板橋区民、グラントハイツを作った男、ヒュー・B・ケーシー中尉の足跡を解明する。

Photo_20241120173801 B Photo_20241120173902Photo_20241120173903Photo_2024112017390149164842_130065410847

11月も半ばを過ぎ、今日はもう真冬の寒さとなりました。

気がつけば、当ブログの更新が途絶えて久しくなりました。10月下旬から11月は文化的行事が多く、個人行動の投稿はSNS上に行っているので、長文となる郷土研究報告がついおざなりになってしまっている。そのせいですっかりアクセス数が低下してしまうのは、自明の事。なんとか盛り返せねばならない。

で、久々の大型更新は、現在の練馬区光が丘地域にかつて存在した「グラント・ハイツ」の建設工事監督の一人であったヒュー・B・ケーシー中尉(当時)の肖像写真と足跡についてである。当ブログでは開設初期の頃から話題にし続けてきたことで、ケーシー中尉は謎多き人物として、様々な憶測を含めた記事を書いてきた。そして一年前、ケーシー中尉がグラント・ハイツのプロジェクトを終え、正規の将校となるためにアメリカ本土にある陸軍学校に入校するために帰国したことを報じる新聞記事をUPした。その記事により、彼がマッカーサーの副官であるケーシー少将の息子であることを確認することが出来た。今回は、とうとう今まで得られなかった、ケーシー中尉の肖像写真を見つけることができたのである。それと共に、記事よりもさらに詳しいケーシー中尉の足跡が判明したのである。ソースはアメリカ陸軍の資料からで、20年前から漁っていたけれど、これまでわずかな文字資料しか見あたらなかったが、最近、公開情報が多くなってきたようだ。

それではケーシー中尉の足跡を、資料を翻訳して整理し追ってみる。

ヒュー・ボイド・ケイシー少佐(1925年11月30日- 1952年1月11日)は、韓国にある米陸軍の3.500エーカー(14㎢)のキャンプ・ケイシー基地の名の由来であり、1952年に彼を記念して命名され、公式に開設された。

ケイシーはヒュー・ジョン・ケイシー将軍の息子であり、朝鮮戦争中に第7歩兵連隊と共に約2年間の戦闘を生き延びた後、第3歩兵師団司令官の副官として勤務中に、非敵対的な飛行機墜落事故で亡くなった。彼は第二次世界大戦中に陸軍に入隊し、いくつかの南太平洋作戦に参加した。戦後、彼は正規の陸軍将校に任官した。

ケイシーはアラバマ州オーバーンで生まれた。ケイシーの父、ヒュー・ジョン・ケイシー少将は、第二次世界大戦中にダグラス・マッカーサー陸軍元帥の個人スタッフとして主任技術者を務めた。ケイシーの妹、パトリシア・アダムス・ケイシーは、1973年に少将として米陸軍を退役したフランク・バトナー・クレイと結婚した。

ケイシーは1943年9月にレンセラー工科大学に入学し土木工学を学んだが、1944年初頭に陸軍に入隊するため同校を退学した。第二次世界大戦中、彼はフィリピンのレイテ島とルソン島の戦いで活躍し、2つのシルバースター勲章を授与された。

1945年8月、彼はマニラで勤務していた第808工兵航空大隊の一員だった。戦後、ケイシーは東京近郊の羽田飛行場に駐留しながら、日本における米軍のエンジニアリングプロジェクトに携わった。彼は東京の占領軍のためのワシントンハイツとグラントハイツの住宅開発のプロジェクトエンジニアだった。1948年、彼は正規軍に任命され、フォートデベンスに駐留した。 1950 年にはニュージャージー州サウスアンボイ市で発生した弾薬運搬船の爆発後の被災地にあった地雷の除去作業を支援するため、同市に派遣された熟練の地雷除去隊の隊長を務めた。

朝鮮では、第 3 歩兵師団第 7 歩兵連隊 G 中隊に所属していた。1951 年にフンマン海岸堡からの撤退中に活躍し、シルバー スターを授与され、戦場で大尉に昇進した。大尉として、彼は G 中隊の指揮官に任命された。その後間もなく、彼は第 10 軍団の指揮官であるウィリストン B. パーマー少将の上級補佐官を務めた。彼は1952年1月11日、韓国のトンドゥチョン付近で陸軍の軽飛行機が墜落し、死亡した。彼のリーダーシップと勇敢さにより、ケイシーは殊勲十字章、戦闘歩兵章、韓国従軍勲章、国連従軍勲章を授与された。

ケイシーはアーリントン国立墓地に埋葬されている。彼の死後まもなく、韓国の第1軍団予備訓練場は彼に敬意を表してキャンプ・ケイシーと名付けられた。ヒュー・B・ケイシー記念賞は、第3歩兵師団の「第7歩兵連隊の最も優れた兵士」として彼に敬意を表して設立された。

 

享年は26歳(5枚目の十字架の写真は、乗機墜落地点と思われる)なので、グラント・ハイツに現場監督として赴任してきたときは弱冠21歳の頃となる。地元古老の話では、”ケーシーは若い中尉さん”との証言が残っている。現場の建設業者からの評判はあまり良くなかったようだが、若さゆえに舐められてはいけない、とか責任の重さや、父親の期待に答えねばとの重圧もあったのだろうかと推察する。これからさらに調査の深度を深め、ご遺族との接触まで進めば良いのだけれど、ケーシー中尉は独身だったようで、他に兄弟は弟と妹がいたけれど、弟は没年もわからず追跡はなかなか困難な作業のようだ。近年、陸軍に入隊していた妹の娘が、韓国のキャンプ・ケーシー基地に赴任し、米陸軍の機関紙「スターアンドストライプ」に載った記事を見たので、そこら辺りが突破口となれば、占領下の日本時代のケーシー中尉の写真の発見に至るかもしれない。かな?

| | コメント (0)

«板橋区民、秋の夜長に江戸近郊農村とシティポップ誕生の背景に思いを馳せる。(檄文)