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昭和30年代の東武練馬駅

30 さて、この写真は昭和30年頃に撮影された東武練馬駅です。そうそう、これですよ私の記憶にある改札口は。昨日の写真とはちょっと違いますね。駅舎部分は前回の写真に似ていたような・・。とにかく、昭和40年代まではこの雰囲気のままでした。改札口の上にある丸い照明は、夜になるとオレンジ色の明かりが点きましたが、とても薄暗くてなんだか侘しい雰囲気だったのを記憶しています。
左上に当時の切符を表示しておきました。いわゆる”硬券”という切符で、このころは窓口で購入しました。券売機が登場するのは30年代半ば以降でしたが、国鉄などへ乗り換える券は40年代まで窓口で買わなくてはなりませんでした。改札口の左側に荷物が積んでありますが、”郵便車”に乗せるのでしょうか。専用の車両に小荷物を積み込んだりする様子をうっすらと記憶しています。東上線は貨物輸送が盛んでしたので、頻繁に貨物列車が通過していました。牛が運ばれて行くのも見たことがあります。

 駅前には公衆電話ボックスが見えますね。奥の方には平屋の住宅がたくさん建っているのがわかります。ちょうどこの頃に私の両親は結婚して徳丸に引っ越してきました。郊外の手頃な住宅地として開発が始まった時期なんですね。
手前にオート三輪が駐車していますが、なんとこの広場はバスターミナルになっていたんですよ。昭和40年代の記憶ですが、徳丸通りを宮の下の交差点で右折して不動通りにぶつかった所が終点「徳丸本町」のバス停で、そこで折り返して桜台まで走っていました。あの駅前の踏切をバスが渡ってたなんて今では信じられませんね。
当時はボンネット型のバスで女性の車掌さんが乗っており、切符を販売したりバス停案内をしていました。そういえば幼稚園の頃だったか、駅からバスに乗り(ウインカーがランプ式ではなく、運転席横の窓から矢印みたいな板がピョコンと出るのが面白く、それを見たいが為にいつも運転手の後ろの席にいた。)坂を下って宮ノ下の交差点を曲がるところで運転手がカーブの目測を誤って、車輪がドブに突っ込んでしまい、その衝撃で手すりに頭をぶつけて大きなコブを作ったことは懐かしい思い出です。当時はあまりドブ(今でいう側溝ですね)に蓋がしてなくて、危なかったんですよ。ドブの壁にはかたつむりがたくさんいました。

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コメント


写真をありがとうございます。私たちは池袋東武に働いていました。彼が東武練馬の駅近くの矢作医院に入院していてお見舞いに行きました。昭和40年ごろだと思います。とても懐かしいですね。今は主人は20ねんまえになくなっております。まさか矢作医院の写真が見られたこととても感激しています。ありがとうございました。現在その場所はどうなっているのでしょうかね。私たちは42,年に結婚してずっと上福岡に家を建てて住んでいます。この写真を主人に見せたかったです。

投稿: 四ノ宮美恵子ライブ | 2020年6月17日 (水) 20時33分

>>四ノ宮美恵子ライブさま
大切な思い出をお寄せいただき、ありがとうございます。矢作医院は現在、ティップネスというプールもある大きなスポーツジムのビルとなっておりますが、一族の方は最上階にお住いのようです。医院は一帯の学校の指定医院でしたので、学校で怪我をした時にはお世話になりました。東武練馬駅の南側は大規模開発をされていないので、道路や石観音は昔のままですが、商店はすっかり様変わりし、昭和40年代頃にあった店はほとんど無いかもしれません。

投稿: オーク | 2020年6月17日 (水) 21時10分

 〉なんとこの広場はバスターミナルになっていたんですよ。昭和40年代の記憶ですが、徳丸通りを宮の下の交差点で右折して不動通りにぶつかった所が終点「徳丸本町」のバス停で、そこで折り返して桜台まで走っていました。あの駅前の踏切をバスが渡ってたなんて今では信じられませんね。

 昭和48年 北野高校入学の者です。桜台在住の級友は、バス通学をしておりました。翌年このバス路線が廃止になり、池袋経由(西武線 桜台~東武練馬)で通うことになったと、悲嘆していたことを思いだしました。
 オーク様のお蔭で、6000年前の縄文時代、海だった頃を想像しながら、しばしば徳丸の地形を味わいに出かけております。貴重な画像の数々、感謝です。

投稿: JE1RXD | 2020年11月 9日 (月) 10時42分

>>JE1RXDさま
コメントをありがとうございます。私は幼いころ車が異常に好きで、徳丸本町で折り返している国際興業のボンネットバスを飽くことなく眺めておりました。憶えている最古の行き先は桜台ですが、母親は、まきば幼稚園の説明会が豊島園であり、バスで行ったと話しておりました。昭和40年代の後半に、平和台にある塾にこのバスで通わせられておりましが、今では塾がどこにあったのかさっぱり思い出せません。

投稿: オーク | 2020年11月12日 (木) 20時30分

この度は大変貴重なお写真を見せて頂き、ありがたい思いが致します。当方、練馬区北町の産院にて出生し、徳丸1丁目にて育ち、北野高校で楽しき心豊かな学園生活を送った者でございます。徳丸は、亡父が昭和27年に小さな平屋住宅を建てて一人暮らしをしたのが始まりでした。やがて結婚で杉並や目黒に転居している間は、人に貸していましたが、私が昭和41年に生まれるのを機に、また暮らすべく戻って来た具合でした。それにしても東武練馬駅にバス停があり、西武の桜台駅と徳丸本町までが路線であったなどとは驚きでした。私の実家は今も不動通りの、イオンの坂をちょうど降りた辺りにありますが、幼児の頃(昭和43年辺り)に、通りで近所のお姉さんと撮った写真の背後に、国際興業の、後部が丸みある3枚窓の古いバスが写っていました(不動通りはその後昭和52年まで、路線がなかった記憶があります)。宮ノ下交差点で運転手さんが、ハンドル操作誤った話も興味深かったですね。大東文化会館向いのセレモニーホールは、随分の間雑木林でしたが、子供時代はあの辺りが遊び場でした。亡父からは、「不動通りは戦争中に、荒川土手から今の第一師団へ繋げる為の道路計画があり、東武練馬駅の下にトンネルを造る前に終戦になった為、お前らもあんな所で遊んでられるんだよ。繋がっていたら今は相当な通行量だったろな…」と語っていたことがあります。また貴重な写真などございましたら、是非発表お願い致します!

投稿: chokupon | 2023年5月25日 (木) 15時09分

>>chokuponさん
コメントをありがとうございます。後部が丸みある3枚窓の国際興業バス、懐かしいですね。不動通りの東武練馬駅のどん詰まり、確かにトンネルで繋げたくなりますね。戦時中にあった今の自衛隊にまでつなげる噂話は初めて聞きましたが、興味深いです。不動通りは昭和20年代の終わりか30年代初めにできたと思いますが、それまでは東武練馬駅下の崖を源泉とした前谷津川に合流する小川が流れていました。通り両側の崖はその小川が削ったものなのでしょう。

投稿: オーク | 2023年5月26日 (金) 09時01分

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