅員用の小さな踏切のような物があるが、まさにそこが渡る場所だったのだ。ホーム上の白い屋根は、1、2両分くらいしかなかった。写真左側手前に遮断機のバーが見えてるけど、自分の幼い頃に見た物とは違う感じがする。私が憶えているのは、大山駅のハッピーロードの踏切のようなロープ式だった。成増側に小さな小屋があって、その中で駅員が旗を振り、丸いハンドルを回して上げ下げしていて、それが面白くてずっと見ていたっけ。ん〜でもこの写真の駅前風景、やっぱり見覚えないなあ。

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昭和30年代の東武練馬駅

30 さて、この写真は昭和30年頃に撮影された東武練馬駅です。そうそう、これですよ私の記憶にある改札口は。昨日の写真とはちょっと違いますね。駅舎部分は前回の写真に似ていたような・・。とにかく、昭和40年代まではこの雰囲気のままでした。改札口の上にある丸い照明は、夜になるとオレンジ色の明かりが点きましたが、とても薄暗くてなんだか侘しい雰囲気だったのを記憶しています。
左上に当時の切符を表示しておきました。いわゆる”硬券”という切符で、このころは窓口で購入しました。券売機が登場するのは30年代半ば以降でしたが、国鉄などへ乗り換える券は40年代まで窓口で買わなくてはなりませんでした。改札口の左側に荷物が積んでありますが、”郵便車”に乗せるのでしょうか。専用の車両に小荷物を積み込んだりする様子をうっすらと記憶しています。東上線は貨物輸送が盛んでしたので、頻繁に貨物列車が通過していました。牛が運ばれて行くのも見たことがあります。

 駅前には公衆電話ボックスが見えますね。奥の方には平屋の住宅がたくさん建っているのがわかります。ちょうどこの頃に私の両親は結婚して徳丸に引っ越してきました。郊外の手頃な住宅地として開発が始まった時期なんですね。
手前にオート三輪が駐車していますが、なんとこの広場はバスターミナルになっていたんですよ。昭和40年代の記憶ですが、徳丸通りを宮の下の交差点で右折して不動通りにぶつかった所が終点「徳丸本町」のバス停で、そこで折り返して桜台まで走っていました。あの駅前の踏切をバスが渡ってたなんて今では信じられませんね。
当時はボンネット型のバスで女性の車掌さんが乗っており、切符を販売したりバス停案内をしていました。そういえば幼稚園の頃だったか、駅からバスに乗り(ウインカーがランプ式ではなく、運転席横の窓から矢印みたいな板がピョコンと出るのが面白く、それを見たいが為にいつも運転手の後ろの席にいた。)坂を下って宮ノ下の交差点を曲がるところで運転手がカーブの目測を誤って、車輪がドブに突っ込んでしまい、その衝撃で手すりに頭をぶつけて大きなコブを作ったことは懐かしい思い出です。当時はあまりドブ(今でいう側溝ですね)に蓋がしてなくて、危なかったんですよ。ドブの壁にはかたつむりがたくさんいました。

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大木伸銅工業について

S15 今から10年以上前に徳丸に住んでいた人や、大東文化大学や北野高校に通っていた方は憶えておられるでしょうが、板橋サティの出来る前は、大きな工場がこの場所にありました。正式名称は大木伸銅工業株式会社徳丸工場。平成に入ってから生産は新座工場に集約されたので、サティ建設が始まるまでの数年間はとてもひっそりとしていました。工場の全盛期、朝の出勤時間には従業員や北野高校生やらで駅からの道は大混雑だったのを憶えています。
 ところで、会社名にも使われている”伸銅”ってなんでしょうか?簡単に説明すると、銅を棒や板、管、線などに加工することです。素材産業ですね。一歩外を出ると、ガードレールや交通標識のポールや電線等々、あらゆる所に使われているのがわかります。会社のHPを見ると、製造品目:銅及び黄銅の棒、りん青銅の板・条とありますので、設立当初から製造品はほとんど変っていません。もともとは練馬北町2丁目で荷車などの車軸を製造していた大木岩治氏が、大正13年にボルトやナットに加工される前の黄銅棒の製造を開始したことに始まります。最初の工場は今の東武ストアの場所にありましたが、昭和8年、徳丸側に新工場を建てました。写真は、昭和16年の4月に撮影されたもの。列を作っているのは北野高校の前身、府立第12高女の生徒達で、徳丸の新校舎建設の見学をかねて遠足に来た時に撮影されたもの。
新工場は、昭和6年に勃発した日中戦争による需要増を見込んで増設されたものと思われます。この年の末に東武練馬駅が開業しますが、大木氏が駅の土地を提供したのも、工場の拡張を考慮し、通勤の便をはかるためと考えられます。大東亜戦争が始まると、軍人が工場に常駐するような重要な軍需工場へと発展します。戦後も高度成長時代の波に乗って順調に生産を伸ばし、昭和29年には丸ノ内線工事で出た残土を裏の谷に埋め立てて敷地を拡張したり、37年には新座に新工場を建てました。そして42年に、横須賀にあった旧海軍の潜水艦ドッグの建物を移築して主工場として稼働させました。この頃が全盛期でしたが、その後、円高や他のアジアの新興国と競合するようになり、徐々に生産は縮小して行きました。そしてバブル時代を迎えた時、駅前の地の利をいかして開発する計画が起こりましたが、時すでに遅し。本来ならば成増駅北口のように駅を含めて大きく開発する予定が、バブル崩壊により計画は大きく狂い(東武鉄道との交渉や駅前の商店街との話し合いがはかどらなかったことも原因)、結局は工場の敷地にマイカル(倒産後、イオングループに吸収)の大型スーパーが単独で建設されることになったのです。板橋サティは、土地と建物を大木伸銅工業が提供し、イオンが運営をしているのです。サティの開業は徳丸地域に大きなインパクトを与え、それ以来、あちこちで大型マンションの建設が始まりました。上の写真の時代からはとても想像できませんね。

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徳丸の地形について

Photo 最近、部屋の模様替えをしたのですが、その時、こんな写真が出てきました。現在の徳丸1町目あたりの高台から高島平方向にむけて撮影したものです。時代はわかりませんが、もしかすると石田収蔵が大正時代に撮影したものかもしれません。
この写真、見れば見るほど素晴らしいですね。まず、構図が良い。これほど徳丸という地域の特徴をとらえた写真はないでしょう。カメラ機材が発達した現在でもこんな写真は撮れません。今はあまりにも住居が建ち尽くしてしまい、地形をうまくとらえることが困難になってしまったからです。

 板橋区は、東京都の北西部に位置し、武蔵野台地が荒川とぶつかる端にあたります。大きな河川と接するため、川に流れ込もうとする水により台地が削られ舌状台地を形成します。まさにこの写真からはその様子が伝わってきますね。徳丸に坂が多いのはそんな理由からなのです。今では前谷津川を始めとして、かつて存在した幾く筋もの水路が暗渠化され見えなくなってしまったので、あまり想像できなくなってしまいました。雨が続き、大水が出ると低地が水没してしまうさまがよくわかると思います。徳丸は、縄文時代まで海の入り江があったといわれていますが、その様子すらこの写真からは想像できてしまいますね。
 写真の奥には、”離れ塚”と地元で呼ばれていた塚が写っています。この塚は、板橋宿の「縁切り榎」と同じく、婚姻の際にそばを通ると縁起が悪いとされ、嫁入り時には避けて通りました。この塚の後方には、台地の縁を東西に走る峡田(はけた)道がありました。(今でもありますが)まっ、簡単に説明すると、江戸時代、峡田代官が峡田領を巡視する時に通った道ですね。この塚は、舌状台地の突端が削られて離れてしまっただけに見えますが、もしや墳墓では?との説もあり、調査されるはずだったのですが、もたもたしているうちに区画整理で破壊されてしまったのです。今から40年くらい前のことでした。だから、この塚の写っている、しかも古い時代の写真は非常に貴重なんですね。よくぞこのアングルで撮ってくれたものです。
さて、画面中央やや左側に、農作業をしている人達が見えます。一体なんの畑なのでしょうか。下の方(真ん中あたり)は茶畑でしょうか?実は、徳丸は明治時代から昭和時代までお茶の栽培が盛んでした。私の母親も、茶畑がけっこうあったことを憶えています。(昭和30年代の頃)ただし、徳丸ブランドでは高値で売れなかったので、摘み取った茶葉は狭山へ運び、狭山茶へと姿を変えて売られていました。まるで中国産の野沢菜を長野で加工して長野産として販売してる、みたいな話しですね。現在では、徳丸でお茶が栽培がされていたことを伝え残そうと、徳丸7丁目にお住まいで、板橋区最後の農民といわれている田上さん(北野神社の田遊びでも大稲元を勤めておられる)が、紅梅小学校下の土地でお茶を栽培し、春夏年2回の摘み取りを区内の小学生が行っています。摘み取った茶葉は青梅の焙煎所で加工していただいているそうです。残念ながら市販はされず、老人ホームなどに配布されています。私も飲んだことはありませんが、どんな味がするのでしょうか?
実は、収集品としては持ってますので写真をどうぞ。
Photo_2

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徳丸の地形・続き

Photo 前回とちょっと角度の違う所から撮った写真を紹介しよう。これは、北野高校(第12高女とか板橋有徳高校と書いてもなんだか違和感があるので。)の裏から撮影したものです。時代はおそらく昭和16年から20年代までの間と推測。米軍が昭和22年7月に撮影した空中写真と建物の位置などほぼ一致する。
 写真に写っている中尾観音堂は現在でも同じ場所にある。真ん中には2軒の大きな茅葺き屋根の家がありますね。現在の徳丸に残っている茅葺き屋根の家は、安楽寺近くの粕谷家住宅しかのこっていませんが(都内でオリジナルの場所のままに建っている茅葺き屋根の家はここのほか、あと一カ所しか無い。)昭和40年代までは茅葺き屋根の家はそんなにめずらしいものではありませんでした。紅梅小学校近くの松月院通り沿いにある中道屋さんは、昭和50年代まで茅葺き屋根でしたね。徳丸は地形のせいでライフラインの整備が遅れていたので、井戸を使っている家や薪で焚く風呂の家が普通にありました。(私の家も薪で焚いてました。)中道屋さんでは薪を扱っていてよく配達してもらっていたっけ。昨年、徳丸5丁目の小金湯対面で30年以上営業していたスーパー立山が閉店した。昭和30年代頃から小さな規模の商店街がいくつか出来たけど、現在はコンビニとサティの出現でほぼ壊滅してしまいましたね。もちろん、この写真の撮影された頃は商店などほとんどありませんでしたが。

ちょっと取り留めが無くなったので、今日はこの辺で。

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徳丸タウンブリッジの開通

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Photo_2 あまり古い時代の話しばかりでもなんですので、最近のことを一つ。(最近と言っても10年前のことですが。)サティの交差点を上板橋方面に向かう道がありますね、その最初の信号を越えると陸橋が架かっています。名前は「徳丸タウンブリッジ」といいます。手元の資料によると、橋長49.5m、幅員11m。総事業費38億円の堂々たる1等橋です。平成5年から工事が着手されました。長く徳丸に住んでる人間にとっては、やれやれやっと工事が始まったか、といった感じでしたね。
道はときわ台駅から下赤塚駅までをほぼ直線で結ぶ道路ですが、計画から40年以上も不動通りの上の部分が繋がらないまま放置されてきました。とくに赤塚方面に向かう場合は西徳通りまで大きく迂回せねばならず、車やバイクにとっては長年不便を強いられてきた場所でした。原因は、立ち退き交渉の不首尾です。当時は上板側の斜面にも住宅がありました。まあ、住んでいた方々には当然言い分はあるとは思いますが。そして、平成に入りサティ建設計画と機を一にして一挙に話しが進み、工事着手へと進んだわけです。

 この道、正式名称は都市計画道路補助幹線238号線といいます。(ちなみに橋の下から始まる不動通りは都市計画道路補助248号線。)ときわ台から上板過ぎまでは通称”ときわ通り”という名前が付けられていましたが、橋が繋がった今、徳丸の人間にとってはタウンブリッジから下赤塚方面はその名称では違和感がありますね。もしかすると私が知らないだけで名前が付けられているのかもしれませんが。
写真の説明が遅くなりましたが、1枚目は平成9年1月に東上線のホームから撮影したもの。2枚目はその年の3月28日の開通式の様子。当日は伝統にのっとり、関わりのあった方から選ばれた親子孫の3世代の家族を先頭にして渡り初めが行われました。しかし前回までの写真とは景色がまったく違いますね。
ようやく交通の便が良くなりましたが、車の交通量が飛躍的に増えてしまいそれはそれで困ることもあります。しかたないですけど。

Photo_3橋の開通式の時に割ったくす玉に付いていた”祝 徳丸タウンブリッジ開通”のバナー、あれ、式典の後で私が貰い受け大切に保管してます^^(一緒に写っている駅名板は昭和40年〜60年頃に駅で使用されていたもの。いたばし、は赤羽線時代の駅名板です。)

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徳丸露頭?

Photo 今回は駅周辺から少し離れてみよう。写真は以前より紹介している府立第12高女の生徒達の写真だ。さて、生徒達は断崖に向かって何をしているのだろうか。一連の写真から、昭和16年頃の徳丸新校舎建設地遠足の時に周辺を回った際に撮られた一コマではないかと推測する。
答えは見ての通りですが、彼らは切り通しの崖に出現した露頭を見学しているんですね。専門家ではないので詳しくわからないが、ちょうど生徒達の見ている部分は約十五万年前の地層、東京層なのだろうか、きっと夢中になって貝の化石を探しているに違いない。

 では、この場所はいったいどこだろう?板橋区には、全国的に有名な成増大露頭という場所があった。教科書にも載っていたくらい有名だった。それは三園の成増厚生病院の裏手、峡田道沿いに存在したが、現在はマンションが建てられ見ることは出来ない。そこがこの写真の場所かといえば、どうもそうではなさそうだ。板橋区から発行されている成増大露頭の調査報告書を見ると、成増のものはもっと規模が大きい。崖の高さは20mくらいある。しかし、写真の崖はせいぜい5mくらいだ。それと、成増大露頭が出現したのは戦後になってから土砂採取業者によって採掘された為らしい。他に徳丸周辺で考えられるとすれば、徳丸通りが宮ノ下交差点へ向かう途中、旧徳丸出張所を過ぎた坂道のあたりだろうか。
徳丸通りは、江戸時代から徳丸本村中心部より川越街道へ抜ける道として存在していた。大正時代の終わりまで、宮ノ下交差点から先、石川緑道を交差して続く築堤部分はなく、現在の新聞販売所の横の道を天神坂の坂下で左折し、また現在の徳丸通りにぶつかった所で右折する、といった迂回路を通った。当時、石川緑道の部分には前谷津川が流れており、大雨で水が溢れるとここらあたりの低地は冠水し、徳丸通りも寸断されてしまった。水が引くまで何日もかかり野菜の出荷も出来ない。これではかなわないと村人達が団結して現在の築堤部分を作った。(ここら辺の話しは次回にまわします。)その時に利用したのが、旧徳丸出張所から交差点までの切り通しの掘削で出た土、というわけなんですね。その結果、おそらく写真のような露頭が出現したのではないか?と思うんですよ。まあ、あくまでも推測ですが。

しかし、60年以上前にこんな見学会をするなんて、相当マニアックな先生がいたんだろうなあ。

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徳丸通りの築堤構築

Photo 前回の続き。そんなわけで前谷津川の低地を抜ける築堤構築は徳丸村人達の悲願でした。しかし、建設しようにもその費用が無い。そこで、郡議会議員や村の長老達が東京府に何度も何度も陳情しに行き、とうとう予算を獲得出来た。
 工事は、中台で土木業を営み土地の有力者だった高野音吉が請け負い、村人達を雇って作業が始まったわけです。で、旧・徳丸出張所の坂(当時は向い坂と呼ばれていたー北野神社の向い側に位置していたことから付けられた。)を掘削し、その土を敷設したトロッコに積んで埋め立て築堤を作っていったんですね。このトロッコ、当時の子供達には格好の遊び場で、勝手に乗り回しては大人に怒られたそうです。
地元では掘削工事をしている時、横穴式の土壙が出現しその穴から人骨が出て来たという話が残っている。川を望む台地上に墓があるのはよくあることで、北野神社横の今はマンション(元は牧場だった)になっている周辺からは、方形周溝墓などがいくつも発掘されている。墓という字は”草のはえる日のあたる台地の土”という意味がありますしね。
工事で一番の難関だったのは、川と交差するトンネル部分で、このトンネルで水をさばききれれなければ上流で水が溢れて一帯が水没してしまうため設計には非常に苦労したそうで、(その理由はまた次回にでも。)完成したコンクリート製の大トンネルは当時としては画期的な工法で作られていたとか。(何が画期的なのかは調べがつかないのでわかりませんが。)私もよく憶えていますけど、確かに大きくて立派なトンネルでしたね。残念ながら暗渠化工事の時壊されちゃいましたが。昭和49年頃だったかな。築堤が完成したのは大正14年でした。

 写真は現在の徳石公園から徳丸通りの築堤を撮影したもの(昭和39年頃)。手前の陸稲畑は公園になっているので、今でも面影を偲ぶことが出来ますね。この築堤、昭和40年代半ばまでガードレールもなく道の両側にドブまであってホントに危ない道路でした。建設当時は自動車なんかほとんど通らなかったからそれで良かったんですが。ガードレールが出来てから、カタツムリが大量に張り付いていたのが記憶にあります。写真左側の家のある所らへんが旧徳丸通りとの交差部分で鷹番の坂と言いますが、その坂の途中の崖から清水が湧いていて、小さな沢ガニが穫れました。ホントに徳丸って田舎でしたよ。ええ。

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前谷津川の姿

Photo 今回は前谷津川の写真をUP。前回の徳丸通りの築堤写真の右側にある木と家の間の部分から撮影(昭和39年2月)されたものと思われる。ぐにょぐにょ曲がって流れる水路が前谷津川だ。現在の暗渠化された徳丸石川緑道しか知らない人が見たら驚くでしょうねえ。実は私も直線に改修された後の景色しか憶えていない。
 もともと自然の川というものは、ずっと直線に流れていることはない。石神井川しかり荒川もまたしかり。あんな大きな荒川も、改修工事が始まったのが(板橋区近辺〜北区)明治44年から。朝霞で荒川と合流していた新河岸川も同時に延長された。きっかけは明治40年と43年の氾濫で、そのときは徳丸の低地もすっかり水没し、まるで海のようになってしまったのだとか。
 前谷津川も普段は写真の通りおとなしい川だったけど、ひとたび大水が出るとすぐに溢れてしまう暴れ川でした。水源は赤塚新町2丁目付近で途中、下赤塚駅付近を源とする支流が徳丸5丁目石川橋公園近くで合流して高島平を抜けて荒川まで流れていた。距離およそ5km。水源から終点まで純粋に板橋区内のみを流れていた川なんですね。ちなみに石川という名は川の名前じゃあなくて、崖が崩れて砂礫土層が露出しパラパラと小石が下に散らばっていた様をいうそうな。写真ではドブ川みたいだけどカニや魚も良く捕れたらしい。この後すぐに直線化され、さらに掘削してコンクリート護岸されてから暗渠化になった。直線化は区画整理と同時に進み、すぐに住宅が建ちはじめたから、暗渠になったときは川で分断されていた土地がくっついて良かったね、くらいの感覚しかなかったかな。
左上に煙突が見えるけど、黄金湯というお風呂屋さんだ。当時ここらへんはプロパンガスだったし、フロのない家も普通だった。黄金湯は10年くらい前に火事で焼けちゃったけど、その後マンションになって1階で営業を続けている。正確に確認してないけど、煙突の位置は今も変わっていないんじゃないかな。

前谷津川は暗渠化されたあと緑道になり、その沿道には桜の木が植えられて今ではすっかり桜の名所になりました。

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