板橋区民、原点回帰する。(何度でも)

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医者「すぐに手術です。」

板橋区民「そ、そんな‥一度家に帰らせてください!ガスの元栓しめたり生ごみを処分しないと」

医者「だめです。あなた数時間後に死にますよ」

そんなやり取りの末すぐにERへ送られ手術を受けたのは2月の下旬、「どうしても赤塚郷へ帰りたい!」と駄々をこねまくって無理やり退院して3週間が過ぎ、ようやく普通の生活を取り戻しつつある今日この頃。

ふたたび板橋区に関する資料であふれかえる我が赤塚郷土資料研究室に戻れたことに感謝を捧げつつ、ほとんど手付かずになっていた最新収集資料に目を通す。やっぱりね、一番の楽しみは生まれ育った徳丸の昔の風景を眺めることですよ。昔のレアな写真が新たに発見できる機会はそうそうないけれど、飽きることなく趣味を続けていると、ある時ふと幸運の女神がそっと資料の存在を示してくれることがあるのだ。

今回も、そんな気まぐれな幸運の女神が呉れた資料を紹介する。

冒頭の写真は、現在のイオン板橋の駐車場棟あたりから不動通りを三田線西台駅方面へ向かって撮影した景色で、右の写真は、現在の板橋有徳高校の場所にあった北野高校の初代校舎(左端の建物)の屋上から、高島平、西台駅方向を撮影したものだ。左側奥に映る丘陵は徳丸6丁目の高台だろう。不動通りは、昭和20年代半ばから宅地造成が始まり、それまでの明治や江戸時代の面影の残った風景が一変し、あっという間に住宅地と化してしまった。

とりわけ板橋区民が懐かしく思うのは、徳丸6丁目の丘陵だ。なぜなら、板橋区民はそこで生まれ育ち、遊びまわった場所だからだ。まだところどころに茅葺の家が点在し、大根やキャベツ畑や茶畑や昼なお暗い大木の林や竹林、バッタがわんさかいた草原など本当に自然豊かな丘陵だった。この丘陵は昭和40年代に入ってから宅地開発が始まり、昭和50年代に埋蔵文化財の法律が整備されると、それに則って遺跡調査が行われ、旧石器時代から人が暮らした痕跡が見つかり、縄文、弥生、古墳時代へと途切れることなく綿々と旧・徳丸人が住み続けた素晴らしい土地であることが証明された。

古墳時代に入ってからの6丁目丘陵には方形周溝墓という古代の墓が多数見つかっているが、「」という字を分解すると「の当たるの生える地の」となり、死者はそんな良好な土地に眠ったのであった。ちなみに徳丸北野神社はその方形周溝墓の真ん中に建っているのである。(成増の菅原神社も同様)

板橋区民が幼少の頃はまだガスもプロパンだったし、風呂はマキで炊き水道も共同井戸(手汲みではなく一箇所で電動ポンプで汲み上げ各家庭に供給する方式で、しょっちゅう停電で断水した)で、トイレも当然汲み取りボットン便所だった。暖かくなると銀蠅が大量発生して困ったもんだったし、誤って御不浄に落としたスリッパを汲み取り屋が玄関前に放り投げていたりしたっけなあ。。

 

長じてから親に対し、なんでこんな駅から離れた坂道の多いド田舎に家を構えたんだ?と散々文句を言ったのだが、今はもうすべてが懐かしい。写真に映るあの丘陵に確かに自分はいたのだと、遠い目で見つめるのみである。

 

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